第3話 生きているだけで罪深い

 八月二日。時刻、深夜二時。


 相須あいすジェットは、アジトの外で佇む。


 山奥に位置する《殺虫隊さっちゅうたい・特別班》のアジトは、日が沈むと途端に暗くなる。

 虫は光に集う。そのため、現代では都会でも人工灯を使わず、夜は真っ暗な闇へと染まる。〈人蚊モスキル〉に対する警備が厳重な都市では今も変わらず「眠らない町」というものが存在するが、それも少数だ。

 滅多に人が入らないこの場所は道を照らす街灯すらなく――、光源は月や星、そしてアジトの電灯くらいだ。

 アジト内の全ての灯りが消えている今、空間全体が闇に堕ちている。


 今――、アジトの中にいるのは、深海(ふかみ)藍(あおい)と相須ジェットの二人だけである。


 福留幸ふくとめさちはその尋常ならぬ体力に物を言わせ、自宅から徒歩で山奥のアジトまで通っている。たまに泊る事もあり、そこは彼女の気まぐれだ。今日は大人しく帰ったようであり、完全に日が落ちる前に下山していった。インターン生である三枝香恋さえぐさかれんもまた、方法は不明だが泊まり込みではなく自力で通勤しているらしい。しかし、彼女達に全く興味がないジェットはその方法や理由を一切知らない。知りたいとも思わないが。

 そして、学校の警備が復活するまでの間、保護する事となった少女――深海藍。

 今時珍しい真面目な雰囲気を持った少女は、今は寝室で寝ている。寝室といっても、元は空き部屋であり、掃除もしていなければ、ベッドすらないが。

 アジトを自分の家として使っているのはジェット一人のため、一人分くらいの空き部屋ならある。もう一つだけ、ベッドとソファが置いてある部屋もあるのだが――、そこは幸が使用している部屋であり、かなり汚い。床には食べこぼしがあり、かなりの量の埃も溜まっている。掃除する気すら失せ、幸以外は入る気すらせず――、現に藍も「布団、貸してくれませんか?」の一言で別の部屋を要求してきた。


 ――まったく、こんな夜更けに……。


 愚痴を零すように、ジェットは心の中で呟いた。

 「夜更けに」と言いながら、ジェットにとって昼も夜も――、世界は変わらない。

 ジェット自身ちゃんと朝に起きて夜は寝るのだが――、そもそもジェットに朝と夜の区別などない。ただ何となく起きて、食べて、寝ているだけだ。もし昼と夜が逆転したとしても、ジェットが困る事はない。やるべき事は、一緒である。むしろ、明るい昼間に行動して暗い夜に行動を止める人間の習性が分からない。


 ジェットの世界は常に暗い――。


 サングラス越しに見る世界は、昼間も夜も変わらない。サングラス越しでも光の度合いは感じ、昼間や電灯がある所では多少は変わるが――、極端な変化は感じない。

 しかし、ジェットがサングラスを外す事はない。食事中も、睡眠中も。

 電気の消えた部屋の中央に立ちながら、ジェットは窓の外を見つめたまま上着のポケットから旧式の携帯電話を取り出す。そして、携帯画面に目を落とした後、再びサングラス越しに夜の世界を見つめる。


「……ああ、分かっているよ」


       *


 あおいは静かにアジトの扉を閉める。

 今朝、ジェットに初めて会った場所。つまり、建物の外だ。

「んー」

 腕の関節を伸ばしながら、藍は大きく息を吸った。山の中のせいか、いつもより空気が澄んでいる気がする。

 現代の日本では、何処も〈人蚊モスキル〉対策のために害虫から農作物を護るように定期的に人体に影響のない程度の毒性の薄い殺虫剤を撒き――、また、《殺虫隊さっちゅうたい》が〈人蚊モスキル〉を駆除する時にばら撒いた強力な毒によって空気全体が汚染されている。人が集まりやすい都市など、特にそうだ。

 そもそも、人類は文明の進歩と共に自然を侵略し、森林を伐採し――、環境を汚染してきた。今ある豊かな暮らしの影では、人類の進歩の犠牲となって消えた生態もあっただろう。

 だが、〈人間〉はそんな事は気にしない。気にする必要がない。

 何故なら――、地球は人間のものであり、世界は人間が住みやすく常に変化するのだから。

 小さな工夫と文明の発達によって生じた大きな〝変化〟をいずれ〝進化〟と呼ぶ。

 常に進化し続ける人間は、いつか地球そのものを変えてしまうだろう。ならば、地球がそれに適応すれば良い。全ての基準は人間にあり、それ以外が生き延びるには人間に合わせる必要がある。その傲慢な思考が今の〈人蚊モスキル〉を生み出したのならば、狩られても文句は言えないかも知れないが――、人間が正しい事に変わりはない。たとえ今までの報いを受けろと言われても、藍は人類が生き延びる道を選ぶ。

 たとえ環境が汚染され、地球が滅亡の危機に陥っても――、人類という生態が消える事は許されない。

 だから、藍にとって、人類の敵である『蚊』を飼うあの男は人間にしては奇妙であり、異常であり――、気味が悪い。


 ――悪い人じゃないんだけどね……。

 

 そんな事を考えながら、藍は空を見上げる。

 月光と微かな星光りだけが光源であるこの場所では、目が慣れるまで身動き一つ出来ない。一歩を踏み出しただけで何かに躓いて転倒してしまいそうだ。

 夜風が頬を掠り、雲がゆったりと流れ始めた。

 唯一の光源は、雲に隠れる。空を見上げれば、雲の向こう側で満月の形がうっすらと見えた。

 何故、人は「闇」に恐怖を抱くのだろうか。

 闇一色となった世界はただ暗いだけ。ちょっとした段差でも転倒してしまいそうであり、いつ何処から〝何〟が現れるか分からなくて――怖い。

 ――おかしいな。ここって、こんなに広かったっけ?

 先の見えない闇を見つめれば見つめる程、「空間」は深さを増す。方向感覚を失い、どちらが前か後ろかも今では分からない。


 手を伸ばせば、何かにぶつかりそうな――。

 手を伸ばしても、空気しか掴めないような――。


 一体、あれから何時間が経過したのだろうか。

 実際、それ程長い時間は経過していないが、藍には闇に沈んだ世界が永遠のように感じた。


 もし〈人蚊モスキル〉が現れたら――。


 ――いや。もういるのかも知れない。

 四方の闇に潜み、前方にいるのかも知れない。後方にいるのかも知れない。右にいるのかも知れない。左にいるのかも知れない。

 それとも上空に――、もしかしたら、すぐ隣に――。

 まるで子どもの遊戯の「かごめかごめ」のように、周囲を〈人蚊モスキル〉に囲まれたような感覚である。「夜闇」という目隠しをされた少女は自分を囲んでいる〝鬼〟が何匹いるのか、自分を食べようとしている〝鬼〟がいつ襲ってくるのか、何処から現れるのか分からず、ただ恐怖に震える。自分が食べられるまで――。


「おい!」


 唐突に、背後から肩を掴まれた。不安に溺れかけていた藍は大きく肩を震わせる。

「な、何だよ?」

 藍の反応に逆に驚いたように、どこかムッとした声で返された高い声が藍の不安を全て消した。

 自分の肩を乱暴に掴んだ相手――さち

 何時間も前に帰宅した筈の彼女が何故ここにいるのか。それを問うよりも早く、幸は言う。

「お前、こんな所で何してんだ? 自分の立場、分かっちゃいねえ程バカでもねえだろ」

 その言葉は藍の行動を諌めるようだが――、彼女の顔は新しい玩具を前にした子どものように無邪気であり、滅多に見せない笑顔だ。てっきり彼女は笑えない人間かと思っていた藍は驚くと共に、不気味さを感じていた。

「まあ、俺は楽しいからいいんだけどよ」

 ふふん、と笑いながら幸は言う。

「お前がアホみたいに何の準備もなしにほっつき歩いてくれたお蔭で、面白い事が始まりそうだ」

「面白い事?」

 藍の問いに答えるように、〝気配〟は姿を現した。


『餌だ……』


 嘲笑ったような声が、静寂な空気を揺らす。


『餌だ。餌だ。餌だ』

『いい香りがする。A型でもB型でもない』

『おいしそうな香りがする。O型でもAB型でもない。特別な、香り』

『欲しい。さっきから、おなかの子が欲しいって私のおなかを蹴るの。欲しい、って。その子が欲しいって……』

『食べさせて。私に、食べさせて!』

『欲しい! 血が欲しい!』

『ちょうだい。愛しいやや子のために、私にちょうだい』

『今すぐ全身の皮を剥いで、溢れる血を舐めたい』

『あの細い首に被りつき、血の一滴すら残さずに飲み干したい』

『全身が干からびるまで吸い尽くしたい』

『欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい』


『……、……、…… た べ た い ……、……、……、……』


「……っ」

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

 闇の奥で、赤く光るものが見えた。鮮血のような禍々しい赤が、藍を凝視する。

 ギョロギョロと、獲物を観察する眼が電灯のように闇を照らす。怯える人間が、怯える人間の顔が、怯える人間の悲鳴が、怯え切った人間の血が――。それが見たくて聞きたくて欲しくて仕方なかったと訴えるように、気配はゆったりと藍に迫る。闇の中で視界は完全に奪われている。だが、視えないからこそ、他の器官は通常の倍の働きをする。

 新鮮な空気に混じった、蟲臭におい。獲物を捕らえようと迫る、気配。

 身体の細胞が明確な〝死〟の予想を訴える。

「あ……っ」

 言葉が、上手く出ない。空気がこんなにも痛いものだとは知らなかった。

 自分が思っていた以上に恐ろしく――、奥歯がガチガチと鳴る。

 ――誰か、助けて……。

 紡ぎ出された言葉は、あまりに使い古された、みっともないものだった。恐怖が身体の底から全身を駆け巡り、立っている事も難しい。


「うるせえぞっ!」


 藍の中を巡ったあらゆる感情を、男らしい、しかし可愛い声がかき消した。

「今何時だと思ってんだ!」

 近所迷惑なんだよ!

 というお決まりの言葉まで出てきそうな気迫で、彼女は藍の前に立つ。さながら、正義の味方の登場のように堂々と――。

 呼吸の仕方すら忘れそうな恐怖は何処かへ消し飛んだ。

 細身だが頼りがいのある背中に、藍は安堵するが――

「ふ、福留さん……?」

「レイの奴からメール見て来てみれば、案の定かよ」

 藍を背に庇いながら、幸は簡潔に説明する。

「ちょうど山を下りた時にレイから連絡が来たんだよ。〝特別班、アジト前。〈人蚊モスキル〉の襲撃を受ける。至急、現場へ直行せよ〟ってな。半信半疑で来てみりゃ、見事に的中だ。レイの情報が間違うわけねえと思っちゃいたが、こうも的中すると我が部下ながら恐ろしいぜ」

 一体何処に隠し持っていたのか、幸は子供の身長程あるバズーカ型の殺虫剤を肩に担ぎ、周囲を見渡す。夜闇ではっきりと相手は見る事が出来ず、視界は制限されたままなのだが――、全て見えているように、彼女は笑う。

「全部で、十五かよ。少ないな」

 暗闇に目が慣れず、藍には〈人蚊モスキル〉の姿を見る事も出来なければ、一体相手がどんな表情でいるのかも分からない。しかし、幸には全てが見えているように限定された場所を見つめ、バズーカの照準を合わせた。

「藍」

「は、はい!」

 突然名を呼ばれ、藍は驚きながらも答える。


「俺、今からこいつら駆除するけど……


 ――……………………は?


 冗談なのか、本気なのか。それを判断する時間すら与えず、幸は前へ飛び出した。

 そして、〝毒〟を放つ――。


 ゴオオオオオオオオオオオオオンッ――


 大気を汚す異臭と共に、轟音が静寂な夜の空気を破った。

 戦争映画のワンシーンのように、彼女の放った弾は単純に殺虫剤としての役割だけでなく、銃弾の役割もこなし――、辺りに硝煙の臭いが散った。

 《殺虫隊》が使用する殺虫剤は毒を放射するだけであり、火薬などは一切使われていない。しかし、彼女の放った殺虫剤はスプレーでもなければ、ただの毒でもない。殺虫剤と砲弾を一緒にしたものであり――、あんなものを食らえば、いくら〈人蚊モスキル〉でもただでは済まない。

 ――あの人、正気!?

 毒と砲弾の二つの威力を持った武器は〈人蚊モスキル〉だけでなく、人間にとっても危険である。おそらく使っているのは彼女だけだろう。

 ――いくら何でも、あんなものを連射したら、巻き込まれる人だって……。

 『壊し屋』の名は伊達ではなかったように、彼女の砲弾は辺りの自然を破壊する。至る所で爆発が起こり、火花によって一瞬照らされた夜闇の中、〈人蚊モスキル〉だったモノが大地へ落ちていく。

 爆発に巻き込まれた木々が次々に倒れた。その木に巣を作っていた野鳥も同じ運命を辿る事になり、羽ばたく鳥もいれば、間に合わずに木の下敷きとなる鳥もあり――、二次三次被害が続出した。


 ――噂で聞いていたけど、本当にこの人は……。


 ならば、先程の「殺す」も冗談ではなく、本当の事なのか――。

 荒っぽい人間が「死ね」や「殺す」を口癖のように連発し、そういう言葉を軽はずみに使う人はいるが、実際に殺人を起こす人間は少ない。

 しかし、彼女は違う。

 福留幸の「殺す」は嘘や冗談でもなければ、脅しですらない。

 手当たり次第に毒を放ち、砲弾を撃って破壊を繰り返す姿――。


 それは、まさしく『壊し屋』――。


「あっひゃひゃひゃひゃ! やっぱり狩りってのは楽しいなぁ。最高だ! ほらほら、もっと俺をもっと楽しませろ!」

 一体どちらが悪なのか分からない言葉を吐きながら、彼女は舞うように戦場を駆ける。

 しかも、ただの連射ではなく、確実に〈人蚊モスキル〉を仕留めている。砲弾の轟音と共に聞こえる断末魔の叫びが夜の静寂を何度も破った。


 ――酷い……。


 ――なんて、酷い〝人〟なんだ。

 もし――、これが人間の行いであり、それが当然の権利だと言うのならば、人間とは残酷な生き物だ。それを狩る〈人蚊モスキル〉の気持ちも分からなくも――。

 ――……って、何を考えているの!

 〈人蚊モスキル〉は〈人間〉を狩る。だから、防衛のために〈人間〉は彼女のような戦士を作り上げたのだ。元はと言えば、全て〈人蚊モスキル〉が人間を襲ったのが悪い。

 ――そうだよ。悪いのはあっち。私達が悪いわけじゃない。


 人間が悪いわけでは――ない筈だ。


 そもそも、幸一人が人間ではない。幸が異常なだけで、人類全てが残酷なわけではない。

 ――だから、私は、悪くない……!

 藍が無理やり思い込んだ、その時――、破壊を尽くす幸の足を一体の〈人蚊モスキル〉が掴んだ。毒のせいか、顔色が悪く――、震えている。

 藍でも、彼女に未来がない事は分かった。幸が手を下すまでもなく、彼女は死ぬ。それでも諦め切れないのか、人間を喰う彼女は餌に乞う。

『もう、やめて……っ』

 戦いの手を止め、幸は彼女を見下ろす。

『何でも、します。もう人間には手を出さない。今すぐに帰るから……。だから、お願い! もうやめて、下さい。お願い……助けてっ!』

「……」

『お願いします。助けて下さい! 私、まだ……』

「おいおい、何言ってんだ? そんなつまらない事言うなよ」

 しばらく彼女の言葉を聞いていた幸は、遊びに飽きた子どものように彼女を見下ろしながら言った。

「俺は、別に人間を護るために戦っているわけでもなければ、お前達が憎いわけでもない。誰が勝とうが負けようが、どっちが正義で悪だろうが……そんなの、どっちでもいいんだ」

 さも当然のように、幸は言う。

「俺は欲しいだけなんだ。壊すための、正当な理由が……欲しいだけなんだよ」

『あ、貴女、兵士なんでしょ? 私達に仇討するために戦っているわけじゃ……』

「仇討? 何だ、それ? さっきから言っているだろ。俺はただ〝言い訳〟が欲しいだけだ、って。日本ってさ、色々とお堅い国でさ。戦争で壊した時は何も言わねえくせに、普通に壊すと、犯罪者(わるもの)扱いするんだ。今じゃ、戦争一つやらねえし。本当に、つまらねえ国だよな。最近じゃ、殴っただけで罰せられる始末で、やれ暴力沙汰だ、傷害だって騒ぎやがる。だけど、〈人蚊モスキル〉を殺したところで、誰も俺を責めない」

 つまり、《殺虫隊》は俺にとっての最高の殺す言い訳なんだ――、と幸は最後に付け足した。

 幸の足を掴んだ彼女の手は震え、徐々に絶望に染まっていく。

「なあ……お前も、そう思わねえか?」

 可愛らしく首を傾げて幸は言う。

幸がどんな相手なのか理解した彼女は恐怖で顔を引き攣らせるが、それすら些細な事のように幸は地面に這った女を蹴り飛ばし――、宙を舞った彼女に向かって砲弾を放った。

「感謝しているぜ、お前達の存在には」

 そう呟いた幸の声は爆音にかき消され、〈人蚊モスキル〉の悲鳴すらか細く響いた。


 その姿は――、まさしく〝人間〟。


 この世でもっとも美しく、この世でもっとも強かで――、そして、この世でもっとも残酷な――人間そのものだった。

 人間さちは、笑う。

「人類のため? 人間を護るため? 誰それの仇? ああ、そういうのも殺す言い訳になるな。よし! 今度からはそれも使おう」

 無邪気に笑った幸はすぐに背を向けた。続いて、空に避難しようとした〈人蚊モスキル〉を見つけると、幸は大地を蹴り上げて翅のある虫よりも高く飛んだ。そして、空中の〈人蚊モスキル〉を素手で殴り飛ばした。

 〈人蚊モスキル〉は簡単に地面に落ちた。まるで手で払われた蚊のように。

 人間と〈人蚊モスキル〉なら、当然身体能力は〈人蚊モスキル〉の方が上だ。しかし、そういった常識など彼女には関係ないように、幸に捕まった〈人蚊モスキル〉はあまりにも呆気なかった。

 今際の時の言葉すら吐けず、自分がどんな姿なのか知る前に絶命していく。

 ――化け物。

 自分を護ってくれる筈の女兵士を見て、藍は思った。

 化け物を殺す、化け物。

 ≪殺虫隊≫が彼女のような異常者を「特別班」にまで追いやってでも留めておくのは、彼女が化け物を殺す化け物だからだったのか。

 幸に臆して逃げ出す〈人蚊モスキル〉もいた。とても賢い選択だと敵ながらに思った。しかし、それを許さないように幸はバズーカ―を放ち、逃げる虫から先に仕留めていく。

 まるで決められた作業のように、幸は同じ動作を繰り返し行う。

 段々と幸の姿は隊服である深い緑色だけではなく、〈人蚊モスキル〉の緑色の返り血を浴びて汚れていた。全身が緑一色となりつつある彼女を、もう藍は「人間」とは呼べなかった。

 そして、残りの〈人蚊モスキル〉が数体となった時、幸がバズーカを地面に投げ捨てた。玉切れだろうか、と思ったが幸相手に油断は出来ず、残りの〈人蚊モスキル〉は彼女の動向を恐怖しながら見守った。

 藍と〈人蚊モスキル〉。両方の視線を集めながら、幸はひどくだるそうに首を鳴らした。

「あのさー、もうちょっとないわけ?」

『え……』

 突然話かけられた〈人蚊モスキル〉は、声を漏らす。

「だからさ、俺ってば、さっきからお前らの同胞殺してるわけじゃん? だから、もっとこうやる気とか満ちてこないわけ?」

 幸は続ける。

「バトル漫画とかだとよくある展開じゃん。仲間を殺された怒りで新たな力に目覚めて、絶対的な不利な状態でもなんやかんやで勝利するとか。そういうの、お前らはないわけ?」

『……っ』

 この遊戯に飽きたのか、幸は面倒そうに言った。

「それとも何か? 憎しみが足りないとか? しょうがねえな。じゃあ、とりあえずお前、代表な」

 と、幸は手近にいた〈人蚊モスキル〉の頭を掴むと、地面に向かって叩き付けた。一応加減はしているようであり、まだ息はある。

 地面に転がる〈人蚊モスキル〉に、幸は笑顔で言った。

「これから、お前の仲間の身体バラすから、ちゃーんと怒れよ?」

「……っ」

 傲慢な人間の暴挙に、藍は口を覆う。

 その時――、破れた透明な翅が一枚、藍の傍に飛んできた。

 その翅を、藍は覚えている。あの時――幸に命乞いをした彼女のものだ。もろに砲弾を受けて粉々となったが、つい数分前まで、その翅を持った〈人蚊モスキル〉は宙を浮遊し――、確かに生きていた。しかし今、その面影すらない。翅は残骸へと名前を変え、地面の上を転がる埃や落ち葉のように、くるくると回りながら藍の前で舞った。

 しばらくの間、藍はその翅を見ていたが――、やがて風に吹かれて何処かへ飛んでいった。

「ねえ、怖い? 俺の事、怖い? 怖い? 怖い? 怖い? 怖い? 怖いよねぇ?」

 突然幸が恍惚な表情で叫び出した。

「ほらほらもっと怖がれ、怯えろ、恐怖しろよ。じゃなきゃ、生まれてきた意味がないだろ」


 〈人蚊モスキル〉は人類の敵。人間を喰う、ただの化け物――。


 しかし、こうも呆気ない最期や無残な姿を見せられると、いくら藍でも同情する。

 人間も動物も虫も、〈人蚊モスキル〉ですら生きている。その間、その命は尊重される。

 それゆえに、他の生態を脅かし、恐怖を抱かせ抱き、戦い、狩って、狩われて、殺して、死んで――ただ生きているだけで多くの影響を与える。

 だが、死んでしまったらそれは「生き物」ではなく、ただのゴミとなる。

 何の影響もなければ、誰にも気に留められない。あの翅も同じだ。

 ――どうして……。

 藍は、風に攫われた翅が忘れられなかった。今でも脳裏に焼き付いて離れない。そして、忘れられない残像は藍に一種の罪悪感を抱かせた。

 ――何で……。

 ――私は、被害者にんげんなのに。人間わたしたちは、いつだって正しい筈なのに……。

 ――なのに、どうしてこんなにも胸が痛むの。


 何で、虫なんかに……!


 ――『蚊は、駆除対象なんかじゃねえ』


 ふいに、ジェットの言葉が藍の脳裏に響いた。あの時は異常だと感じた言葉が今では真実のように感じ、藍は破壊を繰り返す人間さちから目を背けた。

「また派手にやらかしているな」

 いつの間に出て来たのか、ジェットが藍の隣に立っていた。そして、幸の破壊とそれによる藍の葛藤も全て知っているように呟く。

「目を逸らすな」

「え?」

「あのメスどもは、お前は喰おうとした。だから、班長に殺された。それだけだ」

「何ですか、それ! 私が悪いって言うんですか?」

「まさか。誰だって、死にたくもなければ、餌になるのもごめんさ。だから、俺達は戦っているんだ」

 砲弾の轟音と〈人蚊モスキル〉の悲鳴が聞こえる中、ジェットは言う。

「人間は、生きたい。〈人蚊モスキル〉は、生きたい。だから、互いに戦って、狩って、狩られているんだ。だから、目を逸らすな。必死に生きている奴らから目を逸らすな。それは……生きている奴に対する冒涜だ」

「それは……」

「理解出来ねえなら、それでもいい。ただ、覚えておけ。お前はアイツらの事が大嫌いで、憎んでいるのも知れねえけど……それでも、生きているんだ」

 それだけ言うと、ジェットは腕を後ろに振るった。驚いて後ろを向くと、背後から襲おうとしていた〈人蚊モスキル〉がジェットの一発を喰らって倒れていた。

『く、くそ……っ』

 男らしい悪態が零れる。よく見れば、メスの〈人蚊モスキル〉ではなく、オスである。人間に殴られた程度では手傷を負わす事すら出来なかったようであり、〈人蚊モスキル〉はすぐに起き上がった。

「背後から狙うのはちと卑怯じゃねえか? 仮にも、相手は女だぜ」

 仮にも、は余計だ。

『貴様らに指図される覚えなんてねえよ! この化け物どもめが!』

「お前、名前は?」

 〈人蚊モスキル〉の罵声を無視して、ジェットは彼に名前を問うた。

『は?』

「だから、名前。虫でも、名前くらいはあるだろ?」

 ジェットの相手をバカにするような言葉は彼を挑発し、まんまとジェットの挑発に乗った〈人蚊モスキル〉は自覚のないまま自分の名前を叫んだ。

『レックスだ。斉藤さいとうレックス!』

「そうか、そうか。それじゃあ、斉藤君。早速で悪いが……駆除させてもらうぜ」

 サングラスの奥で、彼の目が鋭く光った――ような気がした。

 威嚇に怯んだ斉藤の額に、ジェットは懐から取り出した拳銃を当てる。

 拳銃型の〝殺虫剤〟。銃弾の代わりに毒針が仕込まれている。スプレーのように周囲に被害を出す事はないため、広範囲の効果は得られない。そのため、複数の〈人蚊モスキル〉には不向きであり、一対一で対峙する時のみに使用される。

「班長の事は、謝る。あの人のやっている事は狩りですらねえ。命を命とも思っていない最低な行為だ。代わりに、班長に狩られた奴は全員、俺がちゃんと弔う」

 それを最後に、ジェットは引き金を引こうとした。

『待ってくれ!』

 至近距離からの射撃では逃れ切れないと分かったのか、斉藤は狩る側ではなく、狩られる側の表情でジェットに乞う。

『つ、妻がいるんだ。身体が弱くて狩りに行けないんだ。だから、代わりに俺が……。栄養が足りなくて。一度、死産しているんだ。だから、これは最後のチャンスなんだ! 俺はただ、アイツを母親にしてやりたいだけなんだ。なあ、分かるだろ? お前達だって、誰かの子であり、親なんだろ? なら、分かるだろ!? 頼む! 助け……』

 助けてくれ――。

 次の言葉が何なのか、藍でも分かった。しかし、ジェットが拳銃を下ろす事はない。

 一言――、彼は言った。


「……ごめん、な」


 彼が引き金を引くと、一本の針が放たれた。針は頭部の中まで入り込み、身近にいる藍ですら針の先端が見えない。

『……っ!』

 斉藤の身体が、地面に落ちる。

「一番強力な毒だ。痛みはない。悔いる時間すら与えない。だから、ゆっくり眠ってくれ。恨んでくれて構わないぜ……斉藤レックス」

 開いたままの瞼を閉じ、弔いのようにジェットは彼に深く頭を下げた。

 サングラスで隠れた彼の顔はよく見えず、何を考えているのか分からない。ただでさえ、この暗闇だ。幸の放つバズーカ砲の爆発でたまに一瞬の明かりは灯るが、それもすぐに消える。


 しかし、何故か藍は――、〝あの時〟と同じで、ジェットが〈人蚊モスキル〉の死を哀しんでいるように見えた。

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