第1章 ラブストーリーは忽然に

 俺は、その時確かに苛立っていたのだろう。


 理由はいくつかある。まず、先週末のテストの結果がすこぶる悪かった。それだけならさして珍しいことではない、むしろ平常運転である。地元では神童などと持てはやされ将来を嘱望されていた俺も、ちょっと偏差値の高いこの高校ではどんぐり共の中に埋もれてしまっていた。(いや、もはや下からこぼれ落ちそうである)


 だが今日に限って言えば担任の十郷の餌食になってしまったのが運の尽きだった。5限の英語の授業中に当てられた問題「自動詞lie(横になる)と他動詞lay(~を横にする)」の違いがわからず、軽く怒られてしまった。lieの過去形がlayでややこしく自動詞・他動詞の説明にもよく使われる定番問題だとかなんとか……いや、知らんし。


 さらに悪いことには(What made matters worse)ホームルームの後まだ多くのクラスメイトが残っているところで、名指しで居残りを指示される時点で恥。そのまま公開処刑に直行、授業態度が悪いだの、直近の確認テストの点が悪いだの、この進学校にこんな生徒がいるなんて情けないだの、自覚が足りないだの……とかなりのお小言をくらってしまったのである。もちろん彼の言い分は尤もである、こちらの非は認めようではないか。しかしこれには厄介にもなかなか歯の間から取れない青菜のような私怨というものが大いに挟まっているのだ。

 つい先日、授業中に机の下で本を隠し読んでいたのがばれてしまった。こちらとしては「英文法を学んでもネイティブにはなれない、むしろその邪魔になる」という偏屈したポリシーに忠実に従ったまでなのだが。ただまあ……やっぱ怒るよね?


 それ以来やたらと目の敵にされていた。昨今は皆授業中でも机の下でスマホゲーやメッセ返信にぽちぽち忙しいんだから、本などはまだ可愛い方、むしろ優秀だと思うのだが。


 そんな風に珍しく苛々していたからだろうか、生まれて初めてだ、こんな仕打ちにあったのは。俺は路上に座り込んで、たった今この俺をその身一つで転ばせた、そこにいまいましく転がっている空き缶を睨み付ける。朝からなんたらの缶コーヒーのだった。痛ってえ。手をついて起き上がる。幸い頭は打ってない。それにしてもこのご時世未だにポイ捨てする下賤な輩がいるのか……とかくこの世は住みにくい。


 俺は立ち上がって軽く尻を払って、そして見事俺をスリップさせたバナナ…じゃない空き缶をひっつかんで、おあつらえ向きにその場に置かれていた公園のごみ箱に思いっきりぶちこむと、バッコーンという気持ちのいい音がした。そして、


 あろうことか俺の顔面に直撃した。


 どうやらゴミ箱の外枠に当たって奇跡的な確率で跳ね返ってきたらしい。痛ってえ。俺は思わずおでこを抑えてしゃがみこんだ。畜生! なんて日だ! 俺はもう一度その缶をつかんで大きく振りかぶった。その時だった。



「ぷっ」



 声がした。すぐ近くで。予想外の事態に俺はうろたえた。そりゃそうだ。誰もいるはずのない、と思っていたはずの方から音がしたら、きっと誰だって驚くに違いない。ましてこんな状況を他人に見られでもしたらと想像するだけで身の毛がよだつ思いだろう、大抵はその危惧は危惧のままで終わるはずだ。俺は念のため誰もいないことを確認するためにおそるおそる振り向いた。よかった。そこには誰もいな……


 いた。


 しかも女子。思いっきり目が合ってしまって反射的に目を逸らしてしまう。普通に恥ずいヤバイ穴があったら入りたい。一体いつから見られてたというのか、おい。俺はますます気が動転してしまって、とりあえず空き缶を拾ってもう一度ゴミ箱に投げ込んだ。今度はあらぬ方向にとんで行ってしまって向こう側の舗道にころころと転がっていった。


「……くっ、きゃはははっ」


 ばっと彼女のほうを向く。めっちゃ笑ってる。やばい恥ずい穴があったら入りたいむしろ入った穴をそのまま穴ほと埋めてほしい。彼女は俺がずっと見ているのにさすがに気付いて、慌てて口を手で押さえて、そして今ここで何事もなかったかのように通り過ぎていこうとする。俺はとりあえず何か弁解したかったのだが、呼び止められるわけもなく、ただしゃがんで彼女が通り過ぎていくのを見ているだけしかできない。彼女が一度こちらを振り返ってきて一瞬目があった。思わず目を逸らしてしまう。


「拾わないの?」


 ん? いったい彼女は……あっ、空き缶! そうだ。まだ転がったままだ。はっ、俺はまた慌てて缶を取りに行こうとして、また笑われてしまった。

 俺は今度こそ空き缶をつかんで見事ゴミ箱に放り込むことに成功した。どうだ、やってやったぞ! 彼女の方を見たが、もうこちらを見ることなくすたすたと歩いて去って行くところだった。肝心な場面は見てないのね、まったくだ。

 さっさと帰ろう。かばんを拾い上げ歩き出したときだった。向こうから歩いてきていたおばあさんがちょうど俺の目の前で転びかけた、危ない! とっさにおばあさんんの方へと駆け寄る。幸いそのおばあさんは転ばずに済んだ。しかし、その拍子におばあさんが持っていた荷物から中身が飛び出してしまった。俺の方にコロコロと丸い何か……玉ねぎとかが転がってきた。


「ごめんなさいねぇ」

「いえいえ、大丈夫ですか」

「ええ、転ばなくてすんでよかったけれど、申し訳ないわ」

「ケガがなくてよかったです」


 優しそうなおばあさんだった。幸い固めの野菜ばっかりで、つぶれてしまったものもなさそうだ、とにかく玉ねぎとかピーマンとかをおばあさんの袋に戻す。向こうに転がってるりんごに手をのばそうとしたときだった。

 何かにぶつかったのと、ドスンという音がしたのと、「きゃっ」という声がしたのと、とっさに声の方に振り向いた先に眩しい白色が目に飛び込んできたのは、全部同時だったように思う。いや、俺も気が動転してしまっていて、何がどうなって、何が起こっているのか、全く事態が呑み込めなかった。落ち着いて事態を確認すると、目の前に制服姿の女子が座りこんでいたのだった。


「あらあら、だいじょうぶ?」

「いえ、全然平気で……っ」


 彼女は無造作に地面に座っていた。スカートがめくれてしまっていて露わになった白くて長い脚が俺の目の前にあった。至近距離で女子の脚を凝視するという体験などあるはずがない俺……ついつい目線を逸らすのが遅れてしまった。もう遅い。慌てて彼女がスカートを抑える。そしてキッとこちらの顔を見上げてくる。いや、俺悪くないよね? 不可抗力だから!


「ねえ……見た?」

「……」

「見たよね?」

「…………見てません」

「思いっきり見てたじゃん」

 

 詰め寄られる俺。弁解したいのは山々だが口は鯉のようにぱくぱくするだけ。対女子経験値は皆無に等しいのだから仕方ない面目ない。それに正直に言うと、あまりに突然のことでほとんど記憶に残っていない、つまり是即ち見ていない、と言っても過言ではないし、というか何を見たと聞かれているわけでもないので、いやその意図する物が仮に何であったとしても、俺は見ていない、と言い張りたい。のに、のにである。幼気な目で責められているうちにしてもいない罪を自白しそうになっている自分が怖い。これが痴漢冤罪というやつなのか? 一体俺はどうすればいいのだ? それでも俺は、ヤってない。


「若いっていいわねえ」

 ちょ、おばあさん、何言ってるんですか!?

「さぁ、早く起こしてあげないと」

「へ?」

「な!」


 おばあさんがにっこり笑いながらそんなことを言ってきて、いやいやそんな急に言われても心の準備が……俺は彼女をちらっと見て、なけなしのちっぽけな勇気を振り絞りに振り絞って彼女に向かって右手を差し出した。彼女はさっきより殺意2割増しの目でこちらを睨み付けてきて、俺は直視できずに思わず目線を宙にさまよわす。彼女は無言のままこちらの手には一瞥もくれずに立ち上がった。スカートの裾をぱたぱたっとはたいて、そして俺がさっき拾おうとしたりんごを拾いあげておばあさんに手渡した。


「本当にありがとうねえ、お二人のおかげで助かったわあ」

「いえいえ大したことは……」

「おばあちゃん、荷物家まで持ってあげる」

 彼女の申し出におばあさんはにっこりと微笑んで、

「とてもうれしいけど、もう大丈夫よ。気遣ってくれてありがとうねえ」

「いえいえそんな」

 おばあさんは今度は野菜の入った紙袋をしっかり両手でぎゅっと抱えて

「本当にありがとう、お二人さん。これからも仲良くね」

 ん? なんか、台詞がちょっとおかしい気がする。おばあさんはニコニコしながら俺の方に向いて小声で

「とっても可愛い彼女さんなんだから、彼氏さんはやさしくしなきゃだめよ?」


「へ?」

「な!」


二人同時に声が出た。なんという予想はるか斜め上の勘違いだろうか。

「ち違うのおばあちゃん! この人は何も関係なくて」

「そ、そうです。さっき会ったばっかりって言うか」

 おばあさんはまたにっこりと微笑んで手をひらひらさせながら、

「いいのよお、照れなくて。お似合いよとっても」

「ほ本当に違うんですっ! アカの他人なんですっ! 誰がこんなヤツと……」

 そこまで全力で否定されるとなんか結構落ち込んでしまうが。まあ事実だからしょうがない。おばあさんは目を丸くして

「あら、そうなの? 勘違いしてごめんなさいねえ。とっても楽しそうな雰囲気だったからてっきり……でも、とってもお似合いのカップルだわ」

 ははは……

 俺は苦笑いで彼女の方をチラ見したが、彼女は口元では笑みを浮かべながらも顔をひきつらせていて、しかも目は全然笑っていなかった。こちらに気付いて無言で冷めた視線を送ってくる。「何言ってんのこのゴミ虫」って言ってる。もちろんセリフは俺の脳内変換だが、多分合ってる。

「おじいさんも元気だったら今頃……」

 その言葉に俺ははっとした。目を細めて遠くを見るような柔らかい表情。もしかして寂しかったのかもしれない、それでからかって……

 しかしその感傷すら吹っ飛ぶ爆弾が投下された。


「ねえ、せっかくじゃない? これを機にお付き合いしてみたらどうかしら?」


「「はぁ⁉」」


 二人とも声が裏返ってしまった。うん、これは仕方ない。

「だからおばあちゃん? 私たちはアカの他人でさっき会ったばかりで……」

「人に優しくできる思いやりのある二人だから、きっと暖かな家庭を築いて……」

「だからおばあちゃん? 私たちは……」

「さしずめ私は恋のキューピッドってとこかしら?」

「おばあちゃんっ!!!」


 おばあさんは何度もこちらを振り返って楽しそうに手を振りながら帰っていった。なんともパワフルでトキメキ☆ハイテンション↑↑でお茶目なおばあさんだった。取り残された二人を襲う気まずい沈黙。そして俺みたいに冴えない野郎と脳内でカップルにされてしまった彼女は、こちらを見るなり冷徹な視線をよこし、無言で背を向け歩き出す。このまま無視すべきだと思った。思ったのだが、


「あ、あの……」


 口から変な声が出ていた。彼女が振り返って怪訝そうな顔をする。


「何?」


 冷たい視線に言葉が詰まる。勇気を出せ。出すんだジョー。

「さ、さっきはごごめん、ぶつかっちゃって」

 言うや否や顔を背ける。情けない……。だけどとりあえず謝罪はした。筋を通した。よし、帰ろう。

「そ、それじゃ……」


「ねえ」


「へ?」

もう一度呼び止められるとは思わなかったので、焦って変な声が出る。

「謝るの、それだけ?」

「え?……」

 何言ってるのかが全然わからなかったが、次第に彼女の頬が若干赤く染まっていくのはわかった。

「だ、だから……さっき私の……見た、でしょ?」

 え? また思考回路がぐるぐるし始める。

「み、見てない……」

「嘘」

「ほ、本当だって」

 こちらを覗き込んでくる彼女の顔、もう限界だった。

「ご、ごめん」

 とりあえず謝るのは俺の悪い癖であろう。しかし相手がこう言ってる以上謝らないのはよくない気がしてしまったのだ。ただ痴漢冤罪とかで簡単に嘘の自白をしてしまうのはよくないに決まっている。我ながら将来が心配だ。


「いいよ」


「え?」

「許したげる」

 そう言って照れたように笑うその表情はまるで天使のそれに思えた。ちょうど夕陽の光が彼女の頬を赤く染めている。

「あ、ありがとう……」


「スパッツ履いてるから別に大丈夫だし」

 

 は?

 は?

 大丈夫なんかーい!

 ていうか何? 俺の謝った意味は? ていうかこの一連の問答意味あった? 彼女はさっきの恥ずかしそうな表情一転にやにやとこちらの顔を覗き込んでくる。挙句の果てには舌をベーと出して、くるりと振り返りそのまま去って行ったのだった。

 は? 今のは何? 俺遊ばれたの?

 天使かと思った彼女は、どうも悪魔だったらしい。

 実は俺の帰る方向も彼女と同じだったのだが、このまま歩いていくのは気まずかったし、ストーカー呼ばわりもされたくなかった。時間つぶしに近くにあったベンチに腰かけ休憩。見上げると広がる夕暮れの空、茜色に染まった雲が鮮やかに浮かび上がって、綺麗だった。しかしどうしても脳裏に浮かぶは、間違いなく俺の人生史上Top3にはランクインするだろう黒歴史―そして天使のようで悪魔であった彼女の最後の表情……俺はぶるぶると首を振った。


 たった一つ言えることがあるとするのならば、確かに顔は可愛かった。









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