モスキル~一寸の虫にも五分の魂

シモルカー

第1話 これは進化の物語

       プロローグ


 これは、『進化』の物語。


 西暦2211年。

 現代、人類は『蚊』に脅かされている。彼らは――、人を喰う。

       *


 六月二日。時刻、二十二時三十八分。


 夜の田舎町を彼女は走る。整備された箇所もあるが、人里離れた山の麓となると街灯一つない。少し離れた場所に人工都市があると聞くが、この場所とはえらい違いだ。数時間前に寂れたバス停があった程度であり、ずっと平地が続いている。当然ながら、周囲に人はいない。

 ――当たり前か。

 こんないかにも出そうな場所を無防備に歩いているのは、せいぜい自分くらいだ。

 何故なら、この時間帯に出歩く行為は現代では「命知らず」のする事だから。

 ――早く私も帰ろう。

 逸る気持ちを表すように、徐々に早足から小走りになる。

 しばらく進むと、道が二つに分かれていた。右の道の奥には、遠くに人工的な灯りが見える。このまま真っ直ぐ行けば、人工都市に辿り着く。しかし、彼女は灯りに誘われる事はなく――、もう一方の灯り一つない真っ暗な道を選んだ。左へ進むと、背の高い木々が星明かりを遮断し、暗闇だけが広がっていた。たまに虫の鳴き声が聞こえ、風が茂みを揺らす音と合わさり、不安を増長させる音楽が耳障りな音として鳴り響く。

 確かに人工都市へ行けば、多少だが〝灯り〟があり、そこに集う人間もいるかも知れない。暗い夜道を危険だと認識していた昔なら、彼女は迷わずその道を選んだ。

 しかし、現代は違う。人がたくさんいる場所。光が溢れる場所。そんな危険な道を選ぶ人間など少数だ。

 何故なら――、『虫』は光に集う。

 闇を嫌い、光を求めているのは人間だけでなく、『化け物』も同じなのだ。

 特に、人間という〝餌〟がたくさんいる都市は、彼らにとっては最高の狩り場だ。

 夜が早いのも、夜に出歩く人間が皆無に等しいのも、全ての理由は〝そこ〟にある。

 嫌な予感を消し去ろうと、彼女はさらに早足で駆ける。

「……っ!」

 が、その時、電灯の下で寄り添う男女の人影と微かな異臭を感じ、彼女は立ち止まった。


 寄り添うように並ぶ男女の影。


 時間を考えて、逢引と考えるのが普通かも知れない。

 しかし――、男が地面に倒れた事、その男が全ての水分を抜かれたように干からびている事、そして女の異質な姿。それらが、二人が恋人同士ではなく、「捕食者」と「餌」である事を教えてくれた。「一人」であり「一匹」である『化け物』はゆっくりと振り返る。

 口元を指で拭った後、女は新たな餌を前に微笑む。

『いい香り……』

 気付かれた!

 闇に光る赤い目が、彼女を捉える。女の眼は電球のように辺りを照らし――、煩いくらいに鳴っていた虫の鳴き声が止まった。

『ひっどいな。そんな顔するなんて……』

 『蚊』は――、笑う。

『まるで化け物を見るような目。ホント、人間はひどいな。私達はただ愛しい我が子のための食事がしたいだけなのに』

 女は少し膨らんでいる腹を愛しそうに撫で、楽しげに語る。

『いい香り。本当に、いい香り。貴女、美味しそうね』

 美しい――、と彼女は素直に思った。目の前に立つ女は、美人の部類に入るだろう。

 確かに妖艶な雰囲気は男を惑わせるのだが――、〈人蚊モスキル〉と呼ばれる特殊な虫である彼女は、人間が相手では恐怖しか与えない。


 全ての生き物は、〝進化〟の可能性を秘めている。

 

 例えば――、都会の虫と田舎の虫は同じ種類でも大きさが異なる。虫にとって過ごしやすい環境の中では、彼らはのびのびと成長する。一説では、まだ人間の手の届かない古来では、虫は鳥ほどの大きさがあったらしい。

 そして、生物が進化するもっとも確実な条件は「命の危機」である。

 子孫繁栄を脅かす存在。それに対抗するため、生物は進化を遂げる。劣悪な環境でも生き残れるように死に至る毒を緩和させ、細胞レベルまでの変化を遂げる。

 環境の変化に適合しようと生態は変化し、生物は進化する。そして、かつて『蚊』と呼ばれていた弱い虫は、外敵しかいない環境に見事に適合し、生き延びるために生態すら変化させた。

進化した『虫』――〈人蚊モスキル〉として。

 〈人蚊モスキル〉はこれから起こる事、そして目の前の餌の恐怖で引き攣った顔が面白くてたまらない様子で笑みを深めた。ふいに、彼女は手の甲から口吻を突き出した。それは管のようであると同時に相手を殺す鋭利なナイフのようであり――、先端は赤黒い染みがついている。口吻が人間の皮膚に突き刺されば、その瞬間全身の血が抜かれる。地面に転がる男のように――。

 彼女が咄嗟に後ろに下がり、それを追うように口吻が彼女めがけて伸びて来た時――、人工的な風が、両者の間を引き裂いた。

『……っ!』

 風に混ざる異臭に、〈人蚊モスキル〉は背中の翅を震わせながら後退する。

『この吐き気のするような毒臭は、まさか……』

 〈人蚊モスキル〉が振り返ると同時刻、彼女も鼻をつく匂いに反応して振り返った。


「食事中に悪いな」


 大砲を連想させる巨大な筒を背負った男。

 すっかり暗闇に目が慣れ、その姿がはっきりと彼女の目に映る。

 浮世離れした美貌を持った、丸いサングラスをかけた男。何故、深夜にサングラスをかけているかは不明だが――、それよりも、彼女には気になる事があった。

 彼が羽織っている、濃い緑色の上着に光る紋章。あれには見覚えがある。


 対・〈人蚊モスキル〉用に国が創った組織――、《殺虫隊さっちゅうたい》。


 気が遠くなるほど昔の話。

 当時、『蚊』はハエ程の大きさしかない普通の虫だったらしい。しかし、今では人間そっくりに姿を変え、人間の生き血を根こそぎ吸いつくす『化け物』である。人間と『蚊』の立場は見事に逆転し、今では人間は『蚊』に狩られる側の立場だ。

 しかし、『蚊』が進化を遂げたように、人間も黙って餌になる気はない。

 〈人蚊モスキル〉に対抗するために人間が創った組織――国立殺虫組織、《殺虫隊》。

 「殺虫資格」を持った、〝戦士〟という名の国家公務員の組織。

彼らが使う武器は〝殺虫剤〟と呼ばれる強力な毒であり、〈人蚊モスキル〉を一撃で絶命させる威力を持つ。強力な毒は人体にも影響を与え、人間も長時間同じ空間にいれば危険である。ゆえに、殺虫剤を使えるのは訓練を受けた《殺虫隊》の人間に限る。

 《殺虫隊》の男は〈人蚊モスキル〉を上から下まで観察するように見た後、呟いた。

「出産間近の〈人蚊モスキル〉、か」

『だったら、何かしら? 私の体内(なか)には新しい命があるの。愛しい我が子のために栄養を摂取するのは、母親として当然の事じゃない』

「確かに、な。が、こっちも仕事だ。俺も早く帰って飯にしたい。だから……恨むなよ?」

 男は殺虫剤の銃口を向ける。

 反応の早い〈人蚊モスキル〉はすぐに透明な翅を震わせて宙へと飛び立った。元々、『蚊』の飛行能力は高くない。簡単な風力で飛行障害を起こす。そこは今も昔も変わらず、〈人蚊モスキル〉は長い翅を持っていても大空を羽ばたく事は出来ず、せいぜい宙を舞う程度だ。しかし、回避能力は昔の倍であり、人間の目で追えない速度を持つ〈人蚊モスキル〉もいるらしい。

 しかし――、進化したのは彼らだけではない。《殺虫隊》の男は慣れた動きで殺虫剤の先を天へ向ける。

「どんなに素早くても、空間全体からは逃げられねえよな!」

 叫ぶより早く、男は空間全てを覆い尽くすような広範囲の〝毒〟を放った。風を切る音と大気が汚れるような異臭。それが空間全てを覆い尽くすと共に、〝メス〟の断末魔が響いた。


『あああああああああああああああああああ!』


 頭が痛くなる悲鳴に耳を塞いだ時、身体が宙へ浮いた。驚いて身を固めるが、すぐに《殺虫隊》の男によって横抱きされた事を理解し、彼女は警戒を解いた。

「あー、また名前聞きそびれた。折角、班長に許可貰って墓地貰ったのに……」

 意味の分からない独り言を呟いた後、彼はようやく彼女を見た。

「来い。いくら人間でも、長い間ここにいたら毒にやられる」

 返事をする暇もなく、彼女は毒に満たされた空間から抜け出す。

 男に横抱きされた体勢のまま後ろを振り返ると、ぐったりと倒れる〈人蚊モスキル〉の「死骸」が転がっていた。だが、それもすぐに他の《殺虫隊》か、または役所の人間の手によって破棄されるのだろう。そうなれば、もうゴミだ。生存している時、全ての生物は「個」であり、「命」だ。一寸の虫にも五分の魂――の言葉通りであり、虫ケラすら、その命は尊重される。しかし、死んでしまえばそれは違う扱いを受ける。死骸はただのゴミであり、破棄するだけだ。もし彼女が同じ〈人間〉ならばそれなりに同情の心を抱き、身内ならば葬儀などを執り行うかも知れないが。それは、〈人間〉ならばの話である。

 彼女は『蚊』。『蚊』は虫であり――、人を喰う。

 人類の、敵。それを理解している彼女は、先程まで生きていたものから目を逸らした。

 しかし、何故だろう。自分を助けてくれた男の横顔が、〈人蚊モスキル〉の死を哀しんでいるように見えたような――。

 ――何て、気のせいだよね。

 自分の手で処理した化け物の死を哀しむなど――、まして『蚊』相手に何か感情を抱くなど、〈人間〉のする事ではない。だって――、『蚊』は人類の敵なのだから。


 現代、『蚊』は人を喰う。人類は、『蚊』によって脅かされている。


       一


       *

 国立殺虫組織、《殺虫隊さっちゅうたい》。

 国際警察が創った組織を始まりとし、その後独立した〈人蚊モスキル〉の駆除を専門とする組織。

 「殺虫資格」を持った、特別な訓練を受けた国家公務員によって組織される。

 人類を脅かす『蚊』に対抗するための、人間が作った〝兵器〟。

       *


 八月一日。時刻、十五時二十五分。

 長野県某所。

 《殺虫隊さっちゅうたい・長野支部》。

 そう書かれた看板の前で、深海藍ふかみあおいは佇む。廃墟となった二階建ての建物は、見た目は小さな別荘のように見えなくもないが、人が生活している気配が一切なく、外から見ても薄汚れている。現に、ここまでの道のりは人間が使用するような工夫が一切されていなかった。山道ですら最近では人間の手が加わり、「道」らしいものが出来ているというのに。

 ――ここで合っているんだよね?

 手に持っている地図と目の前の施設を何度も見比べるが、確かに目の前の施設が目的地だ。しかし、今にも壊れそうな古びた建物が本当に《殺虫隊》のアジトなのか――。

 藍がここに訪れたのには理由がある。訪れなくてはならない理由がある。


 まあ、それはさておき――、


 《殺虫隊》は全国に施設を持っている。東京や大阪、北海道などの施設は特に有名であり、何度か雑誌で見た事がある。しかし、地方となると施設の数は少ない。まさか、こんな廃墟とは知らなかったが。

 上着のポケットに手を伸ばすと、固い物が手に当たった。

手に収まる程の小さなスプレー。

携帯用の〝殺虫剤〟。

 〈人蚊モスキル〉を駆除する際に《殺虫隊》が使う猛毒の殺虫剤とは異なり、民間用の殺虫剤の威力は弱く、〈人蚊モスキル〉を殺すまでは至らず、怯ませる程度の弱い毒だ。「殺虫資格」がなくても扱えるため、防犯用に民間人が使用する。そのスプレーをお守りのように握り締めた後、藍はおそるおそるドアノブへ手を伸ばす。


「ノックもなしかよ」


「……っ!」

 突然、真後ろから声をかけられて驚いた藍は後ろに転倒しかける。しかし、気配もなく真後ろに立っていた者の手によって支えられ、どうにか転倒は免れた。

「どんくせえ奴……」

 迷惑そうな呟きが耳元で囁かれ、藍はおそるおそる上を見上げた。

 曇り空なのにサングラスをかけた男。男物の香水の香りが漂っている事もあり、役人というよりホストのような印象を与える。しかし、深い緑の上着は確かに《殺虫隊》の制服であり、現代、世界で一番難しいと言われている職業である《殺虫隊》の人間である事が一目で分かる。

ならば、ここが目的地で間違いない。

「あの! ここに、ジェットさんはいますか?」

「は?」

 急な藍の質問に、男は呆ける。

「ジェットさんなら私の力になってくれると思って……。私、彼に会いに来たんです」

 サングラスの男は困惑するように藍を見下ろす。そこで、藍は繊細な説明を一切していない事を思い出す。

「あ、すみません。実は私……」

ここへ訪れたそもそもの理由を話そうと、藍は男に向き直る。

が、その時――、突然男物の香水の香りがすぐ間近に漂った。

「……っ」

 藍は硬直した。

 先程まで藍と男は会話するにはちょうど良い間隔を開けていたのだが、その距離は縮まり、呼吸が当たる程の距離に男はいた。

「お前……」

 藍の首元で男は囁く。男物の香水の香りや彼の呼吸が首に触れるのを感じ、さらに藍は硬直する。


「お前……いい匂いだな」


「……え!?」

 これは口説かれているのだろうか。

 身体の匂いを嗅いでいるのか、男の息が藍の首筋に当たる。

 はっきり顔は見えないが――、サングラスだけでは隠し切れない美貌を持った男は一言で女性を虜にする才能がある。日の光に当たり、時折、緑色に光る細い髪も美しい。きつい香水が大人の香りに感じ――、

「あの、私……そのっ」

 焦ったせいで、上手く言葉がまとまらない。

 ――というか、本当にこの人が《殺虫隊》の人なのかな?

 ホストにしか見えない彼は長野の山奥にいるよりも、東京の歌舞伎町や新宿にいる方が似合う。制服を着ているが、本当に〈人蚊モスキル〉と戦う《殺虫隊》の人間なのか――。

 そして、藍が何か反応する前に男は藍から離れ、扉を開けた。

「どうした? お前、ここに用があるんだろ?」

「え、あ……はい」

 先程の行動のせいか、藍は曖昧に頷く。当の本人はその事を忘れてしまっているのか、やる気のない態度で言った。

「なら、とっとと入れ」

 優しいとは程遠い態度で促され、藍は言われるがまま彼らのアジトに足を踏み入れた。


       *


「六月二日。二十二時五十六分。夜道でぇ、〈人蚊モスキル〉がぁ、民間人のぉ女性を襲ってぇ。偶然その場をパトロール中だったぁ、《殺虫隊さっちゅうたい》によってぇ、〈人蚊モスキル〉はぁ駆除されぇ、女性はぁ、無事ぃ保護された。しかし、襲われた女性の証言によってぇ、また襲われるかも知れない要因を抱えている事を知りぃ、その要因をこちらでぇ、保護する事が決められたぁ」

 今にも切れそうな電球のせいでうす暗い部屋の中、室内なのにサングラスをかけた男は報告書を面倒くさそうに読み上げる。内容はしっかりとした報告書なのだが、読んでいる人間のやる気のなさが評価を下げている。

 《殺虫隊・長野支部》。

 外装は廃墟となった事務所のようであり、今にも壊れそうな二階建ての建物。

 部屋の奥には「班長」と書かれた名札が置いてある席があり、その近くには観葉植物が置いてある。その他には二階へ続く階段と、机と椅子が三つ、大きなソファが二つ置かれている。部屋の面積に合わない大きなソファが二つもあるせいで部屋全体がとても狭く感じる。

 ちゃんと換気していないせいか、部屋の中に淀んだ空気がこもっている。窓を開けたいのだが、その窓の前に掃除ロッカーがあり、部屋は完全に密室だ。

「で、その要因がこいつ……」

「あ、え……?」

 突然サングラスの男に指差され、藍(あおい)は間の抜けた声を漏らす。

深海藍ふかみあおい。私立百合野ゆりの学院、高等部一年。両親とは幼い頃に死別していて、四つ上の姉の深海夏生なつきと二人暮らし。……で、間違えないな?」

「あ、はい」

 何だか尋問みたいだな――、と思いながら藍は頷いた。

 今、藍が座っている場所は大きなソファであり、その正面には二人の男女が座っている。

 一人は報告書を読み上げたサングラスの男。

 藍が玄関先で会ったホストっぽい男だ。何故、室内でサングラスをかけているのかは不明である。

 そして、もう一人は《殺虫隊》の男物の制服を着た長身の女。形の良い胸に、引き締まった腹筋や細くて長い脚。モデルのような完璧な体型であり、同じ女として羨ましいのだが――、その顔は無表情であり、出会ってから一度も声を聞いていない。目つきが鋭いせいか、クールを通り越して「怖い」印象が強い。

「おい。本当に、この小娘が〝S型〟なのか?」

 今まで黙っていた女が怪しむように言った。

「多分そうッス」

「多分って……こいつを呼んだのはお前だろ?」

「そうは言われましても、俺も姉ちゃん助けた時に相談されて報告したら、こうなったみたいな感じッスから、詳しい事は知らないッス。その時の詳細な記憶持ってないッスし。何ヶ月前の事かも……。今日が八月一日だから、二ヶ月前か?」

 二ヶ月前――?

「え……っ」

 思わず声に漏らしてしまった。が、藍の言葉など興味がないように、胸が立派な彼女が藍の声をかき消すように言った。

「素直に忘れたって言え。つか、報告書があるなら俺にもちゃんと言えよ、バカ、アホ、バカ」

「そうは言われましても、こういうのって〝レイ〟の仕事だし。本部への報告書の提出だって、レイがやってくれたし」

「何でもかんでもアイツに頼るな。つうか、何でレイは〝班長〟であるオレには何の連絡もしねえんだよ」

「そりゃ、報告しても意味ないからじゃないッスか? 事務処理はレイの仕事ッス。機械音痴の出る幕じゃないッスよ」

「腸抉り出されてえのか、テメエは!」

 やる気の感じられない若者独特の敬語になり切れていない妙な言葉遣いの男と、まるで男のような荒い言葉遣いの無表情の女は、口論に近い会話を続ける。

 彼の話をまとめると、二ヶ月前に彼と夏生は会い、夏生は彼に助けられた事になる。そして、夏生の紹介で藍が訪れた。

 しかし、その時の詳細な情報が一切ない。始まりが夏生を助けた事なら、少しくらい当時の事に触れてもいいのではないか。

それに、彼の言葉は〝少し〟おかしい。

「おい!」

 いつの間にか二人の会話は終了したようであり、長身の女が少しだけ身を乗り出した。

「報告によるとお前はS型の人間と聞いたが、間違いないな?」

「あ、はい。そうです」

 

 S型とは、血液型の一種だ。

 血液型とは血液内にある血球の持つ抗原の違いをもとに決められた血液の種類――、つまり「タイプ」である。

 日本ではABO式血液型が一般であり、A型、B型、O型、AB型の四種類があり、血液型による性格診断や相性などがブームになった時期もあった。しかし、世界には様々な血液型が存在し、新種の血液型も存在する。そして、近年新しく発見された新種の血液型が〝S型〟である。

 A型からもB型からも生まれる可能性もあり、どの組み合わせで誕生するのかは現段階では不明だ。五十人に一人の日本人が持つ、非常に珍しい血液型である。

 ゆえに、〝スペシャル〟。


「S型。別名、特殊血液型。輸血の数が少ないため、生まれた時から怪我に注意して生きなければならない。逆に、輸血は受け入れられないが、A型、B型、O型……どの血液型に対しても輸血が可能な、特別な血。そして、その香りは〈人蚊モスキル〉を誘いやすい。人間界において特別な血はそれを食する〈人蚊モスキル〉にとっても、非常に貴重で希少で、そして魅惑的な〝味〟だ。その特殊な血を、お前はその身に宿している」

 サングラスの男の言葉に、藍はやや間を開けた後、小さく頷く。

「はい。私は……、S型です」

「詳しい話はお前の姉ちゃんから聞いている……ような気がする。悪いな。記憶力には自信がなくて」

 軽く頭を掻きながら、男は続ける。

「進化した『蚊』の嗅覚は獣を超える。香水のように、血の香りは他者にうつる場合がある。その残り香に誘われてくる〈人蚊モスキル〉もいるだろうな。特に、今は夏。奴らが活発になる季節だ。姉ちゃんがお前を避難させるのも頷ける」

「姉さんを助けてくれたジェットという人が、ここへ来ればどうにかしてくれる、って……」

 ジェット――。その言葉に、二人は過敏に反応した。

「それで、ジェットさんは? 保護してくれるんですよね?」

探るような藍の問いに、長身の女は相変わらず男っぽい言葉遣いで答える。

「一応、決まりだからな。S型は保護対象。S型の人間が保護を求めた場合、俺達は断れない。と言っても、大体の奴が研究施設やら病院やらで保護されていると聞くが……何でわざわざウチに? 姉ちゃんの薦めとはいえ、警備の厳重な施設の方が身の安全は保障出来るぜ?」

「それはそうなんですけど……。私は、この地を離れるわけにはいかないんです。研究施設があるのは東京都や大阪、北海道の三つだけですし。それに、ああいう有名な施設は、それなりの費用も発生しますので」

「それなら、長野唯一の《殺虫隊》のあるこっちの方がいいってか。まあ、施設に行けば、確実に研究されるからな。それにプラスして生活費やら警備費やらも取られるとくる」

 彼女の言う通り、藍が施設ではなくこちらを選んだのは研究に利用される事が嫌だという理由もある。それに、いくら警備が厳重でも人間の作ったものならば、必ずスキがある。そこを突かれて彼らの餌になるのは御免であり――、それならば確実に『蚊』を殺せる人間の近くにいる方が安全である。

「お願いします。私を保護して下さい。夏休みの期間だけでいいんです」

「保護って……。お前、あの名門学校の生徒だろ?」

 と、彼のような彼女は、藍の着ている制服を指差す。

 藍の着ている白いブラウスの胸元には、ユリをモチーフにした百合野学院の校章があり、モズグリーンのスカートや学校指定の靴下にまでユリが刻まれている。国内でも有名であり、制服を見ただけで大抵の人は何処の生徒か分かる。それには彼女も含まれており、彼女は物珍しそうに藍の制服を見た。

 それに対し、サングラスの男は呆れたように大袈裟に溜め息を吐いた後に言った。

「確かに、こいつの通う百合野学院は二十四時間体制で《殺虫隊》が警備しています。今の日本で、唯一〈人蚊モスキル〉の襲撃に怯えなくてもいい場所ッス。けど、それは学生や教員のいる期間だけッスよ」

 キョトンとした顔で彼を見上げる彼女に、藍は付け足す。

「警備が生きているのは学生や教員がいる期間だけで、夏休みみたいな長期休暇の間は学生と同じように《殺虫隊》も帰省してしまって、全ての警備システムが死んでしまうんです」

「そうだったのか……」

 同じ《殺虫隊》なのに知らなかったのか、彼女は無表情の上に少しの――、本当に少しの驚きを見せた。

「つまり、警備が死んでいる間だけ、俺達が死んだ警備の代わりになればいいって事か。他力本願だねぇ」

「え、ええ、まあ。簡単に言えばそうですけど……」

 そんな言い方しなくてもいいのに。

「……ふぅん」

 ようやく納得したようだが、その後の呟きは実に面倒そうであり、まるで他人事だ。保護を求める少女の事情など自分には関係ない――、と目が言っている。

 ――こんな事なら、他の《殺虫隊》を頼った方がいいのだろうけど……。

 希少種であるS型が《殺虫隊》に保護を依頼した場合、彼らは必ず応えなければならない。しかし、先程の彼らの態度を見ていると、相手が特殊血液型だろうと普通に追い返しそうであり――、藍は深く頭を下げた。

「お願いします! 私を保護して下さい」

 相手が頷くまでは絶対に頭を上げないつもりで藍は言った。

しかし、意外にも藍の頭は簡単に上がった。

「女がそう簡単に頭なんか下げんなよ。そんな事をされなくても、こっちはお前を保護する準備は整っているんだ」

 思ったよりも優しい言葉に頭を上げると、サングラスの男がこちらを見下ろしていた。相変わらずサングラスのせいで表情は分からないが、藍に頭を下げさせた事を申し訳なく思っているように見えた。

「姉ちゃんにも言ったが、S型は保護対象。保護を求めるなら、こっちは受け入れる。夏休みだろうと、お正月スペシャルだろうと。ここにいる間、お前の事は俺達で護ってやるよ」

「あ、ありがとうございます!」

 何とか話がまとまり、藍はホッと胸を撫で下ろす。

「班長も、それでいいッスよね?」

「ああ。元々、お前が持ち込んだ案件だ。途中で放り投げたら、男じゃねえ。ちゃんと面倒みろよ」

 やる気のない彼女の言葉に、藍は訊き返す。

「あの、班長って……」

「あ、そういえば自己紹介がまだだったな。オレは《殺虫隊・特別班》、班長。福留幸ふくとめさちだ。ここの責任者をやっている。よろしくな」

「よろしく、お願いします」

 まさか「彼」とも呼んでも不思議のない彼女が責任者だとは思わず、藍は「嘘!?」という言葉を呑み込み、軽く頭を下げた。

「それで、こっちが……ジェット」

 幸は自分の左側に座る男を指差す。

ジェット。その名前は姉を助け、ここへ来るように間接的に誘った男だ。幸が指差す男がその名の持ち主ならば、目の前の彼がジェット本人となる。

「う、嘘!? 貴方が、ジェットさん?」

「ああ。《殺虫隊・特別班》所属、相須あいすジェットだ」

「そんな筈は……。あ、いえ。何でもないです」

 思わず本音を出しそうになってしまった藍は途中で言葉を切る。

おそらく顔に出ていたのだろう。彼は不満そうに唇を尖らせた。

「何だよ? お前も、アレか? 人の名前を殺虫剤みてえな名前とか思ってんのか?」

「え? あ……」

 ――言われてみれば……。

 言われるまで気付かなかった藍は今更ながらに思ってしまった。それが伝わったのか、不満を覚えたように彼は席を立つ。

「じゃあ、班長。俺は上にいるんで、用があったら呼んで下さいッス」

「ああ。つか、お前は今が勤務時間って事を覚えろ」

「へーい」

 生返事と共に彼は去る。

ギシギシ――、と古臭い階段の音が鳴り響き、次第にその音は遠ざかっていく。

 彼が去ったため、この場所は藍と幸だけとなる。

 少しの沈黙が辛く、藍は何か言わなければ――、と話題を探すが、

「まあ、そういうわけだ。お前の事はジェットに任せたから、何かあったらジェットを頼れ。いいか? 絶対にジェットだからな。オレを頼るなよ」

「え、あ……はい」

「分かればいい。俺はガキが嫌いなんだからよ」

 突き放すように言うと共に、彼女もまた席を立ち、部屋の奥にある「班長」と書かれた名札のある席に座った。そして、引き出しの中からゴシップ雑誌を取り出し、机の上に両足を乗せた体勢で読み始めた。大人の女性のする体勢ではない――、と思うのだが、当の本人は全く気にしておらず、保護対象の前でくつろぎ始めた。



 〈人蚊モスキル〉と勇敢に戦う、人類最後の希望――《殺虫隊》。

 藍の知る《殺虫隊》とは違った、異色な二人は藍に保護して貰える安堵ではなく、不安を抱かせた。

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