第7章‐5 一番の宝物

「アイドル……できないって、えっ……」


 嘘……だよな? 俺はしほりんの口からもうアイドルできないなんて、そんな言葉が出てくることを想定していなかった。だから必要以上に戸惑ってしまったのだ。


「それは、えっと……どういう……」


「……私、もうアイドルやめるんです」


 今度はさっきよりもはっきりとした言葉だった。


「じょ、冗談……なわけ……じゃないよね、きっと……」


「はい……」


 しほりんはベンチに座って下を向いたまま。両ひざの上でスカートをぎゅっと握ったまま、少しだけ震える肩。


「な、何で……?」


「そ、そんなの、もうわかってるんでしょう? どうして聞くんですか……」


「え、えっと……ごめん」


「……謝らないでください。お兄様は何も悪くないんですから」


「いや……だって俺は、何も知らなくて、それでしほりんの力になってるつもりで、何もわかってなくて、しほりんの力になってあげられてなかった」


「そんなことないです。お兄様はすごく私の支えになってくれてました。毎日勉強見てくれて、親身になって自分の事のように頑張ってくれて、私それだけで、救われてたんです。だから、お兄様には本当に感謝しているんです」


「でも……結局しほりんの力に、なれなかった」


「そんなこと……ないです……」


「どうして、話してくれなかったの?」


「……だって、それは私の問題で……」


「そうかもしれないけど、話してほしかった。話してくれてたらもっと……」


「お兄様にこれ以上迷惑をおかけするわけにはいきませんでした。お兄様には十分すぎるほどお世話になってて……だからあとは私自身の問題だったんです」


「でも……」


「それに、話したとしても……結局こうなってたと思います。だからもういいんです」


 下を向いたまま、それでもはっきりと一言一言喋るしほりん。いつもの彼女の柔らかな楽し気な様子からは、想像もつかない。俺は戸惑うしかなかったし、正直そんな彼女の姿は見たくはなかった。



「しほりんは……それでいいの?」



「……はい」


「本当に?」


「はい、もういいです」


「そんな……しほりんはあんなにアイドルが好きで、そしてあんなに頑張ってて、そんな簡単にあきらめるなんて……らしくないよ」


「らしくないって……なんですか?」


「え?」


「お兄様は知らないだけです。いつも格好つけてただけなんです。本当の私は弱くてちっぽけで自分ひとりじゃ何もできない弱虫のどうしようもない……ダメダメなんです」


「そんな……そんなことない! 俺はしほりんの近くでずっとしほりんが頑張ってる姿を見てた。しほりんはどうしようもなくなんてない!」


「……ありがとうございますお兄様。でももういいです」


「しほりん……?」


「私はもう十分頑張ってきました。全力を尽くしました。たくさんいい思いもしました。だからアイドルはもういいんです」


「そんなの……しほりんの、本心じゃ……ないよね?」




「本心じゃなかったらどうだって言うんですか?」




 それは今までに一度も聞いたことないような冷たい音だった。


「私がどう思おうがもう無理なんです。私はまだ中学生でっ、一人じゃ何も決められない、何もできない……私にはどうすることもできないんです……だったら」


 どうやら俺はまた間違えたらしい。しほりんの声のトーンが上がった。




「だったら……諦めるしかないじゃないですかっ!」




 しほりんの痛々しい声がただ虚しく響いた。その声がいつまでも俺の耳の奥で反響し続けている。ただ気持ちばかりが逸ってどうしていいかわからない。いやだ。こんな気持ちになんかなりたくない。どうして、どうしてこうなった……


 どれだけたっただろう、沈黙が二人の間を支配していた。俺の思考はただむやみにぐるぐると彷徨うだけ、心ばかりが焦って何か言いたいのだが、言葉が口から出てこない。怖いのだ。もうこれ以上しほりんを傷つけたくない。いやそうじゃない。今まで見たことのない彼女の姿を俺は見たくないのだ。怖いのだ。そしてこの期に及んで俺は彼女に嫌われることを恐れている。なんと汚い、自分勝手な、底意地の悪い人間なのだろうか。


「ごめんなさい……こんなの、八つ当たりもいいところですよね……」


 あろうことか、先に口を開いたのはしほりんだった。こんなとこでも気を使わせてしまった。本当にどうしようもない俺。でも情けないことに喉から言葉が出てこないままだった。


「お兄様、今まで本当にお世話になりました」


 彼女はそう言って立ち上がった。俺は思わず顔を上げた。何か言わなくちゃいけない。彼女を引き留めなきゃいけない。なのに何も言葉が浮かんでこない。


「お兄様にそんな顔させて……本当にダメですね私……ごめんなさい。でも私、頑張ったこと、後悔してませんから、全然。そして最後にお兄様と一緒に勉強頑張ったこと、本当に楽しかったし、誇りに思っていますから。今までの私の、一番の、最高の宝物です」


 本当に、きれいな顔だなあ。彼女の涙を見るのは多分2回目だなあ、そしてあのステージの時よりもさらに近いなあ、これって貴重な経験だよなあ……しほりんの綺麗な泣き顔を見ながら不謹慎な思考ばかりあふれてくる、俺はもうどうしようもない奴だ。


「ちゃんと卒業ライブには来てくださいね? また亜季乃さんと一緒に見られるいい席をご用意しますので」


 彼女は取り出したハンカチで目元を拭うと、さっきまでの涙が嘘のように、晴れやかな、いつもの笑顔を見せて小さく微笑んだ。


「それでは失礼いたします、お兄様」


 あっ……


 何か言わないと……でも結局、最後まで俺は何も言うことはなかった。ベンチから立ち上がって、ただぼんやりとしほりんの遠ざかる後ろ姿を見つめるだけしかできなかった。








 その晩、公式HPで正式に、しほりんの卒業と卒業ライブのお知らせが、発表された。


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