第8話 壊し屋

      *

 深海夏生ふかみなつきの記憶は、鮮明だ。

今でも全てを覚え、過去に起きた事を一切忘れる事がない。

 幼くして両親を〈人蚊モスキル〉に殺された事も――。その瞬間の――顔も、声も、全てを覚えている。

 S型のあおいを生んだ事で呼び寄せてしまい、身体を張って娘二人を護った両親は死に――、まだ幼かった夏生と藍は『殺虫隊』に保護された。

 頼れる親戚がいなかった二人は両親が残した遺産で何とか生活し――、全寮制の百合野ゆりの学院へ入学した。

 その時、夏生は満足していた。学院は大学部まであり、就職するまでは安全だ。このまま学院に就職して一生を過ごすにしろ、学院以外の警備が厳重な場所に就職するにしろ、今まで通り姉妹二人で協力し合って生きていけば良い。

 他人から見れば、窮屈な生活かも知れないが、夏生は満足だった。


 だが、そんなささやかな幸福を踏みにじるように――〝アレ〟は、またやって来た。


 藍が中等部から高等部へ進学する少し前。一体の〈人蚊モスキル〉が学園に侵入した。

 学園は『殺虫隊』と連携しており、その保護を受けている。そのため、系列学園も数が限られる、名門中の名門校だ。

 何故侵入出来たのか、原因は不明であり――所詮、人の手で作った警備システムだ。綻びくらいはある。誰かがそんな事を言っていたような気がする。

 当時の夏生は、唯一そこの記憶だけは曖昧だ。

 覚えているのは一つ――藍の亡骸。

 騒ぎを聞きつけて夏生が彼女の部屋へと飛び込んだ時、既に藍は息絶えていた。


 全身の血を抜かれて真っ白な――〝残骸ゴミ〟と化して。

       *


「ああ、そうだ。ジェットさんだ」


 咄嗟に〈人蚊モスキル〉の妨害をした小さな――、本当に小さな『蚊』は今では彼の近くに浮遊する。

 ジェットの両手には殺虫銃が二丁あり、近くにはカレンの部下が倒れている。

「ジェットさん。何で、ここに……」

「こいつらが、教えてくれたんだよ」

 ジェットは自分の周りを浮遊する数匹の『蚊』を見せ物のように指に止める。訓練されたサーカスの動物のように、人差し指を立てただけで『蚊』は隊列を組んで彼の指の周囲を回る。

 虫に芸をしこませて、それを見せる行為は嫌悪されがちであるが、何故だろう――。

 彼の『蚊』は今の状況を忘れる程の〝感心〟を与える。

 しかし、彼が従えている『蚊』の中に、一匹だけ元気のない動きをしている。

 夏生が発射した殺虫剤は広範囲に及び、近くにいた〈人蚊モスキル〉達は全員毒に侵された。その巻き添えをくらった筈なのに、何故か、その虫はフラつきながらも命をギリギリの所で繋ぎ止める。

 そして、最後の力を振り絞るようにジェット見上げ――、やがて地面に落ちた。

 ――何で……こんな気持ちに。

 ――たかが虫一匹死んだだけじゃない。なのに、何で……これじゃあ、私が虫の死を嘆いているみたいじゃない。

 小さな羽虫の命に、何故そんな事を思ったのかは分からないが。

「お疲れ様。よく頑張ったな、藤堂とうどう

 虫の雄姿を称えるように呟いた後、ジェットは再び顔を上げる。そして、サングラス越しにカレンを見て、敵と判断すると――、

「……お前、三枝さえぐさか?」

 カレンの姿を見るなり、ジェットは分かりやすい驚愕をした。

「また、大胆なイメチェンだな。これだから、年頃の女ってのは……」

「違います。空気読んで下さい。大体、カレンさんの正体については、ジェットさんだって薄々勘付いていたんじゃないですか?」

「まあな。まさか、とは思ってはいたんが、案の定とは。残念。俺、あっちのビッ●ぽい感じの方が好みだったのに」

『あんた、そんな風に私を見て……! じゃない! あんたも気付いていたの?』

「気付いていないとでも思っていたのか? お前は」

 いつになく冷たくジェットは言った。

 ジェットは、カレンに対してだけ冷たかった。元々、失礼な態度が多く、上司の福留幸ふくとめさちや年下の夏生に対しても確かに素っ気ないが――、少なくとも冷たくはなかった。彼がそういう態度を取るのは、カレン一人だけだ。

「特別班はミソッカスの集まりとでも思っていたのか? 確かに俺達は優秀じゃねえが、それでも……『殺虫隊さっちゅうたい』なんだよ」

『……ッ』

 ジェットの「敵」を見る眼差しに、カレンは怯んだ。

「大体、お前……くっせんだよ。蟲臭においを誤魔化そうと香水かけすぎ」

『なっ……!』

 カレンは顔を真っ赤にした。それを見向きもせず、ジェットは言う。

「まあ、そうへこむな。俺は〝特別〟だからな。他の奴と嗅覚が違うんだよ。きっつい香水の中にほのかに蟲臭においが交じっていた。だから、俺は〝もしかして〟と思っただけだ。まあ、どっかの戦闘狂はそこまで考えちゃなさそうだから、気付いちゃいねえだろうけど」

「ジェットさん。何の慰めにもなっていませんよ」

「うるせぇ。つうか、これはどういう状況なんだ?」

「三枝カレンが、《殺虫隊》を中から崩すために特別班に潜伏していた〈人蚊モスキル〉だった。今までも、〈人蚊モスキル〉が、何処かの組織や集団に潜り込むケースはありましたからね。別に珍しい事じゃないですが」

 実際、人間に化けて餌だらけの彼女達にとっての最高の狩場でたらふく喰らおうとする〈人蚊モスキル〉は初めてではない。たくさんの血や弱った人間の集まる病院や、若い子供の集う学校、中には裏の社会で人間の上に立つ〈人蚊モスキル〉もいると聞く。

「まあ、『殺虫隊』に潜り込む事は今回が初めてだと思いますよ」

 あくまで事務的に答える夏生に、ジェットも何かの変化を感じたのか、サングラス越しに目を細めた。しかし、今は目の前の敵に集中しようと――、彼は夏生を一瞥した後、再びカレンに視線を戻す。

『わ、私達なんかに構っていていいの?』

「どういう意味だ?」

『何で、ここまで少数で挑んだのか、考えなかった? S型を得るのに、もっとも脅威となるべき存在の排除。それが、最優先』

「班長、か。命知らずな事を……。命は粗末に扱うものじゃねえぞ」

 敵に同情するように、ジェットは言った。それは夏生も思った事だ。あの「化け物」相手では、どんなに数の暴力をぶつけても犬死にとなるだけだ。

『確かに、普段の『壊し屋』なら簡単には行かないでしょうね』

 含みのある言い方に、ジェットではなく、夏生は目を見開いた。

 ――やっぱり……そういう事か。

 今朝から感じていた予感が、確信に変わった。

『もうあの女は終わり! きっと今頃凄い事になっているわよ』

 切り札はこちらにあると言わんばかりに高笑いするカレンに、夏生は嫌味ではなく、素直に、本当に素直に、同情した。

 彼女の方法は決して悪くはない。悪いのは〝相手〟だ。


 何故なら――、『壊し屋』は「壊す」事が専門なのだから。


       *


 きっと今頃凄い事になっている。

 そう言ったカレンの言葉は一方で合っており、一方で間違っていた。


 時間は少し遡る。

 福留幸ふくとめさちは眠気を感じて居間のソファで横になっていた。普段は「班長」という名札付きの机の上で寝ているのだが、今日の眠気はいつになくひどい。

 ――働きすぎで疲れたのか?

 ジェットがいたら文句の一つでも返ってきそうな事を思いながら、幸は目を閉じる。

 しかし、眠い。とても、眠い。あり得ない程に、眠い。

 ――何なんだ、この強烈な眠気は?

 目を閉じながら、幸は自分の行動を振り返る。

 たしか、香恋のコーヒーを飲んだ後、ビスケット食べて、ポテトチップス白醤油味食べて、ウイスキーボンボン食べながら雑誌読んで――。

 その後、〝春日かすかレイ〟からのメール見て……。

 ――そうだ、そうだ! そのへんで眠くなってきたんだった。

 しかし、何で急に眠くなったのだろうか。それに、身体が少しだるい。筋肉痛とは少し違うようだが――。

「……あ!」

 思い当たる節があった幸は、大袈裟に手を叩いた。

「あー、そうか。俺がこんなに眠いのは、きっと……こいつらのせいだ」

 アジトの玄関から、居間にかけて異臭が漂う。蟲臭においでもなければ、約二名の強烈な香水の匂いでもない。


 血――。


 胸焼けがするような血生臭さ――。

 壁や柱に染み込む程にその匂いでいっぱいだった。

 緑色の液体に侵食された床。そして、〝破壊〟された壁。

 もう掃除しても拭い切れないだろう〝汚れ〟がべったり張り付いて取れない。

 もしここに正常な人間がいれば、その場で失神するだろう。

 しかし、正常な人間がいない今、この場は静寂に包まれている。

「それにしても……」

 ふいに、幸は周囲を見渡し、落胆の溜め息を吐いた。

「本当に脆い建物だな」

 ――そろそろ、次の事務所に引っ越すかな。また上の連中に文句言われそうだけど。

「ヤワな建物で困るぜ。今度はもっと頑丈なものを用意しろよな」


 建物がダメになるのは、これで何回目になるか。


「あーあ。今度は何処に引っ越すんだろう。引っ越しって結構体力使うから嫌なんだけどなー。面倒だし」

 殺人現場のような部屋の中、幸は唯一残ったソファに寝転がりながら空を見上げる。天井が破壊されたせいで、夕空がはっきりと見える。

 そして、幸が眠るソファを囲むように――〝残骸〟だけが周囲に散らばっていた。

 血に汚れた透明な翅や人の腕や臓器のようなものが幾つも落ちており――、人によっては吐き気を訴える者もいる。中には、幸によって踏み潰された〝残骸の残骸〟もあり、およそ普通の人間がいられる場所ではない。

 しかし、幸は一切気に留めず――、暇そうに欠伸をした。


 『壊し屋』は、人間というカテゴリに入れるにはあまりにイレギュラーな存在である。


 元は、国が秘密裏に組織していた特殊な戦闘集団――通称『C(クレイジー)・C(チルドレン)』の一員であり、国の敵を駆逐するために集められた子どもの一人だった。

 当時他国との戦争で苦戦していた日本は、強い兵士を作り出すために戦争孤児など身寄りのいない子どもを集め、戦闘の英才教育を受けさせていた。

 痛みによる屈服は訓練で克服し、子ども達は己自身の死すら無関心である。それは単純に死を恐れないのではなく、生死に対する興味がなかった。

 子ども達にとって殺すという行為は呼吸する事と同じであり、生きていく上で自然な動作である。そのため、心を痛めるどころか、その意味すら理解していない。

 幸もその内の一人であり、彼女が『壊し屋』と呼ばれるのは単純に強化された肉体ではなく、その精神にある。そういった意味では、国の敵を全員抹殺するために作られた『C(クレイジー)・C(チルドレン)』は成功と言える。

 しかし、彼女が大人になる頃には戦争は終わり、時と共に戦争という行為そのものがなくなっていた。戦争は勝てば利益となるが、負けた時の損害の方が多い。戦争がいかに不利益なものなのか。多くの犠牲を出してようやく人間は理解したのだ。

 『壊し屋』として育てられながら壊す事が出来ず――、過去の遺物たる『C(クレイジー)・C(チルドレン)』は存在理由を奪われた。国のために生まれたにもかかわらず、国はあっさり彼らを危険だと判断して解散を迫った。仮に解散したところで、彼らは戦闘を娯楽、破壊は呼吸と教え込まれ、戦いの中でしか生きられない。

 そういう風に育てられ、それ以外の生き方を選ぶ事は出来ない。

 そして、国が子ども達の処分に困り始めた時。幸か不幸か、次の敵が現れた。時代の変化と共に進化した害虫は『C(クレイジー)・C(チルドレン)』の存在理由となり、子ども達は他国相手ではなく、人類の敵――〈人蚊モスキル〉を殺す事を生き甲斐とした。

 『殺虫隊』も、元は『C(クレイジー)・C(チルドレン)』だ。国際警察の一部隊に『C(クレイジー)・C(チルドレン)』を配属し、その後独立し――、『殺虫隊』と名前を変えただけである。今では大規模な組織であり、一度解散となった『C(クレイジー)・C(チルドレン)』も数が少ないため、国も誰が『C(クレイジー)・C(チルドレン)』までは把握していない。むしろ、最初からそんな組織はなかったと思っている。

 人道的でないから、批判の種だから、といった理由ではない。

 単純な、恐怖心からだ。

 あまりに歪で異質な彼らは制御が出来ない。人間の形をしたもう一つの脅威。


 ゆえに、幸は人と呼ぶにはあまりに歪な存在である。

 戦いの中で成長し、戦いの中で生き、戦いの中で快楽を得た――、完全なる〝異常者〟。その心は相手を壊す事のみに興味を持った、『壊し屋』と呼ばれる――、限りなく「悪」に近い。

 人類を脅かす敵を抹殺する行為は一般人から見れば正義の味方かも知れないが、物事には度合いがあり――、一線を越えてしまえば、それは偽善でも正義でもなく、悪となる。

 元より幸は人間のために戦った覚えなど一度もない。何故戦っているのか、はっきりとした理由はない。

 しかし、最初から壊すのが好きだったわけではない。

 始まりは、あった。きっかけも、確かにあった。


 ――『戦え……壊せ……でなければ……』


 それが、何だったのか。「アレ」が誰だったのか、思い出せない。

 だから、幸は壊す。壊して、殺して、破壊を続ければ、いつか「アレ」に出会えるような気がして。

 その微かな理由ですら、忘れかけてはいるが。


 だから、幸は壊す。


 その結果、『壊し屋』の肉体は人間の限界を超えるまでの進化を遂げた。長い間、毒の霧を相手に浴びせ、大気が汚染された場所で暮らしてきたせいか、幸に〝毒〟は効かない。

 〈人蚊モスキル〉用の殺虫剤も、人間相手の猛毒も――。

 毒に分類されるあらゆる物質を無効化し、体内で違う物質へ変換すらしている。その体質については幸本人すら知らない事実だ。


 と、その時――、〝音〟が鳴った。


 幸のすぐ足下。赤黒い塊が、喋った。

『こ、この化け物……っ』

 意識があるだけで上等だ、と幸は思った。いきなり襲ってきた外敵に対し、幸は全てを破壊した。

 足を捥いだ。翅を引きちぎった。頭を飛ばした。舌を切り裂いた。


 腕を、骨を、指を――。


 どうやって壊したのか、覚えていない。

 躊躇いも懺悔も与えず、幸は本能のまま壊した。今までもそうやって遊び――、彼らが死んだら終わり。それが、幸の遊戯だ。

 いつもなら、全員が二度と動かなくなり、幸の暇潰しは終わる。だが、今日は幸にとって幸運であり、まだ終わりではなかった。

 ソファから上半身を起こし、座った体制のまま血の中で動くものを見下ろす。

「へぇ、生きていたんだ。そんな奴、今までいなかったぜ。おっもしれぇ」

『……っ!』

 男か女かは分からない。声から判断すると男のようだが、唯一の生き残りは荒い呼吸の中、最後の力を振り絞って悪態を吐き出した。

『ば、化け物! 何でこんな事が出来るんだ。お前、それでも……』

「人間、だよ」

 彼の言葉を遮り、躊躇なく幸は言った。

「俺は、誰よりも人間だよ」

『俺達の命を何だと思ってんだ! 命は玩具じゃないんだぞ!』

「うるせえよ。偉そうに説教すんなよ」

 親や教師に注意されて拗ねた子どものように幸は鬱陶しそうに答える。


「俺は、間違ってない」


 昨夜に学んだ事を活かし、幸は当然だと思う模範解答を言う。

「人間ってさ、〝誰それのため〟って付ければ、大抵の事は許されるらしいぜ。誰かを殺しても、それが誰かの仇で、誰かのためにやった事なら……、まあ、仕方ないよな。同情されても、責められる事はねえ。だから、俺もそうする」

 ニコリ、と無邪気な笑顔で幸は肉の塊の中から男の頭を掴んだ。そして、彼の口の中に殺虫剤を突っ込んだ。

『が、が……はっ』

 喉の奥まで突っ込んだせいか、彼は何度も咽るが、幸の手は強く掴んだままであり、人間の女の腕力に化け物と呼ばれた男は負けた。

 口の中に微かに香る〝毒〟の気配に、男は必死に引き剥がそうとするが、既に両腕の感覚はない。

「よし! 今日からお前……俺の仇な」

『……!?』

 まるで思いついたような彼女の言葉に、彼は目を見開く。

「誰にしよう……。親の仇? それとも、妹? 兄貴の仇っていうのも、なかなかドラマチックでいいかも。あー、恋人とか親友ってのもアリだよな。そんなの、いた記憶ねえけど」

 今日の晩御飯の献立を迷うように唸った後、幸は顔を上げる。

「まあ、誰でもいいか。俺のかたきって事には変わりないもんな」

 そして、やはり躊躇いもなく幸は笑顔で――寒気すらする無邪気な笑顔で、躊躇いもなく殺虫剤のトリガーを引いた。

『……っ!』

 口から全身へと毒が回り――、細胞一つ一つを壊していく。幸が頭を固定しているため、吐き出す事すら出来ない。スプレー一缶の全ての毒を流し込むように、彼女は何度も毒を噴射し――やがて殺虫剤の中身が空になると、ようやく手を放した。

 痙攣しているように全身を震わせた後、男の身体は動かなくなった。本当に死んだか確かめるため、軽く足で蹴ってみたが、やはりピクリともしない。

「何だ、もう終わりかよ。つまんね」

 と、遊戯を終えた幸は唇を尖らせる。

「あー、そうそう。お前ら、よく化け物って言うけど、違うぜ」

 幸は、語る。

「俺は、人類を脅かす敵と戦っているんだ。殺す事が正しくて、壊す事が正しい。だから、俺は誰よりも正しくて、かっこよくて、善行で、勇敢で、尊敬されて……いわば正義のスーパーヒーローだ。化け物なんて、酷い事言うなよな。傷付くじゃねえか。まあ、誰にも理解されない孤独なヒーローっていうのも、かっこいいからいいか」

『……』

「だから、俺が間違っているなんて、ありえねえんだよ。悪者を倒すために戦う俺は、誰よりも正しい。だって……俺は、〝正義〟なんだから」

 無論、返ってくる言葉はない。それを承知の上で幸は彼らに告げ、ソファの上に寝転がった。そして、壊れた天井から覗く天を見て呟く。


「あー、眠いな」


 返り血で汚れた男物の隊服を来た女は、実に場違いな言葉を最後に少しの仮眠に入った。


       *


「毒を盛っただと?」

『そうよ! 正面から向かっても無駄だろうから、今朝、あんた達に毒を盛ったのよ。いつもあんた達にコーヒーを出しているのは誰だと思っているの? 『壊し屋』には特別強力な奴を仕込んで……』

 そこまで言い――、カレンはようやく自分の失態に気が付く。

『何で? たしか、あんた達もコーヒーを飲んで……』

「あー、そういえばいつもより何か甘ったるい味がした気がする」

「何か嫌な感じがしたので、私は飲んだフリしました」

 効かなかったジェットと、最初から飲んでいなかった夏生(なつき)はやや冷たい視線をカレンに向ける。

「……っ」

 カレンは完全に言葉を失った。こうなる事が予想出来た夏生はあえて何も言わないが――、ほんの少しだけ夏生はカレンと同じ事を考えていた。飲んでいなかった夏生は仕方ないとしても、ジェットは異常である。おそらくカレンの用意した毒は遅効性ではあるが、強力な毒だ。人間など、すぐに全身が痺れて動けなくなる。

 ――効かないなんて、あり得るのかな?

 味方である事に心強く思いながら、不審を抱いた夏生はジェットを観察するように見上げる。

 と、その時――遠くから爆発音が聞こえた。

 夏生が上を見上げると、空には日が沈みかけてうっすらと暗い空の中――、雲と同化している煙が漂っていた。

 一体、何だろう――と思い、カレンを見ると、すぐにその理由が分かった。

 〈人蚊モスキル〉の五感は人間よりも鋭い。獲物の血を判断する能力は羽虫だった頃よりも数倍に成長し、遠くからでも「血」の香りを感じ取る事が出来る。そして、カレンの嗅覚は告げていた。これは、仲間どうほうの血だ、と。

『まさか!?』

 カレンが連れてきたメスが同じ事を予想して叫んだ。

『嘘でしょ!? たしか、三十は用意した筈なのに……』

『でも、風に混ざって運ばれる血の匂い。それに、強力な毒と火薬の匂い。間違いないよ。あの女、たった一人で三十体の〈人蚊モスキル〉を倒した!』

 人間と〈人蚊モスキル〉の狩りの能力を比べたら、当然〈人蚊モスキル〉が勝つ。弱い人間とは異なり、〈人蚊モスキル〉は武器なしでも人間を殺せる。

 にもかかわらず、進化した筈の〈人蚊モスキル〉は人間の女一人に惨敗した。

「おい!」

 その時、半ば混乱と動揺し――、この場の主導権を失っているカレンに向かってジェットが声をかける。

 今度こそ殺される――、と全員が思った。

 が、次のジェットの言葉は全員の予想とは真逆の言葉だった。

「短い間だったけど、同じ釜の飯を食った仲だ! 今、ここで退けば見逃してやる」


 ――……は?


『何を言っているの? あんたは《殺虫隊さっちゅうたい》の隊員。私達を駆除するのが目的でしょ!』

「俺達の仕事は、人間を護る事だ。〈人蚊モスキル〉を滅ぼす事じゃねえ。戦意のない相手を殺すようなマネはしねえ。もう二度と人間に手を出さないって約束するなら、見逃してやる。それに、戦意のねえ女をいたぶる趣味もねえ」

『何をバカな事を……』

 まったくだ!

 〈人蚊モスキル〉と一緒にされるのは嫌だが、夏生も彼女と同じ事を思った。

 『殺虫隊』は〈人蚊モスキル〉を狩るのが仕事だ。なのに、それを見逃すなんて――。


 ――そんな事は許されない!


 ――本当に、この人は……!

 やる気のないジェットをどうにか戦わせようと、夏生は彼の腕を引っ張った。

「ジェットさん! 貴方は……」

 が、その時――、頬を切る風が両者の間に流れ込んだ。

 その気配に気が付いたのは、この中ではジェットとカレンだけだった。ジェットは咄嗟に夏生を抱え、カレンは部下に指示を出しながら全く同時に後方へと下がった。夏生がその事に気が付いたのは、彼が夏生ごと避けた後だった。

 ジェットに抱えられながら、何が起きたか分からない夏生は両者の間に割り込んだ存在を見上げる。


『たかが人間一匹に、随分と時間かかっているのね。バッカみたい』

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モスキル~一寸の虫にも五分の魂 シモルカー @simotuki30

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