ハルルの焼け野原日記

ピータン空蝉橋

序章

竜暦1万飛んで52年 ィミーシャ :1

 彼方に野火が走っている。あれは、今度もたどり着けなかった光だ。


 広大な北西平原の沿海部に位置するマンドラゴラ泥炭地帯は、まさしく死の大地と呼んでさしつかえないだろう。地平線の彼方まで続く漆黒の荒野は、全て叫ぶ毒草の死骸で作られている。遥か昔、ここに群生していたとされるマンドラゴラが気候の寒冷化によってゆっくりと死に絶え、今では炭の化石と変わり果てて堆積しているのだ。致死毒を多量に含んだ黒い土には、もはや芽吹く命などない。聞くところによれば南方に住むドワーフの一部族の世界観において、地獄とはこの地を差すのだという。

 そこに、新たな死骸が積み上げられていた。

「まったく、また負け戦だ……」

 脱力して佇む緑のサーコートと板金鎧に身を包んだ女騎士。その目の前に転がるのは、モノ言わぬオーク族の巨大な頭部。兜の頭頂に取り付けられた貴金属の女神像は、彼が軍属の、一指揮官であったことを示している。彼は今しがた、自らの手で己の首をねじり切ったのだ。

「猛将ゲルゲサ、天晴な最期だったわよ」

 女騎士の呟いた手向けの言葉は、どこか諦観を含んで木枯らしにかき消された。

 この死の荒野は、オーク族が支配する国家「キィ=シュ神聖帝国」にとっては国境から北の海へと抜ける最短の通り道であった。竜暦1万飛んで52年秋の暦、3度目の満月の頃、先帝の死を受けて戴冠したばかりのボルボビーラス麝香帝が直接率いる近衛錫色騎士団はこの地の支配を争って膠着する妖精連合軍との戦線を打開するべく、明朝から全軍による突撃を敢行した。オーク騎士花形のカトブレパス騎兵じつに180騎が先頭に立った壮烈な攻撃だったが、精霊術を用いる妖精たちの巧妙な防御陣地を前に有効な打撃を与えることができず、作戦は失敗。全軍の戦力のうち3割近くが失われる大敗北を喫したのであった。後の歴史家によって、およそ300年続いたオーク族国家が衰退へと向かう転換点に位置づけられる合戦である。

 女騎士はオーク……ゲルゲサの首を拾い上げた。彼らの軍に客将として参陣していた彼女は、ある遺言を預かっていた。

『客将たる貴公にこんなことを頼むのは本来筋違いのことと分かってはいるが――』

 彼女は遍歴であるがゆえに雇い主とのビジネスライクな関係を好んでいた。が、かといって戦場に生きるひとりとして、義理人情の類にまったく疎いわけでもなかった。

『この首、王の御元まで、きっと届けてはくれぬか』

「……サービスってことにしといてあげる」

 遍歴の女騎士、ハルル。人呼んで“落ち武者のハルル”。負け戦に付き合わされるのは、これでじつに19回目のことであった。


※※※


 雨季を終えると、北西平原はその北部に広がる凍海から流れ込む大寒波によって急速に気温を下げる。その寒さは、多量の雨水によってタール状となっていた泥炭地が3日で釘も通らぬ凍土に変わる程だ。

 よって、負け戦から落ちのびるのにも相応の覚悟がともなう。”落ち騎士”のベテランたるハルルとしても、此度ばかりは生きて戻ることは叶わないかもしれないという想像が頭をよぎっていた。

「ま、まずは、ど、どうにかして体を暖めなくちゃね……」

 陽はすでに傾き、気温はさらに下がり続けていた。ハルルのような小人族(エルフ族によく似ているが、平均身長は少しばかり低めで、耳の丸い種族。オーク族の学者が博物誌にこの名で記載したことから定着した名称)が、何もせずに一晩をあかせるような環境ではない。

 食糧は干し肉が5切れ。火打ち石もある。燃料も、放棄されたチャリオットなどを分解すればどうにかなるだろう。しかし、この地においては迂闊に火をおこせない理由がある。

「ええと、確かこのあたりに……」

 ハルルは神聖帝国の陣地の中から、乗り捨てられた幌馬車の残骸を探していた。焚火から火の粉が飛ばないようにするためである。何故かといえば、この大地が泥炭で構成されているから。寒冷な気候によって腐ることなく半ば化石化したマンドラゴラたちの死骸は、強力な可燃性を持っていた。しかも燃焼と共に空中に毒の煙を放つ。この地の真ん中で火をおこすことは、すなわち自殺を意味することといえた。先だっての戦においても、妖精たちは乾季の間、自軍と神聖帝国軍の間に火を放ち、炎の砦を作りあげた。オークたちが長い間攻めあぐねていたのも、数少ない原住民であるダークエルフたちが凍海に潜む怪魚の涙に例える三日三晩の大雨が訪れるまでは決して消えることのない、毒の炎が原因のひとつであった。カトブレパス騎兵が今回の突撃の主力となったのも、象徴的な意味合いのほかに、その悪路走破性をして雨季の終わりとともに迅速に行動を起こすためという理由があった。

 オークたちの死体の間を彷徨うことしばらく。太陽が地平に姿を消し始める頃になってようやく、果たしてハルルは幌馬車の残骸を見つけることができた。将官用だろう。停車すれば簡単な作業だけで指揮所のテントに転用できる大きなものであった。側面には皇帝直属の近衛騎士団を示す紋章が描かれている。稲妻に似た葉脈を持つ広葉樹の葉。帝都なら飼い犬でも諳んじられるといわれる神聖帝国の建国神話は、一本の木の根元から始まる。

「こうなっちゃ形無しだけどね……っと」

 この指揮所の主は逃げ出したのか打って出たのか。中には目立って荒らされた形跡も、死体もなく、きれいなままであった。食糧などの物資は持ち出されてしまっていたが。

「風除けがあるだけでも贅沢ものだわ」

 ハルルはその経歴のためか、それとも生来のものか、独り言の多い質であった。ぶつぶつとぼやきつつ、馬車内部の木製調度品を分解していく。そうかからずに一晩分の薪が集まり、火が点いた。暗闇に沈み込もうとしていた周囲が、確かな熱とともにぼうっと明るくなる。

 幌馬車の外は一面、冷たく物言わぬ死体の山だ。このようにして落ちのびるたび毎度のことだったが、ハルルは負け戦で夜を過ごすとき、自分が世界でたった一人とり残されたような気分になる。焚火をはさんで正面にゲルゲサの首を置いてみた。彼は何も言わないが、今回の道行では唯一の同行者だ。悪い気はしない。

 火が灯った幌馬車は、妖精軍の陣地からもよく見えることだろう。この気温では妖精も残党狩りには出られないだろうが、明朝は早々にここを離れなくてはならない。

「……ねえ、ゲルゲサ殿。貴公はどう思う?」

 これからの旅のプランをゲルゲサと”語り合い”つつ、ハルルの夜は更けていった。


※※※


 オーク騎士の駆るカトブレパスは、特徴的な咆哮をあげるように調教されていた。地鳴り、あるいは赤ん坊の泣き声のようと形容されるその咆哮を聞いた敵軍の兵はあまりの恐怖に体が硬直し、その場から動けなくなるといわれた。

 聞き間違えるはずはない。そんな咆哮を間近で聞いて、ハルルの意識は覚醒した。

「わぁっ!?……ね、寝てた?」

 幌への延焼を防ぐために徹夜で火の番をしていたが、夜明けに至って意識が途切れかけていたようだ。慌てて火を消し、幌の外を覗くと東の地平が色づき始めているのが見えた。

「確かに今の声って……」

 想像以上に疲労がたまっていたようだ。日が差す前に目を覚ますことができたのは幸いであった。ハルルは周囲を警戒しつつ外へ出、咆哮の主、恩人の姿を探す。

 果たしてすぐに、幌馬車の陰に小山のようなその姿をみとめた。

「やっぱり、カトブレパス!」

 オーク軍が置き去りにしたのだろう。一頭のカトブレパスが幌馬車に繋がれていた。比較的小さな個体のようだが、小人族にとってはそれでも巨大だ。

「私が乗るならこの大きさが限界ね。重畳、重畳……」

 たとえば今、ハルルの鎧の腰に括りつけられているゲルゲサが戦場にて常に共にあった”愛馬”は神聖帝国全軍の保有するカトブレパスの中でも最大級の個体で、肩の高さは象にも迫ろうかというものであった。

 ともかく、思いがけず移動手段が目の前に現れたのは幸運であった。ハルルは徒歩での移動を覚悟していたが、それは同時に死の覚悟をも要するものであったのだ。

「ええと、それならここに……あった!燃やさなくてよかったわ」

 ハルルは一旦幌馬車に戻り、持って出てきた棒きれのようなものをカトブレパスに噛ませた。オークが用いるカトブレパスの銜の中には、咆哮を抑えるためのものがある。神聖帝国領の南部に自生する亜熱帯性の灌木は、ある種の偶蹄類を落ち着かせる芳香を放つことが知られている。

 東の方角、今まさに太陽が昇ろうとしている地平に目を凝らすと、逆光で黒く染まるその形状がほんの少し歪んでいることが見て取れる。それは戦場の遥か後方に広がる『ィミーシャの白い森』の梢だ。オークの軍勢はこの森を越えてやってきた。

 そしてその地平こそが、ハルルが目下、たどり着くべき場所だ。カトブレパスの首筋を平手で叩くと、重々しく進みはじめる。朝日が影を形作るよりも早く、一頭分の蹄跡が点々と黒い大地に残されていった。

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