第6章-7 矜持
その時だった。しほりんは顔を上げて真っすぐにこっちを見た。つまり、カメラの方を向き、そして近づいてきた。
「まず、そこのカメラの方、撮影をやめてください。ここは公共の場です。今日はイベント許可もとっていませんからみなさんに迷惑が掛かります。」
しほりんの凛々しい表情が一瞬大きく揺らいだ。その動画のブレは、今まさに撮影しているであろう「彼」に向かっての警告に対する彼の心の動揺のようだった。しかしまだ映像は続く。
しほりんは次に集まった人たちの方を向いて、一つ頭を下げた。
「みなさん、ごめんなさい。実は今日はイベントではありません。誰かがサイン会と言ったらしいので勘違いさせてしまったのだと思いますが、今日はプライベートで買い物に来ているだけなんです。イベント許可もとっていないのでサインをすると会社の方やモール側に迷惑が掛かってしまいます。ですから今日はサインはできません。本当はここにいる皆様全員にサインさせていただきたいのですが……せっかく集まっていただいたのにすみません」
よく通る声だった。一瞬周囲は静まり返ったが、そのうちに「え、どゆこと?」「嘘だったってこと?」「誰よサイン会って言ったの?」「そこのサングラスの人が」「あ、私も」周囲がざわつき始めた。司会風を装っていたチャラ男に目が向けられる。一瞬たじろいだように見えたチャラ男、しかし何も言う事はなかった。
「ただ、来月このモールの中央広場でミニライブがあります。もしよろしければ皆さんその時にお見えになっていただければ、きっと楽しんでもらえるのではと思います。その時にはきっとサインもできると思いますので」
周囲から小さい歓声が起こる。
「みなさん、今日はお集まりいただきありがとうございました。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。願わくは来月みなさんにお越しいただければ、と。またここで皆様にお会いできるのを楽しみにしています」
しほりんはそう言って最後にもう一度頭を下げた。
あろうことか騙されて連れて来られたはずの人々の間から拍手が沸き起こった。そこでしほりんはようやく、いつもの彼女のものに近い柔らかな表情を見せたのだった。
「おーいおいおい……」
さっきから一言も発してなかったチャラ男の声だった。しほりんにゆらゆらと詰め寄っていく。
「サインしないってさぁ……それマジで言ってるぅ? ここまでしてやって、ファンを裏切るってのかぁ? お前それでもアイドルなのかぁっ~?」
「もしかしてあなたなのですね? 皆さんに嘘をついて迷惑をかけたのは……」
「嘘なんかじゃねえけど~? しっほりんが変なこと言わずにサインさえしてくれてたら、なーんの迷惑にもなってないんだけどなあ?」
「あなた……」
「ファンにサインの一つもできなくてさぁ、アイドルやっていけんのぉ? アイドル失格じゃねえのかあ?」
「私は曲がりなりにもアイドルです。だからこそ私は今ここでサインをするわけにはいきません」
「はぁっ!? なんでそうなんのよ!?」
「それは告知していないからです。もしサイン会があるとなると、すべての予定を投げ捨ててでもここに来たいと思ってくださるファンの方はたくさんいます。ファンの方々を大事にするのであれば、大事にしたいからこそ、どうしても今この場でサインすることはできないんです」
「っざけんなぁっ、屁理屈ばっかこねやがってこの……」
「おい、そこまでにしとけ、さすがにマズいぞお前……」
画面が大きくぶれる。そう、止めに入ったカメラマン役の言う通りだった。”そこ”までで終わっとけばまだよかったのかもしれない。でなければ、今こうなってはいないはずなのだから。俺と同じく動画を食い入るように見つめている女社長の顔を見た。
「どうした、一体何の騒ぎなんだ?」
そこにいた人物を俺は今初めて見た。しかしそれが誰かはすぐ認識できてしまった。そして、そこから先の展開が俺には何となく予想できてしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます