第2話 特別班

       二


 《殺虫隊さっちゅうたい・長野支部》。

 そう書かれた建物は、長野支部のものではなく、特別班のものである。

全国にある《殺虫隊》の中でも問題を抱えた人物を集めた、はみ出し者の集まり。それが、《殺虫隊・特別班》の正体だ。以前は長野支部が使用していたらしいが、交通の便などで移転する事になり、使われなくなった施設をそのまま特別班が受け継いだそうだ。


 特別班に配属されている人間は、全てで三人。

 まず、特別班班長の福留幸ふくとめさち。性別は女。年齢は二十七歳。幸福そうな名前とは逆に、周囲からは『壊し屋』と恐れられ、〈人蚊モスキル〉が及ぼす実際の被害を軽く超える被害を出す。戦力は申し分ないのだが、独自に改造した殺虫剤を連射する事で〈人蚊モスキル〉だけでなく、仲間や民間人にまで被害を及ぼし――、何度も色んな部署をたらい回しにされた結果、特別班の班長になった。

 次に、相須あいすジェット。性別は男。年齢経歴国籍、全て不明。彼にまつわる全てのデータが存在せず、誰も詳しい事は知らない。特別班の古株であり、いつから特別班にいるのかも分からない。やる気のない態度のせいか、何度か上司と喧嘩になっては病院送りにしている。幸が相手の場合、逆に病院送りにされるため、今のところ暴力沙汰は起きていない。何故かいつもサングラスをかけているが、その理由も不明である。きつい香水をかけており、女性隊員からは好かれるどころか逆に引かれ、陰で「そんなに体臭気になるのかよ、気持ち悪い」と言われている。

 最後に、春日かすかレイ。性別年齢、共に不明。《殺虫隊・東京支部》の諜報隊員だったが、コミュニケーション能力が低く、他人と喋る事すら出来ないため、特別班へ飛ばされた。重度の対人恐怖症であり、常に部屋に引きこもっている。特別班では情報操作を担当している。全て電子メールでの会話や報告のため、誰も素顔は知らない。性別も不明であり、幸は「絶対に女だ」と言っているが、ジェットは「アイツは男だ」と言い張り、本当の事は誰も知らない。この人物に関するデータは相須ジェットと同じく存在せず、入隊した時期すら分からない。おそらく、春日レイ自身が自分で消したのだろう。引きこもりだが、仕事はちゃんとこなすため、本部からの苦情は一切ない。


 以上が、あおいがジェットに借りた書類から知った内容である。

 特別班は民間人の中でも有名な問題の多い部署であり、藍も訪れる前から少しは知っていた。その主な原因が、班長である福留幸による〈人蚊モスキル〉の処理に巻き込まれて家を失った者や実際に怪我をした者が多くいるせいである。しかし、噂は噂だ。まさか〈人間〉を『蚊』から護るために訓練を受けた戦士が、そんな冗談のようなヘマをする筈がない、と多くの者は考える。藍もその一人だった。噂は噂であり、本当に民間人の家を壊し、まして怪我を負わせるような人間が《殺虫隊》の一員であるわけがない、と。

 だが、実際に福留幸という人間を見た藍は、今ではその噂は真実だと思う。

 S型である藍は〈人蚊モスキル〉を誘引する体質である。血の香りは香水のように僅かだがうつりやすく、一緒にいれば姉の夏生なつきにも被害が及ぶ。だから、《殺虫隊》に保護を依頼し、藍はここへ来た筈なのだが。


 ――何でこんな事になったんだろう……。


 場所はキッチン。元は事務所だった場所のせいか狭い。前の住人である長野支部もキッチンとしては使用していなかったようであり、コーヒーメーカーが置かれていた程度だ。まな板と包丁はあるが、調理できるスペースなどなく、野菜を切るだけで手間がかかった。

 何故、保護対象である藍が料理しているかというと、全てはボーイッシュや男前お姉さんを通り越して「男」そのものである班長――福留幸のせいである。

 保護されると言っても、特にやる事もなく、どうしようかと思っていた時。突然、幸が言ったのだ。


 ――『そういえば、お前。しばらくウチで預かるんだよな?』

 ――『だったら、働かざる者食うべからずだ。俺の身の回りの世話しろよ』

 ――『手始めに、飯作れ。俺の食事が作れるんだ。有難く思え』


 以上が、班長様の全然有難くない言葉である。

 言い方は悪いが、彼女の言う通りでもあるため、藍は料理や掃除を担当する事になった。

 外装からして何年も掃除していないように見えたが、その予想は最悪な事に的中していた。本棚は本にまで埃が入り込み、床にはコーヒーを溢した跡が消えない汚れとして染み付き、昼間なのにやけに薄暗いと思ったら電球も埃が被っていた。

 もはや掃除業者を呼ぶレベルであり、とりあえず机や椅子などの軽い掃除を行った。それだけで一日が経過してしまった。

 S型は保護対象とか言っていたが、本当はただ雑用係が欲しかっただけではないのか。

 今、手に持っている鍋も、半日かけて掃除した結果に掘り出した物だ。まさかミキサーや電子レンジなどが出て来るとは思わなかったが。

 レトルトのお米を取り出しながら、藍は手際よく保存食品を料理らしい物に変えていく。

 ずっと姉と二人きりであり、料理は苦手ではない。我ながら手際よく動き、ほんの一時間弱で人数分の料理が完成した。


「いい香り……」


「……っ!」

 突然後ろから声をかけられ、藍は折角作った料理を落としそうになった。

が、皿を持つ藍の手ごと冷たい手が受け止めた。

「ごめんね。驚かせちゃったかな?」

 フワリ――、と甘い香水の香りがしたと思うと、藍の温度を奪った手は遠ざかった。

「はじめまして、藍ちゃん。驚かせちゃって、ごめんなさいね」

 《殺虫隊》の制服ではない女物の黒いスーツを着た、若いお姉さん。

茶色の長い巻き毛に、大きな瞳。きちんと化粧された彼女は同性の目から見ても、可愛いと思う。少し香水をつけすぎのような気がするが、大人の女となればこれも普通なのかも知れない。ジェットは例外として。

 ――《殺虫隊》の人、なのかな?

 もし彼女も彼らと同じ特別班の人間ならば――、最後の一人の春日レイという事になるが、彼女は絶対に春日レイではない。誰とでも仲良くなれそうな雰囲気を持つ彼女は、人を惹きつける魅力のようなものを持っている。引きこもるどころか、引きこもりを説得して外に連れ出しそうだ。

 ――でも……だとしたら、誰?

 甘い香りが漂う中、彼女は花が咲くような笑顔を浮かべる。今まで、無愛想なオレオレ女班長や、謎のサングラス男しか見ていない手前、コミュニケーション能力の高い彼女は新鮮であり、藍は釣られるように頬を緩めた。

「私は、三枝香恋さえぐさかれん。よろしくね」

深海ふかみ藍です。よろしくお願いします」

「事情はジェットさんから聞いているよ。しばらくウチで保護する事になっているんだよね?」

「はい」

 という事は、彼女も《殺虫隊》の一員なのか。書類には載っていなかったが――、また随分と若い隊員だ。

「それにしても、いい香りね……」

 香恋の言葉によって、藍は料理の存在を思い出す。

「あ、そうです。夕飯の準備が出来て……。て言っても、レトルトですけど」

「気にする事ないと思うよ。あの人達いつも偏食だし。だって、主食インスタントラーメンオンリーなんだよ?」

「よく飽きませんね」

「ねー」

 花が咲くように香恋は笑った。最初に出会ったのがあの二人のせいか、彼女の笑顔は心が洗われる。

 ――だけど、そんなに香るかな?

 作ったといっても、全て保存のきく缶詰であり、「いい香り」という程のものはない気がするが。

 ――まあ、こんな場所じゃあ、この程度もいい香りなのかも知れない。

 何せ、開けた形跡のない窓のせいで室内は空気がこもり、倉庫にでもいるような気分だ。

 人の手が加わっていない獣道の先にある山奥。

 そんな場所に住んでいたら、この程度でも「いい香り」なのかも知れない。

 そう思えたら、人として終わる気がするが。

 ――そうなる前に、帰れるといいけど。


「悪かったな」


 と、その時――不機嫌そうな呟きと共に、ジェットが香恋の背後から音もなく現れた。《殺虫隊》では気配を絶つ訓練でも行われているのか、先程から気配なく彼らは現れる。

「や、やだぁ、ジェットさんったら。いるならいるっていって下さいよー。それとも、ガールズトークを邪魔しちゃ悪いとか思ったんですかぁ、もう!」

 明らかに作った笑顔で、香恋が言う。

「別に……」

 ジェットは興味なさそうに応えると、香恋を通り過ぎて藍の前へ移動した。玄関の一件もあり、彼を前にした藍はつい避けるように後ろへ下がってしまった。それに腹が立ったのか、傷付いたのか――、彼は藍から目を逸らし、料理に視線を落とした。

「これ、夕飯?」

「あ、はい。福留さんに言われて作ったんですけど……」

「ふぅん」

 ジェットは興味なさそうに呟いた。自分から訊いたくせに。

 別に褒めてほしいわけではないが。

 ――感じ悪いな、もう。

「それより、三枝。何で、お前がここにいるんだ?」

「何で、って……藍ちゃんに挨拶を! ほら、ここでしばらく生活するんだし……」

「挨拶って……。別にお前は《殺虫隊》の人間じゃないだろ」

「え……」

 思わぬ彼の言葉に、藍は声を漏らす。ジェットが首のみで振り返り、簡潔に説明した。

「こいつは研修生みたいなものだ。大学のインターネットだか、インテルハイッテルだかで」

「ジェットさん。インターンシップです」

 すかさず、香恋が訂正する。

「そうそう、それ。そのインターナショナルとかで一ヶ月研修に来ているだけだ。つっても、事務処理とか手伝ってもらっているだけだけど」

「だから、インターンシップ!」

 覚える気ねえだろ、この人。

「そんなわけだから……」

 香恋の訂正を全て無視してジェットは踵を返す。

「俺の飯は上に運んでくれ」

「上?」

「二階。そこが俺の部屋だから」

「あ、はい……」

 藍の返事を聞くと、ジェットは二階へ上がっていった。

 彼が見えなくなると、脱力したように香恋は大きく息を吐く。

「やっと行ったか。私、あの人苦手なんだよね。何考えているか分からないし」

「え……」

 確かに、藍も彼に対してあまり良い印象はない。しかし、夏生(なつき)を助けてくれた人物だ。

それに、藍はまだ彼についてよく知らない。

 はっきり頷く事は出来ず、藍は曖昧に苦笑した。

「それじゃあ、ご飯にしようか」

 余程おなかを空かせていたのか、香恋はくるり、と身体を回転させて振り返った。その時、甘い香水の香りが周囲に散った。

「でも、その前に……」

 香恋は藍を正面から見つめると、ニッコリと笑い――藍の頬に手を伸ばした。

「ねえ、藍ちゃん」

 両手で顔を固定すると、触れる程香恋の顔が近付いだ。

 藍の頬に、直接彼女の頬が触れる。甘い香りがより一層際立った。

「え、あの……っ」

 自分の胸元に、柔らかい感触が直に伝わる。

  ̄―な、何で私ドキドキしているの!?

 相手はいくら可愛いお姉さんといっても同性だ。煩いくらい心臓の音が響き、甘い香りに目眩がした。そんな藍の反応を楽しむように、すぐ傍で小さな笑い声が聞こえた。

「可愛い……貴女、とても可愛いわね」

「え……っ」

「初々しい反応が、熟れる前の果実みたいで、とても可愛い」

「は、はあ……」

「若さのせいかしら? 肌もすごく綺麗で羨ましい。つぶらな瞳も可愛いし、髪もやわらかくて……」

「そんな事、ないですよ。私、地味ですし。私なんかより、香恋さんの方が……」

 よく見ると、本当に整った顔をしていると思う。きめ細かな肌は人形のようで、髪も一本一本細い。こんな所にいるより女性向けのファッション雑誌にでも載っている方が絵になる。

「あら、そんな事ないわ。藍ちゃんは、とても可愛いわ」

 桜色の唇から、吐息が零れ――、彼女の息が首元に触れる。

「ほんと……食べちゃいたいくらい」

 香恋の細い指が藍の顎に触れる。そして、彼女の桜色の唇が徐々に藍に近付き――、

「……っ!」

 咄嗟に藍は二人分の料理を彼女に差し出した。

「わ、私、ジェットさんのところ……行きますので」

「……ええ。福留さんの分は私が運ぶわ」

 と、香恋は素直に福留幸の分の料理を受け取った。そこに、先程の〝妙な雰囲気〟はない。おそるおそる香恋を見ると、彼女は自分の分と幸の分を持ち、背を向けていた。その時、藍の視線に気が付いた香恋がこちらを振り返り、獲物を見つけたハンターのような目で、しかし相手を誘惑する熱のある目で藍を捉えると、可愛くウインクした。「もし寂しくなったらいつでもお姉さんを頼っていいのよ。お姉さんの隣は、いつも空いているからね」と背後から声をかけられたが、これは聞こえないふりをしておこう。

 やがて香恋の背中は遠ざかり、その場には藍だけが取り残された。

 ――なめていた……。

 インターンシップとはいえ「特別班」にくるだけの事はある。

 ――まさか、香恋さんが〝あっち〟の人だったとは……。

 オレサマ系班長に、不躾なサングラス男。おまけに妖しいお姉さん。

 ――「特別班」って、一体……。



 階段を上がると、細い廊下が待っていた。

 右側には二つ程部屋があり、左側には一つの部屋とトイレ、水道らしきものが見える。相変わらず窓は閉め切られ、空気がこもっている。おそらく、二階を使用しているのはジェットだけなのだろう。廊下に漂う微かな彼の残り香がそれを告げている。

 ――何で、二人分持ってきちゃったんだろう?

 藍の身柄はジェットに一任されている。だからといって、別に夕飯を共に食べる事はない。彼は自分の部屋で食べると言っていた。そうなると、藍はジェットと密室の部屋で二人きりの状態になる。昼間の出来事を思い出し、藍は唐突に恥ずかしくなってきた。

 ――思わず持ってきちゃっただけだし。夕飯を置いたら、すぐに出よう。

 そう決心し、藍はさっさと用事を済ませようと顔を上げる。

 そして、藍が扉に手を伸ばすと――微かに開いていた扉が全開した。

 気配に鋭いのか、彼らは藍が行動を起こす前に扉を開いたり、背後に立っていたりする。最初は驚いたが、それが複数あれば藍だって〝慣れ〟というものが出てくる。

 窓のない小さな部屋。一人部屋にはちょうど良い広さであり、典型的な一人暮らしの部屋だ。天井に小さな電球が吊り下げられ、部屋の奥には一組の布団、真ん中に卓袱台と座布団が一つずつある。洋室のせいか、少しの違和感があるが、必要最低限の物しか置かれてない部屋は典型的な独身男の部屋に思える。

 しかし、一つだけ――、この部屋に似つかないものが存在する。

 正しくは、現在の日本では決して見る事の出来ないものだが。


 ぷーん――。


 耳障りな羽音を立てて部屋の中でハエ程の体長の虫が飛んでいる。布団の近くに虫籠が置かれている事から察するに、彼のペットなのだろうが――。


 ――ありえない。


 絶対に、ありえない――、と藍は思った。

 趣味で虫を飼育する人間は世の中たくさんいるが、実際目の当たりにすると、はっきり言って気持ち悪い。藍のような年頃の女の子からすれば、嫌悪を抱く事もある。

 だが、嫌悪感よりも驚愕が藍を襲った。

 大きさは一センチにも満たない、小さな羽虫。子供の力でも簡単に潰せるだろう。別に虫が飛んでいる事は珍しくなく、山奥だろうと都会だろうと虫くらいはいる。

 その虫には、藍も見覚えがあった。

 日本でも多く生息しているが――、今の日本では決して見る事はない。


 ――蚊っ!?


 人型へと進化した〈人蚊モスキル〉――が進化する前の、虫に分類された時の『蚊』。

 図鑑で見た知識しかないが、確かに人間に狩られる立場であった時の〝虫〟だ。

 昔は今とは逆だったと、どの文献も告げているが――、進化を遂げた後の『蚊』しか知らない世代である藍は、初めて殺せる『蚊』を目撃した。

 ――本当に、虫だったんだ。

 今では怪物に近い生き物が、こんなにもすぐに殺せる姿をしていたとは……。

 初めて見る『蚊』に、思わず驚愕した。

が、すぐに我に返り、多くの『蚊』を部屋の中に飛ばせているジェットを怒鳴りつけた。

「何をしているんですか!?」

「は?」

「何なんですか、これは!」

「何って、俺のペットだけど」

「ペットって……相手は『蚊』ですよ!?」

「だから?」

 全く悪びれていない様子でジェットは指先に『蚊』を集め、五匹の虫を全て虫籠へ戻した。ジェットが教えたのか、宙を飛んでいた虫は合図一つで一斉に虫籠へ向かい、自らその中へ飛び込んだ。ジェットは虫籠の扉を閉め、藍から遠ざけようと棚の上に置く。ジェットの予感は当たっており、藍は宙を飛んでいた『蚊』を全て殺すつもりだった。進化した人型ならともかく、ただの〝虫〟なら藍でも十分に殺せる。何故進化する前の姿なのかは不明だが。

「だからって……。『蚊』は人類の敵です。ジェットさんは《殺虫隊さっちゅうたい》でしょ? 『蚊』を駆除するのが仕事じゃないですか。なのに、その『蚊』を飼うなんて信じられません」

「何を勘違いしているか知らねえけど、こいつらは全員オスだ。血は吸わねえよ。仮に吸ったとしても、こいつらは〈人蚊モスキル〉じゃねえ。別に害ないだろ」

「確かに今はそうかも知れませんが、いずれは人を襲うかも知れません!」

「おいおい。よく見ろよ? こんな小さな虫に、本気で人間が殺せるって思うか? 思わないよな」

「そういう問題じゃありません。〝蚊〟が生きている事自体、私は許せないんです」

 藍の言葉の意味を理解したのか、ジェットは笑うのをやめた。

「おいおい。滅多な事を言うものじゃねえよ。一寸の虫にも五分の魂って言葉知らねえのか」

 子供の暴言を見下しつつ、注意しようとしている大人のように、彼は言う。

「大体さ、死にかけた事もねえ奴が、生き死にを軽はずみに語ってんじゃねえよ。そういうのは一度死にかけてから言え。これだからガキは青臭くて嫌になるぜ」

 子ども扱いされた事が悔しくて、本当はそこまで言うつもりはなかったが、藍はつい拗ねながら言ってしまった。

「何を寝ぼけた事を言っているんですか?」

「あんっ?」

「人ならともかく、相手は虫ですよ? 何がいけないって言うんですか。そもそも、『蚊』なんて、ただの害虫じゃないですか。生きていていい存在じゃない。貴方にとっては、駆除対象じゃな……」

 駆除対象じゃないですか――、

 と、怒鳴ろうとした瞬間――、それが禁句だったのか、ジェットが藍の胸座を掴んだ。

 身構える事すら出来ず、藍の手からは少し冷めた料理が零れ落ちた。皿がプラスチック製なのが幸いであり、カラン――、と音を立てて二つの料理は落ちた。しかし、ジェットは一切気に留めず、乱暴に藍を壁へと押し付けた。

「……っ」

 藍は絶句した。確かに、自分も言い過ぎたとは思っている。しかし、だからといってこんな荒事になるとは思いもしなかった。嫌な未来だけが頭の中を巡り、至近距離のサングラスの男に恐怖を抱いた。それは――、初めて感じた同族への恐怖である。人類にとって、『蚊』は共通の敵だ。対人トラブルはあっても、命の危機を感じる事はなかった。その恐怖を与えるのは、今では『蚊』だけだ。しかし今、藍は初めて同じ人間に恐怖を感じた。

「……駆除対象なんかじゃねえ」

「……え?」

 今の状況に似合わない沈んだ声に、藍はつい訊き返してしまった。

ほんの少し視線を下に逸らしたまま、ジェットは呟くように言う。

「今の『蚊』は確かに人類の敵かも知れねえが、全ての『蚊』がお前達の血を狙っているわけじゃねえ。確かに最近のメスどもは化け物じみちゃいるが、オスは違う。中には、進化しないでのうのうと生きている奴らだっている。加減を覚えて、死なない程度に吸血する奴だっている。全ての『蚊』が、悪いわけじゃねえ。それに……、生まれてきて、死んでいい命なんて一つもない。そんな……生きていちゃいけないような言い方、するなよ」


 この人は何を言っているのだろう――。


 まるで自分の家族や友達を庇うような口調だ。何故人間である彼が『蚊』を庇うのだ。《殺虫隊》として多くの〈人蚊モスキル〉を殺すうちに狂ってしまったのか。それとも、人間とよく似た姿をした〈人蚊モスキル〉に惑わされ、心を奪われたのか。

 ――分からない。理解らない。判からない。解らない。

 ――私には、彼がわからない。


 一体、彼の心には何が――。


「ジェット、さん……」

「……っ!」

 藍がジェットの名を呼ぶと――、そこで彼は目が覚めた。感情的な行動を恥じたように、彼は驚いて藍から手を放した。

「……わ、悪い」

 怯えたように、彼は藍と距離を取った。普通は逆なのだが。

次に――、自分の行動によって起きた惨劇に気が付いたのか、途端に彼は顔を青ざめた。

「お、俺の夕飯!?」

「気にするところはそこなんですね」

「あ、お前の夕飯も!」

 ――私が気にするところ、って言ったのはそういう意味じゃないんだけど……。

 やはり何を考えているのか分からない男だ。

 こうまで態度を変えられると、怒る事も追及する事も出来ない。本来なら、彼の態度に恐怖し、この後の関係がぎくしゃくするところだが、相手がジェットの場合それはない。

 ――普通だったら、彼に怯えるのが普通の反応なんだろうけど。

 実際、怯えていたのは、彼の方だった。

 だから、藍が彼に怯える事はない。あんな顔をされたら――恐怖どころか怒る気にもなれない。

「待っていて下さい。今、掃除用具持ってきますから」

 軽く振り返ると、本日二度目の驚愕が藍を襲った。

 地面に無惨の落ちた料理は、料理ではなくゴミだ。床に転がっているプラスチック製の皿の近くで、ゴミと化した食べ物が床を汚している。

 が、そこにはゴミを掃除する姿ではなく、そのゴミを素手で掴みながら食べる姿があった。

「ちと薄いな。俺はもっと塩辛いのが好みだ」

「ジェットさん!?」

 あろう事か、ジェットは床に落ちた〝ゴミ〟を素手で拾って食べていた。自分の行動による結果だとしても、申し訳ないと思ってくれる気持だけで十分だ。何でいきなり怒ったのかは分からないが、藍もそこまでは要求していない。

 藍は慌ててジェットの腕を掴む。

「ダメです! 新しいものならすぐに作りますから!」

「いいって。勿体ないし。三秒ルールって奴だ」

「とっくに三秒過ぎていますから! 汚いからやめて下さい!」

 藍の説得に応じず、ジェットは床に落ちた全てのゴミをたいらげた。外見がホストである事も含め、藍は信じられないものを見る目つきでジェットを見る。だが、本人はそれがおかしな事だとは微塵も思っていない様子であり、「ふぅ。食った、食った」とお決まりの台詞までいう始末だ。

「ありえない。ありえません。ありえないです!」

「お前の分まで食った事か?」

「そうじゃないです! 床に落ちたものを拾い食いしないで下さい。汚いじゃないですか」

「一応、週に一度掃除しているぞ」

「なお、悪いです!」

 つい大声で叫んでしまい、藍は慌てて口を閉じる。

 年上の役人。まして自分を期間限定保護してくれる相手に向かって、吐く台詞ではない。

 おそるおそる藍はジェットを見上げるが――、当の本人は藍の事から興味がなくなったように、ペットの『蚊』に餌を与え始めた。虫籠の中にスイカを入れ――、彼の言う通りオスの『蚊』は果汁を吸っているのだが、その図はやはり気持ち悪い。


 それにしても――。


 先程の彼は普通ではなかった。

怒りは、哀しみに似ている。怒る行為は心を傷つけられた衝動であり、哀しみとよく似た感情である。何によって怒るかは人によって異なる。何がその者の心を乱すかは個人によって違い、大切なものや譲れないものを侮辱された時、人は激しく憤怒する。

 そして、藍は彼を怒らせた。しかも、その原因は進化前の『蚊』である。

 ――いくらペットとはいえ、『蚊』を侮辱したからって普通怒るかな?


 一寸の虫にも五分の魂。

 その言葉を重んじているような彼の態度を。

 命を大切にし、どんな生き物にも平等に接する彼の心を。

 どんな小さな命も尊重する彼の姿勢を。


 ――私は、心の底から気持ち悪いと思った。


 優しいを通り越して不気味だ。理解しがたく、しようとも思えない。

 もしかしたら、この人は――。

 ――いや、そんな筈はない。ありえない。

 しかし、あの言葉に込められた意味を考えれば、そうとしか……。

 本人に訊けばすぐに答えは出る筈なのに、藍はしばらくの間、奇妙な男を観察した。

 そして、完全に藍から興味を失っている男に背を向け、そっと部屋を抜け出した。

その事すら、彼は気付かない。

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