第5話 仇敵

 ――『今、お姉さんは病院にいるわ』

 ――『大量の血を吸われたらしくて、とても危険な状態らしいの』

 ――『行ってあげて。山を下りたところに車は用意しておいたから』

 ――『心配しないで。私も一緒に行くから!』


 あおいは、つい数分前の出来事を思い出す。

 ――福留ふくとめさん。怒るかな?

 急を要する事態だったため、藍は机の上で雑誌を読みながら寝ていたさちや二階にいるジェットに声をかける暇がなく、そのまま出て来てしまった。後で香恋かれんが連絡してくれるような事を言っていたが――、それよりも、今はこの状況をどうにかしなくてはならない。

 香恋の先導で、藍は山を下る。

 徐々に日が落ち始め、薄暗くなり始めている黄昏時。木々に覆われた道は、通常よりも暗く感じる。しかし、まだ完全に見えないわけではない。深夜とは違い、足下もちゃんと見える。なるべく早く病院へ行くとするなら、完全に暗くなる前に山を下りなくてはならない。

 だから――、この判断は正しい。

幾度となく、藍は自分に言い聞かせる。そう思うのは、やはりジェットに声をかけなかった事に少しの罪悪感を持っているからだろう。あちらからすれば、黙って出て行かれたようなものだ。

 しかし、これは自分の問題だ。自分で何とかしなくては――。

 そう思い込む事で彼らへの罪悪を奥へとしまいこみ、藍は香恋の背を追う。右手に、携帯電話を握りしめて――。


       *


 時同時刻。ジェットは、アジトの前に佇む。

 そろそろ夕方から夜へ変わろうと、夕陽がゆっくりと沈み始めている。夏は暗くなるのが遅い方だが、あと数時間もすれば、ここは暗闇の世界となるだろう。この場所での勤務の長いジェットは、長年の経験からそう感じた。

 いつも見ているが、同じ夕陽は見た事がないな――、なんて我ながら女々しい事を考えていた、その時――。


 ぷーん――。


 一匹の羽虫がジェットの前で止まった。

 現代の日本では見かけない虫――『蚊』。

ジェットは慣れた手つきで人差し指に『蚊』を止める。

「ああ、分かってるよ……刈谷かりや。アイツは、〝アレ〟だからな」

 誰かに語りかけるように、ジェットは言う。

「ん? ああ。一応、アイツには藤堂とうどうがついていてくれている。何かあればすぐに連絡がくる。……んー、まあな。仕方ない。一応、行ってくるか。お前は仲間と一緒に班長を起こしてやってくれ。……あ、ああ。多分、一番危険なミッションだ。下手したら、潰される。死ぬなよ?」

 電話を持っているわけでもないのに、ジェットは誰かと会話を広げる。その光景は奇妙であるが、ここにはそれを指摘する者はおらず、ジェットは徐々にアジトから雑木林へ移動する。


「じゃあ、頼んだぜ?」


       *


 下山する道。人工的な道が皆無のこの場所では、少し歩けばすぐに雑木林へ行き着く。

そして、あおい香恋かれんもまた、迷い込んだように雑木林の中を移動する。

 近道だから――。そう告げた香恋は、躊躇なくこの場所へ誘導した。

しかし、そこは近道どころか、逃げ場のない迷路だった。こんな場所で土地勘のない人間を放り出したら、三日は出て来られないだろう。

 足場に気を付けて香恋は進み、やがて開けた場所へと辿り着いた。

そろそろ本格的に迷子だと疑われる時、唐突に藍は立ち止まる。

「もう、いいですよ」

 一言、藍は言った。案の定、香恋は驚いた顔で振り返る。

 別に疲れたわけでも、諦めたわけでもなく――、ただ立つ。そして、もう一度言う。


「もういいんです……」


       *


「もういいって、どういう意味かな?」

 互いに立ち止まり、一定の距離を保ちながら香恋かれんあおいに問う。

 その彼女に対して、藍は冷たい目で彼女を見た。分かりやすい藍の態度に、香恋は困惑した様子で藍を見る。

 香恋が一歩近付けば、藍は一歩下がり――、香恋が手を伸ばせば、遠ざかり――、香恋が微笑めば、藍は冷笑を返す。距離を保っているのは、香恋に近付きたくないからだ。

深海夏生ふかみなつき。これが、誰だか分かりますか?」

「え? 貴女のお姉さんでしょ」

「はい、そうです」

 冷笑に近い笑みで藍は微笑む。

「香恋さんは、なつきについてどれ程知っていますか?」

「え? 藍ちゃんの四つ年上のお姉さんだから、今は十九歳? たしか、血液型はO型で……。昔、ジェットさんに助けてもらった事があった。だから、今回、藍ちゃんは他の何処でもなく、《殺虫隊さっちゅうたい・特別班》に来たんだよね?」

「がっかりです」

「え?」

「非常に、がっかりです。その程度の情報で、深海夏生を利用しようとしたなんて」

「藍、ちゃん? どうしたの? さっきから……」

「だから、お芝居はもういいですよ」

「……っ!」

 香恋は絶句した。

が、すぐに藍の豹変の理由と言葉の意味を理解したように、藍が見せた笑みとそっくりの笑みを浮かべる。

「何だ。そう、なんだ。藍ちゃんは、気付いていたんだね?」

「はい」

「一応、訊くけど……いつから?」

「おかしいと感じたのは最初からでした。でも、確信を持ったのは今朝です」

「今朝?」

「昨夜の襲撃は公にはされていません。知っているのは現場にいた私達だけ。なのに、貴女は知っていた。そもそも、班長はともかく、ただの女が気軽に登山出来る程、この道は易しくない。まあ、ただの女なら……の話ですが」

「へぇ、意外。ただのガキかと思っていたけど、あの凶暴女よりは鋭かったんだね」

 香恋は乾いた笑いを浮かべ、やがて空を見上げた。

 まだうっすらと夕陽が見える。燃えるような赤を目に焼き付けた後、香恋は濃い色の目で藍を見つめ――、


 色素の薄い茶色の目で――、赤茶色の目で――、

 血のような真っ赤な色の目で――、


『貴女、美味しそうね』


 血に飢えた女は笑った。


       *


 服を破いて背中から伸びる四枚の透明な翅。

 独特な異臭。

 そして、獲物を見つめる血に飢えた、〝赤〟の瞳。


 人間というカテゴリから除外された、しかし人間に近い姿を持った『虫』。

 長い間、脅威と共に生きるうちに自身を脅かす 〝敵〟を喰うまでの進化を遂げた、人類の敵――〈人蚊モスキル〉。

 進化の過程で人間に近い姿を手に入れ、短い時間であれば虫と人間が融合したような姿から、人間の姿に化ける事が可能らしい。しかし、完全ではなく、匂いだけは真似する事は出来ない。獣が独特な獣臭においを持っているのと同じで、〈人蚊モスキル〉にも蟲臭においがある。それだけは真似出来ず、どんなに人間に近い姿に化けても蟲臭においでばれてしまう。

 もし――、この世界の生き物を〈人間〉と〈人蚊モスキル〉の二つのみで分類し、尚且つ「捕食者」と「被食者」、「狩る者」と「狩られる者」に分類したら、昔はともかく現代では〈人蚊モスキル〉が捕食者であり、狩る側の存在だ。

 そして、その認識が〈人間〉と〈人蚊モスキル〉の両方にあり、それが長く続けば、両者共に己の立場というものを理解する。鼠が猫を見て逃げ出すのと同じである。

 にもかかわらず、深海藍ふかみあおいは顔色一つ変えない。正しくは、変える必要も怯える必要もない。

 藍は、言う。

香恋かれんさん。いえ……三枝カレンさん」

 呼称を読むように藍が彼女の名前を呼ぶと、芝居を辞めたカレンは相手を見下した態度で返す。

『最初から全て分かっていたような口調だね、藍ちゃん』

「分かっていましたよ。キッチンで貴女と会った時から、貴女が人間ではなく、〈人蚊モスキル〉が化けた姿だって事くらい」

『……』

「香りを香りで誤魔化す。その発想は悪くないって思います。〈人蚊モスキル〉は、特殊な蟲臭においを持っている。だから、貴女は香水でそれを誤魔化した」

 報告書を読むような事務的な口調の藍に返すように、香恋は癇癪を起こす子供のように饒舌に言い返す。

『そうよ。私の目的はうざったい《殺虫隊さっちゅうたい》に潜入し、内部から人間の護りを壊す事。そして、私達の同胞を狩ってくれた奴らの血を根こそぎ吸い尽くす。特に、特別班。出くわせば確実に命はないと言われている『壊し屋』がいるにもかかわらず、仲間からは見捨てられ、孤立無援の状態。潜り込むのにはもってこいの場所じゃない。何せ、隊員といえば、壊す事しか興味のない男みたいなオレオレ女と、失礼極まりない、やる気ゼロのグラサン男に、ただの引きこもり。現に、誰も私を疑わなかった! 本部からインターン生です、って言っただけですんなり通してくれた! 倒すべき相手にお茶くみやらせるなんて、本当に特別班なんて名ばかりの無能連中ね!』

 嘲笑を吐き出した後、カレンは愛しそうに自身の腹に触れる。そして、その中の命を愛でるように語る。

『でも、この子の栄養源としてはもってこいの人材だわ。知っていて? 血には、才能が詰まっているのよ。有能な人間から優秀な子が生まれるのは才能が血に流れ、その遺伝子を受け継いでいるから。だから、私達は優秀な子を産むために優秀な人間のDNAを求める。あ、言っておくけど、頭脳ではないわよ。私達が求めている才能は只一つ……戦闘能力だけ』

 〈人蚊モスキル〉の成長速度は早い。生まれてすぐ狩りに出る〈人蚊モスキル〉の子に必要とされる才能は、自然界を生き延びる力であり、獲物を襲って食べる戦闘能力である。同胞からも恐れられている福留幸ふくとめさちの戦闘能力は〈人蚊モスキル〉を軽く凌ぐ。彼女の血を得た〈人蚊モスキル〉は戦闘に有利な子を産むだろう。その血を得る前に絶命するのが目に見えているが。

『本当に、毎日気が気じゃなかったわよ。いつ、あの化け物女に殺されるか、って。でも、私は生き延びた。スキを見てあの女の血を奪うつもりだったけど、寝ている時さえスキ一つ見せなかった。そんな時よ。貴女が……、S型が来たのは』

 カレンは、藍を上から下まで見た。しかし、飢えた獣のように襲いかかる事はしない。その点は、彼女は進化の進んだ「蚊」である証拠だ。

 〈人蚊モスキル〉は人間に対抗するために人間に近い進化を遂げた。そのため、中には獣並の頭脳と理性しか持っていないただの化け物もいる。しかし、進化の進んだ化け物の中には人間社会に紛れても分からない程の頭脳と理性を持っている虫もいる。

 カレンはまさしく〝それ〟だ。〈人蚊モスキル〉を誘惑する血の香りは、今もカレンの本能を刺激している。藍の発する特別な香りに酔っている筈なのだが、彼女はそれを自らの意思で抑え込んでいる。

 厄介だ、と藍は思った。理性をコントロール出来るという事は人間に近い事を意味する。つまり、ただ襲ってくる獣なら引っ掛かる簡単な罠に反応せず、考えて行動する。そういう頭の良い化け物の方が、野生の化け物よりも厄介である。

 それを相手に気取らせないように、落ち着いた口調で藍は言う。

「それで、貴女は福留さんから私にターゲットを変えた、という事ですか」

『ええ。まさか、気付かれていたとは思わなかったけど』

「最初から、貴女は不自然だった」

『不自然?』

「貴女は、友好的に私に接した」

『それのどこが不自然だというの?』

「S型の人間の傍にいれば、血の香りがうつって〈人蚊モスキル〉に襲われやすくなる。だから、人間だったら、まず私に近付かない」

『へぇ。随分と孤独な人生を送ってきたんだね、藍ちゃんは』

「それから……」

 カレンの言葉を無視し、藍は言い放つ。

「《殺虫隊》に、インターンシップの受け入れはありません。こんな危険な仕事に、研修なんて甘い制度はない。実戦からのスタート。ここはね、命知らずが来る場所なんですよ」

 この程度の事も調査せずに潜入するなんて、本当にがっかりです――。

 嘲笑でも嫌みでもなく、心底残念そうに藍は言った。


       *


 雑木林の中。日は暮れ、世界は本格的に夜へとなる。

 薄い橙の色が地平を染める中、多数の赤い光は怪しい輝きを増した。

 ――五体。いや、雑木林の中にも複数隠れているか……。

 辺りの気配を感じ取りながら、あおいはまるで他人事のように思った。

 おそらく、彼女――カレンは女王なのだろう。動物は、群れで過ごす。その中には必ずボスが存在する。人間にもボスは存在し、幾つかの群れはある。その点は、全ての生き物が共通として言える。蟻も、ライオンも、人間も――、そして〈人蚊モスキル〉も。

 だが、人間も国以外の集団組織を持ち、その中にさらに限定された群れを持っているように、カレンも全ての〈人蚊モスキル〉を統べているわけではない。彼女も、一部の限定された集団の長であるだけだ。

 そして、彼女に従う部下は木々に隠れながら藍を囲む。カレンの指示がないため、まだ動かないのだろうが、彼女が指示を送れば一斉に襲いかかってくる。そういう手筈になっている筈だ。または、「食欲」に勝てずに獣の如く襲いかかってくるか――。

『それにしても、貴女も役者ね。私も騙されたわ。あの優等生を絵に描いたような女の子は、一体どこへ行ったのかしら?』

「それはお互い様です。それに、私はアレも素です」

『でも、『壊し屋』やグラサン男の事はきっちり騙していたじゃない』

「それは私も悪かったと思います。私は……長い間、二人を騙してきましたから」

『ふぅん。ま、いいわ。人間の考える事なんてよく分からないし』

 カレンの服を破った翅が彼女の機嫌を表現するように空気を震わす。

 今、藍はカレンに追い詰められている事になっている。

 多少の計画の誤差はあっても、ここまではカレンの思惑通りなのだろう。

 しかし、彼女は忘れている事がある。


 藍が最初からカレンの正体を知っていた事。

 知っていて、カレンについて来た事。

 そして、ずっと携帯電話を握りしめている事を――。


「あの、一つだけ訊いてもいいですか?」

 先程の態度は嘘のように、いつもの調子で藍はおずおずとカレンに問う。

「カレンさんの用意した〈人蚊モスキル〉は全部で何体なんですか?」

『んー、そうね……何体だったかしら? たしか、二十以下……十八くらいだった気がするわ』

「意外に、少ないんですね」

「当たり前よ。S型は一つ。あまり数が多いと、奪い合いになるでしょ? 誰だって貴女の血は飲みたいの。それに、私の部下のほとんどは昨夜の一件で『壊し屋』に殺されちゃったしね」

「あの襲撃も、カレンさんの命令ですか?」

『まあね。でも、別に貴女を狙ったわけじゃないのよ? あれは本当に偶然だった。私もいつまでも人間に化けていられるわけじゃないから、夜は偵察用に他の子が『壊し屋』や貴女の事を見張っていた。でも、まさか藍ちゃんが外に出ているとはね。お蔭で、血に酔ったあの子達は本能のまま貴女を襲い、それが集団に伝染してしまったのよ。本当にモテモテね、その血は』

 くすり、とカレンは笑う。

『さて、お話はここまでにしましょう』

「それは、無理だと思います」

『今更、命乞い?』

「違います。何故なら、誘い込まれたのは、貴女達の方ですから」

 藍は腕を後ろで組み、カレンには見えない位置で携帯電話を操作する。その事を相手に気付かれないように、そして種明かしをするために、藍は告げる。

「深海(ふかみ)藍。十五歳。私立百合野ゆりの学院、高等部一年。両親とは幼い頃に死別していて、現在は唯一の肉親である姉の深海夏生なつきと二人暮らし……」

 藍が初めて特別班へ訪れた時、ジェットがデータを見ながら答えた内容である。潜入したカレンもそのデータはとっくに見た後だろう。

だから、藍を特別班から離すために姉が襲われて重傷なのだと――、絶対にありえない事を言い出したのだ。

「このデータが、そもそもの誤りです」

『命乞いが通じないからって、嘘?』

「真実ですよ。その事は、悪いと思っているんです。ジェットさんには二回も護ってもらったのに、今まで騙してきて」

『どういう意味よ?』

「本当は最後まで騙し貫くつもりでしたけど、この状況では言ってしまった方が都合が良いですからね。特別に、ジェットさん達よりも先に告白させて頂きます」

 藍は、続ける。

「深海藍は、確かに両親を失いました。ずっと姉と二人きりで、姉妹仲良く協力し合って生きてきました。でも、それも十三歳まで。だって、その後……」


 人蚊モスキル――。

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