竜暦1万飛んで52年 ィミーシャ :2
一度大海に放たれたのなら、魚はもう故郷へは戻れない。
ドワーフたちがこの地を地獄と呼ぶというのなら、そこに生きるダークエルフたちは死してどこへゆくのだろうか。
ハルルは渓流に釣り糸を垂らして思索に耽っていた。ィミーシャの白い森の中は、すぐ隣に広がるマンドラゴラ泥炭地と比べてあまりに穏やかだ。淡水魚が盛んに行き来するこの流れを覗き込めば、ドワーフたちとて考えを改めざるを得ないだろう。
「……とはいえ、思ったより釣れないものね」
警戒心が強いのだろうか。先ほどからまるで針にかからない。木枯らし虫の繭からとったテグスが、ただ澄んだ水の中できらきらと光っている。ダークエルフの曰く、世界で漁撈を最初にはじめたのは小さな木枯らし虫の老人であるらしい。
「だーめだ。河岸を変えましょ」
気が付けば、梢の間から見える日がかなり高く上っていた。一歩間違えば餓死が待っているこの状況で、限られた時間を無駄に浪費するのは得策ではない。というのも、ハルルは昨日の夕刻になってようやくこの森に到着して早々、食料であった干し肉をすべて失っていた。歩を進めるうちに忽然と懐から消え去っていた干し肉は果たしてハルルの不注意によって落としたものか、それとも……。
徐々に不満を訴え始めた自らの胃袋をなだめすかすハルルの脇では、カトブレパスが道草を食んでいる。恨めしげににらみつけても、珪酸を多量に含む下草はとてもではないがハルルのような小人族の食用には適さない。
――と、ハルルはカトブレパスのかたわらにひとつの人跡をみとめた。
それは、どうやら道標のようにみえる。雑な三角形に成形された石材には、複数色の塗料で幾何学様式の紋様が描かれていた。
「ダークエルフのサインだ……」
ハルルはキィ=シュの大図書館で同じ図案を紹介する書物を読んだことがあった。
「たしかこの紋様は……”青・巨人の宴・つむじ風”?」
意味不明である。シンボルひとつひとつが意味するところが分かったとしても、その符号を理解するためにはちょっとした午後の読書程度で得た知識ではあまりにも不足だ。
「とはいえ新しいものみたいだし、ここには誰かしらが出入りしてるってことよね」
道理で魚が警戒しているわけである。この川では日常的に漁が行われているのかもしれない。
ハルルはため息をひとつつき、カトブレパスを引いてさらに森の奥へと進んでいった。
※※※
結局、日暮れまでかけて3匹の小魚を獲ることができた。……のだが、翌朝になってハルルは再び頭を抱えることとなる。
保存のために焚火で焼き干しにしておいた二匹が、忽然と消えていたのだ。
「や、やられた……」
ハルルは己の勘を過信していた。たとえ眠っていたとしても、そこへ近づくものあらば目を覚ませるものと思っていたのだ。いや実際、彼女はこれまでそのようにして危機を逃れたことが幾度もあった。
しかし此度はどうだろう。目と鼻の先に突き立てておいた串刺しの小魚はもういない。あとには灰になった薪の中で熾火がくすぶるのみだ。
「ウシミ……お前が食べたんじゃあないだろうね?」
早起きなウシミ(カトブレパス)は相変わらず道草を口の中でもぐもぐとやるだけで、当然なんとも応えることはない。
ともあれ、ハルルがどんなに手練れだという自負を持っていたとしてもこの森においては客人に変わりない。盗人が獣にしろ、ヒトにしろ、ここでは相手の方が無条件に一枚上手だ。
「旅先では謙虚でいなくっちゃね。師匠、忘れるとこでした」
この森を抜けるまで、あと二日はかかる。より気を引き締めてかからねばならないだろう。
渓流に沿って歩を進めたハルルはその日、コツを掴んだのか5匹の小魚を捕らえた。
そして次の日の朝には、その全てを奪われた。
※※※
これは困った。
ィミーシャの白い森に足を踏み入れてからずっと、ハルルの計算は狂いっぱなしであった。不測の事態に備えて食糧確保の計画にはある程度以上の余裕を持たせてあったのだが、完全にその余裕の範疇を超えた事態が起こっている。
まあ、落ちのびるとはそういうものなのだが。
「それはそれとして、よ」
現実問題として、ハルルの肉体は限界が近いことを訴えてきている。こんなことなら、昨日のうちに捕まえた魚を全て食べていれば……。
「……」
つい、またたき三回ほどの間、ウシミのことを見つめた。
「いや……それは最後の手段でしょ」
ハルルは今日一杯の間まで、細々とした漁撈に賭けてみることとした。ちなみにカトブレパスの肉は野生種の生息地である神聖帝国東部の湿地帯で、原住民のノームたちがシチューの具として好んで食する。強面の外見に反して、固すぎない肉質は上品な味わいであるらしい。
ハルルはかぶりを振り振り釣り具の準備にかかり……いや、全くの無策で臨むというのもいかがなものか、と手を止めた。ハルルの視線は、今度はウシミの背に括りつけられたオークの生首へと向けられていた。
「カカシくらいは立てなくっちゃね」
今のハルルは少々、判断力が鈍っているのかもしれない。彼女の頭の中には、いつかハイエルフたちが経営する大農園で見た、鳥よけのカカシの記憶が蘇っていた。
……果たして閑静な森の中に、生首を突き刺したおどろおどろしい木の棒のオブジェが屹立することとなった。死後数日が経過したゲルゲサの生首は低い気温のために腐敗こそしていないが、表皮は乾いてしおれ、変色が始まっている。……心なしか、梢が擦れ合う音もひかえめになったようだった。
「ちょっとぐらいは働いてもらうわよ。ゲルゲサ殿」
確かに翌朝、釣果である七匹の魚はひとつとして欠けることなく夜を明かした。
が、しかし。ハルルの設置した生首カカシは、彼女へさらなる不幸を呼び込むこととなるのであった。
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