第6話 反撃
*
――だったら、目の前にいるあんたは誰だっていうの!?
深海藍と二人きりになって、異常な程に静かに語る彼女の言葉を聞く度、カレンの混乱と謎は増す。
――どうせ私を出し抜くために嘘を……。
嘘を――、ついている筈だ。
しかし、藍が自分を見る目が、嘘をついている人間の目ではない。いや、カレンには分からなかった。嘘をつく時の人間がどういう顔をするのか。
だが、彼女の顔は無表情そのものであり、少なくとも追い詰められている人間の顔ではない。
ならば、この娘は本当に姉の夏生の方だと言うのか。
そうなると、色々と謎が残る。夏生はジェットと面識がある。なのに、何故――彼は藍の正体に気付かなかったのか。まさか、自分達を誘い出すために特別班全員で演じていたのか。それにしては、あまりに自然だった気が――。
――一体、この女は〝誰〟なの!?
*
多くの謎、否定、予想がカレンの中を巡っている中、
藍の予想通り、今まで待たされていた部下達は徐々に痺れを切らし始めた。
『もう、我慢出来ないっ』
一体の〈
今の彼らは、豪華な食事を前にずっと「待て」を言われた状態である。空腹時ならば、それは拷問である。特に、藍の持つ〈
『待ちなさい、サラ!』
カレンの声は届かず、彼女――サラは藍に向かう。
透明な翅が空気を揺らし、藍の前へと飛び出した。
が、彼女が藍に飛びかかろうとした時――、妨害するように彼女の前を風が切った。
『……っ!?』
思わず、サラは空中で緊急停止する。そして、目の前を漂う障害物を見る。
ぷーん――。
独特な嫌な音を立てながら、羽虫は宙を漂う。体長は一センチ程しかなく、小さな子どもでも簡単に潰せそうな身体を持った、弱い虫だ。そして、〈
『……蚊っ!?』
進化する前の虫の形をした『蚊』であり、今では図鑑でしか見る事が出来ない姿だ。
この時、カレンの率いる〈
一つは、〈
一つは、その『蚊』が藍を護るように立ち塞がった事。
進化していない「蚊」の登場に対する驚愕と、仮に存在していたとしても何故それが人間を護るのかが分からない謎。
その二つによって、カレン達は行動を停止した。逆に、一度それを見たお蔭で驚愕する時間が彼らより少なかった藍は、すかさず左手を上げた。その時、サラの視界は眼球に触れる程近くに接近していた『蚊』によって遮られ、藍の行動に気付かず――、
『……っ!』
シュウウウウウウウウ――
空気が噴射する音が銃声のように高く響いた。
真っ白な霧はサラの身体を包み、やがて視界、意識――、全てを呑み込んだ。
『この異臭は……!』
『毒!? 殺虫剤!?』
〈
――やはり彼女は手強い。
空高く飛んだカレンを見て、藍は思った。
しかし、いくら化け物といえ、彼女達には感情がある。そこを突けば、或いは――。
今、藍の目の前には〝残骸〟が落ちている。
間に合わず、毒の霧を全身に浴びたサラや、彼女に釣られて飛び出した名も知らない〈
視界が白い気体で覆われる中、三体の〈
『こんなの、まともに食らったら……死んじゃうじゃない』
乾いた笑みと共に、カレンは呟いた。
〈
少しでも毒の霧を吸えば確実に死ぬ。その〝命の危機〟が、かつて一センチ程の羽虫を人型へ変えたように、カレンは高く、高く――、高く舞い上がった。
上空を浮遊する彼女を見上げ、やはり厄介だ、と藍は思った。
『う、そ……!?』
浮遊しながら、カレンが呟いた。目の前で親を殺されたような哀しみに満ちた横顔に、最初は何でそこまでショックを受ける必要があるのだろう、と思ったが、すぐに自分の目の前にある〝モノ〟のせいだと分かった。
藍の前に、一つのゴミがある。
藍の血を求めて駆け寄ったサラだ。皮膚は青白く変色し、目は溶け、至る穴から血が噴き出し――、およそ生き物と呼べない姿であるが、確かに〝アレ〟は彼女だった。
『あ、……ああっ』
カレンは口を覆う。被害は彼女だけではない。風によって毒が流れ、運悪くそれを吸ってしまった〈
殺虫剤を喰らって床へと落ちる羽虫の如く――。
一人の行動に触発されて彼女の後を追った者も、彼女を止めようとした者も――。皆、同様にゴミと化していた。背中から翅が落ち、全身が流れ出した緑色の血や毒によって変色した肌のせいで、醜い塊と化している。
『きゃああああああっ!』
『しっかりして、アンナ!』
『サラが……死んだ? 嘘でしょ、ねえ!』
毒の霧から逃れたメス達が、変わり果てた同胞の姿を見て嘆いた。
しかし一人――、深海藍だけは、平然と大地に君臨していた。
『あ、あんた、何者なの?』
「私は……ユウレイです」
『また意味の分からない事を!』
もはや先程までの余裕はなく、カレンは怯えた顔で藍を見る。そして、臆したからこそ彼女は冷静になり――、気付いた。
本来、殺虫剤は「殺虫資格」を持つ《
『何で……』
カレンが、呟いた。
《殺虫隊》の中でも選ばれた人間しか使えそうにない、強力な〝毒〟を所持しているの!?
こんな子どもが、どうして!?
カレンの言葉を代弁するとしたら、こんなところだ。
カレンでなくとも、ここまでの異常な光景を見せられれば、藍が《殺虫隊》の関係者である事は容易に予想がつく。むしろ、ここで藍が「私は《殺虫隊》とは無関係の人間です」と言っても信用する者はいない。
目の前の惨劇に思考が停止しかけている彼女達に、藍は静かに告げた。
「どうして、《殺虫隊》だけが使う事を許可されている強力な殺虫剤を貴女が持っているの……なんて、ありきたりな質問はやめて下さいね」
*
大地に、虫の死骸の上に、彼らの意識の上に――。
いつも夏生が携帯している、小さな殺虫剤。そこから、ここまでの悲劇が生み出されたとは、誰が信じるだろうか。
カラカラ――、と夏生はスプレーを振る。
そして、全てを終わらせようと空に向かってスプレーを向けた。何処へ逃げても同じ事を悟ったのか、カレン達は動かない。まるで銃口を額に当てられたように――何をしても現状が変わらない事を悟ったのだ。
――やっぱり、こうなるか。
あまりの予想通りの態度や結果に、夏生は少しだけ拍子抜けしていた。
『ちょっと、カレンさん!』
その時、カレンに従っていた男がカレンの裾を引っ張った。
『どういう事ですか? 聞いてないですよ』
『そんなの、私だって知らないわよ! S型が、あんな……化け物だったなんて』
――化け物とは、失礼な。
彼女達の会話に参加する気はないが、つい夏生は心の中で返してしまった。
しかし、そう思われても仕方がないのかも知れない。
夏生の周りには多くの虫の死骸がある。
姿は人間とよく似ているが、手の甲や腹、指先――、と人によっては違うが、吸血するための口吻があり、背中からは四枚の翅がある。人類を脅かす〈人蚊(モスキル)〉と呼ばれる生き物は、今はたった一人の人間の少女の手で死骸へと変えられた。
青白い肌。紫色に染まった爪。開いた眼から溢れる血――。
見るに堪えない姿は、もう〝生き物〟とは呼べない。
〈
「私が、怖いですか?」
空に向かって、夏生は問う。
「確かに、自分でも普通じゃない、って思います。でも……〝藍〟は、もっと怖かったんです!」
スプレーの先を遠い位置にいるカレン達へ向け、少しずつ近付きながら夏生はなおも語る。
「藍は、すごく怖かったんです。だから、私は……藍の仇を取る! そのために、私はここに来た! そのためだけに、私は、生きてきた!」
『……っ』
「何を言っているのか、分からないって顔ですね。分からないなら、そのままでいい。分からないまま、何も知らないまま……死んで下さい」
今、夏生は一つの意思によって動かされている。
強い殺意。それによって動く夏生は、〝仇〟がどういう顔をしていたのはいちいち覚えていない。
と、その時――偶然、夏生はカレンと目が合った。
初めてカレンの顔を見た気がした。ジェットや幸に処理された〈人蚊(モスキル)〉とは違い、彼女は諦めたように呟く。
『……そうだった。人間は、化け物だった』
はるか昔――、『蚊』は人間に脅かされていた。
子を産むために人間の血を吸っていた。生まれてくる子を丈夫に生むための栄養摂取である。しかし、人間はそれを許さず、『蚊』を見た瞬間に全身に毒の風を浴びせた。食事している時に身体を潰す人間もいた。人間だって、生きるために食事し、丈夫な子を産むために栄養に気を使う。特に、人間は地球上の多くの命を狩り――、食べて生きている。
吸血するのはメスのみであるため、彼らにとってオスは無害である。にもかかわらず、人間は『蚊』を見た途端に殺す。
存在さえ許さないように。『蚊』の〝命〟を否定するように。
そして、その環境の中を生き抜いてきた『蚊』は恐怖と子孫繁栄への望みから、進化を遂げた。
その記憶は遺伝として、〈
カレンは血によって受け継いだ記憶から、少女の姿をした恐ろしい化け物を前に、全てを諦めている。その事を知らない夏生は彼女の言葉の意味を知らず、そして知る気もなく、全てを終わらせようと殺虫剤のトリガーに指を滑り込ませる。
――これで、最後だ。化け物ども。
そう夏生が思うのと同じく、カレンも似た感情を吐き出した。
『思い出した。人間が、どういう生き物だったのか……』
死を予感したカレンは神に懺悔するように呟いた。
『元々、人間は化け物で、私達は狩られる側だった。忘れるところだった。人間は……化け物、なんだ』
カレンがそう呟いた時――、近くで浮遊していた〈
決して夏生を殺す気はない。正しくは、殺せる気がない。
決死の覚悟。自分が死んでも、せめて一矢報いたいとでも思っているのか――二体は自爆でもしそうな勢いで突っ込んでくる。
夏生はその場を動かなかった。
彼女達の強い意思を前に〝軍人〟として想いを汲み取ったわけではない。
ただ――〝罰〟にはちょうど良いと思ったからだ。
降下してきた一体目の〈
真っ赤な〈
『……っ!』
ただ唇を押し付けるような一方的な接吻。
愛し合った恋人同士で交わされる行為なら、恋愛ドラマのワンシーンにも見える。しかし、相手は同姓――まして〝虫〟。そこに愛情はおろか憎悪すらない。夏生にとってこれは方法に過ぎない。その点は〈
一体目に続き、二体目の襟首を掴んで引き寄せて唇を押し付けると、夏生は彼女達から手を放す。
「言っておきますけど、私は別に同性愛者でも、キス魔とかでもありませんから」
手の甲で唇を拭き、夏生は膝を追った二体の〈
『い、一体、何を……っ! がはっ』
突然、〈
夏生を見上げた〈
『がはっ! か、身体が熱い! 喉が焼ける! 苦しい。全身が、痛い……っ』
『貴女一体何をしたの!?』
夏生の行動に、カレンが空から叫んだ。
「毒ですよ」
『毒!?』
「私は、あらかじめ唇に毒を塗っていたんです」
『唇に毒って……貴女正気!?』
カレンの言葉を無視し、夏生は静かに告げる。既に、足下でもがき苦しむ二体は視界にない。
「この毒は貴女達を確実に殺します。貴女達は、私から大切なものを奪った。だから……苦しんで死んで下さい」
冷たく言い放った後、夏生は無表情ではなく、菩薩のような笑みを浮かべた。
「どうですか? 身体の中から毒に侵される気分は。細胞が一つ一つ破壊されていくのが分かりますね? じわじわと、死が近づいてくるのが分かりますね? 臓器が潰れ、細胞が死に、体内を毒が巡る感覚って……どんな感じですか?」
『……化け物が!』
それは、こっちのセリフだ。
しかし、それを言葉にせず、夏生は殺虫剤をカレン達に向ける。銃口を向けられたように、彼女達は顔を青くして身動きが取れなくなった。
そんな事をしている間にも、足下では喉を抑えながら〈
足下の虫に、夏生は告げる。
「どうですか? 無惨に殺される気分は」
『……あ、あ、あ……た、たす、け……っ』
「そういえば、解毒剤……」
夏生が続きを言う前に、希望に縋りつくように〈
『たす、け……もう許し……げほっげほっ』
色の悪い血が大量に地面に流れ落ちた。言葉すらまともに喋れず、しかし〝死〟と〝希望〟を前に生を諦め切れなくなった〈人蚊(モスキル)〉は夏生に訴える。
――私も、福留さんの事、言えないな。
しかし、彼女の行為には理由がない。あるとしたら自分自身の娯楽のためであり、幼稚な理由だ。その点、夏生の行為はたった一人の妹の弔いのためであり、〈
だから、自分は決して間違ってもいなければ、〝残酷〟でもない。まして化け物なんて呼ばれる筋合いもない。その思考が、いつか自分が「酷い」と思った行為である事から目を逸らし、夏生は仇へ手を伸ばす。夏生は膝を折り、小刻みに震える二体のうちの一体の髪の毛を掴んで自分の方へ引き寄せる。そして、懐から赤黒い液体の入ったガラス瓶を取り出す。
既に、昼間の出来事で芽生え始めていた彼女達への同情は、欠片も残さず消えていた。「同じだ」なんて思った、愚かな勘違いも、今では過ちであると素直に認められる。しかし、昼間の彼女の事を思い出すと、少しだけ――ほんの少しだけ、決心が鈍る。
それは今の夏生には邪魔なものであり、夏生は昼間の記憶を頭の奥へと封じ込める事で全てなかった事にし――、目の前の敵のみを見据える。
「解毒剤が、欲しいですか?」
『……!』
彼女の目に、希望が宿る。死ぬ間際に、その人の本性が見える、というが――それは〈
『助け……て。お願い、しま……』
「みっともない姿ですね。私達は、餌なんでしょう? 餌に、助けを求めるんですか? 恥ずかしくないんですか」
『……っ』
屈辱と死の恐怖。二つの感情で醜く歪んだ顔を見下ろしながら、夏生は提案するように言ってみた。
「命乞いして下さいよ。もしかしたら、私の気が変わって、仇である貴女を助けるかも知れませんよ。人間は慈悲深き生き物ですからね。頭で分かっていても、共感してしまうと、たとえ憎い敵でも助けてしまうものなんです」
夏生は微かに微笑む。先程までの憎悪に満ちた顔とは逆に菩薩のような笑みであり、この状況下のせいか、彼女の瞳に希望が浮かんだ。
『助けて……くだ、さ……い』
声を出す事すら辛いせいもあり、絞り出した声はか細かった。
「聞こえませんよ。もっと大きな声で言って下さい」
『助けて……くださっ……がはっ!』
大きな声を出そうとしたせいか、彼女は吐血した。周囲はさらに緑色の液体で汚れ、靴に染みが出来ないように夏生はそれを避けながら、絶句しているカレン達を一瞥しながら言う。
「助けるって、具体的に〝誰〟をですか? あそこで棒立ちになっているお仲間ですか? それとも……死にかけの虫けらの事ですか?」
『……です』
「なんですか? 聞こえませんよ」
泣いているのか、彼女の声に嗚咽が紛れる。
『この、虫けらの命を……助けて、下さい!』
「聞こえませんので、もっと大きな声で言って下さい」
『虫けらを……助けて……く、だ……さい!』
「もっと!」
『虫けらの命を……助けて、下さっ……!』
そこまでして生きたいものなのか。夏生自身生きたいか死にたいかと問われれば当然生きたいと答えるが――ここまで無様な姿を晒したいとまでは思わない。
まあ、死ぬ間際にならなければ、それも分からないが。
血と涙で汚れ、全身が緑色になりつつある塊を見下ろし、これ以上は可哀そうだと思い、夏生はいよいよ彼女に告げる。
「なーんて。ありませんよ、そんなもの」
『……っ!?』
「解毒剤なんて、あるわけないじゃないですか。これは、貴女を殺すために生まれた毒。そんなもの、最初から必要ないでしょ」
『……っ』
「ちなみに、これは解毒剤ではなく、ただの毒です。解毒剤だと信じ込ませてさらに強力な毒を盛ろうか考えたんですけど……流石に、可哀そうだからやめてあげます」
夏生の残酷な言葉を聞いた途端、可能性を失った〈人蚊(モスキル)〉は絶望し切った顔で夏生を見上げ――、そして抗う意思すら砕けた。
完全に動かなくなった二体からは既に異臭が漂う。
「さて、と……」
分かりやすい掛け声と共に、夏生は二体から目を逸らした。そして、夏生がもう動かなくなった二体の〝虫〟の身体を踏み潰した時――、夏生に向かって何かが飛んできた。
「……っ」
人間の赤子の頭サイズの石ころが夏生の手に当たった。石は地面にめり込んでおり、掠っただけで骨にまで刺すような痛みが生じた。もし直撃していたら骨にひびくらいは入っていたかも知れない。
「しまっ……!」
殺虫剤が宙を舞い、急いで夏生は手を伸ばすが――、その時、風が殺虫剤を攫った。
「カレンさん……!」
降下してスプレーを奪い取ったカレンは、赤い眼に殺意を宿して夏生を睨みつける。
「ひどい顔ですね。化け物みたいだ」
『酷いのはどっちよ! 本当に最低な生き物ね、人間っていうのは! 仲間の命を、誇りを、想いを弄んだ罪、その身をもって償ってもらうわ!』
石ころが当たった手を抑えながら、夏生はカレンを睨みつける。
「返して下さい」
『はい、そうですか……って返すわけないでしょ』
カレンは捨てるように殺虫剤を高く放り投げ、遠い位置で殺虫剤は転がった。
『さっきはよくも同胞達を! 絶対に許さない!』
『私達の命を弄ぶなんて!』
雑木林の奥から隠れていた〈
自分に向かってくる彼女達を素直に怖いと思った。
殺虫剤が奪われたからではない。殺虫剤がなくても、夏生にはまだ毒がある。彼女達も吸血するには夏生に接近する必要があり、その時が最大のチャンスでもある。失敗したら死ぬのは自分であるため、あまり使いたくない手でもあるが。
夏生が臆したのは、実に単純な理由だ。
単に、カレンが怖かったのだ。
死ぬ間際にもがき苦しみ、抵抗する虫が、どれ程の力を秘めているかも知っている。知っているからこそ、夏生は今日のために用意してきたのだ。
しかし、あの目――涙を含んだ憎悪の瞳。まるで鏡に映った自分を見ているようで、躊躇してしまう。そして、憎しみが殺意へと変わった彼女達の気迫は、身体が動かなくなる程に――怖かった。
しかし、引くわけにはいかない。
それに、憎悪ならこちらだって負けてはいない。実戦はいつも〝彼ら〟に任せていたから、こういった荒事を初めてだが――いつかこういう日が来る事は覚悟していた。
――相手の動きをよく見るんだ。
――使える駒がなくたって、私一人で時間稼ぎくらいには出来る筈。
――そのために、今まで用意してきたんだから。
そんな事を夏生が考えている中、最初にカレンが突っ込んできた。
素早い。
思っていた以上に早く、彼女の姿すら見えない。
頬を掠る衝撃と共にカレンが夏生の背後へ回った。真横を風が切ったと思ったらすぐ真後ろから気配がし――夏生は瞬時に振り返る。
その時――カレンの長い爪が夏生の頬を掠った。
そして、柔らかい肌から一滴の血が流れ落ち――、
『……!』
突然、カレン達の行動が止まった。
くらり、と相手を酔わせる甘い香りが空気中に漂う。
血の香りが辺りに散った。すぐに夏生は彼女の腕を払いのけて傷口を手で塞ぐが、切れた皮膚からは血が滴り――、そこからは極上の香りが彼女達の食欲をそそる。
『……血、血、血……っ』
たった一滴。そこから漂う血の香りで、彼らの理性を見事に吹っ飛んだ。人間の傍にいても血に酔わないカレンですら、血の香りを前に理性が崩壊しかけていた。
『吸いたい……』
理性を失った眼は、獣のように夏生を捉える。
『その華奢な首に口吻を突き刺し、どくどくと波打つ頸動脈から全身の血を吸ってしまいたい。心臓に直接口吻を滑り込ませ、全ての血をしゃぶり尽したい。乾く。喉が、乾く。愛しいやや子が、求めている。この子の血が欲しい、って。私も、私も欲しい!』
「……っ」
『血が、血が欲しいの。甘い香りが私を誘い、血を求めている。誰にも渡さない。この血は、私だけのもの。私が全てを吸い尽くすの』
血の香りが本能を刺激し、理性を狂わせる。それが集団であるのだから、狂気は伝染し――、理性を失った赤い目が、同じく赤い液体を凝視した。
その姿を見つめ、夏生は思った。
――ほら、やっぱり化け物はそっちじゃない。
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