3

「どうやら、リアースの聖女には逃げられたようですね」


 夜――


 許しもなく寝室に入って来て、唐突にそんなことを言った男に、グーデルベルグ国第一王子ニコラスは驚かなかった。

 隣で妻のリリーが健やかな寝息を立てていることを確認し、ニコラスはベッドから起き上がる。ベッドの足元に畳んでおいていたガウンを羽織ると、冬の重たいカーテンを開けた。


 窓の向こうには真っ暗な夜闇が広がっていた。途中でメイドが薪をたしたのだろうか、赤々と燃える暖炉が窓に映る。そしてもうひとつ。銀色の長い髪をした背の高い男が、扉に寄りかかるようにして立っているのが見えた。


「逃げられることも想定の範囲内だったのだろう? ヴィンセント」


 振り向きながら問えば、男――ヴィンセントは翡翠色の瞳を細めて笑う。

 ニコラスは窓際のライティングデスクの引き出しから、飾り気のない箱を取り出した。


「これがこちらにある以上、聖女はいずれ必ずここに来る。そう言ったのはお前だ、ヴィンセント」


 ヴィンセントは答えず、代わりに艶然と微笑むとベッドで眠るリリーを見て言った。


「あなたも彼女も、調子はよさそうですね」

「ああ。すこぶるいい。これもお前のおかげだな」

「それは重畳。けれど、お伝えした通り、その体は永遠ではありません。永遠を手に入れるためには――」

「わかっている」


 ニコラスはヴィンセントを遮ると、箱を引き出しの中に収めて眠るリリーに近づいた。

 そっと前髪を払いのけるように額を撫でて、眉を寄せる。


「……リリーのためだ」


 うめくような言葉には様々な感情が混じっていた。

 ヴィンセントは肩をすくめて、ドアノブに手をかける。


「永遠はすぐ目の前にあります。そのためにはリアースの聖女が邪魔なのです」

「……本当に、うまくいくのだな?」

「あなたと彼女をこの世界につなぎとめたものが何だったのか、お忘れですか?」


 ニコラスは顔をあげ、それから大きく頷いた。


「そうだったな。……お前の言うことに、間違いはない」


 ヴィンセントはその答えに満足したように口端を持ち上げ、静かに部屋から出て行った。

 ニコラスはリリーの寝顔を見つめて、薄く微笑む。


「リリー……、リリアーヌ」


 呼びかけても、眠るリリーは答えない。

 ニコラスは彼女の隣にもぐりこむと、その細い体をぎゅっと抱きしめた。


「待っていて。君を絶対に取り戻して見せるから」


 リリアーヌ、とすがるようにもう一度呼びかければ、わずかに彼女の長い睫毛が揺れた。

 ニコラスの腕の中でゆっくりと瞼を持ち上げた彼女は、しかし寝ぼけているだけなのか、幸せそうにふわりと微笑んで再び目を閉じる。

 ニコラスは彼女を抱きしめたまま目を閉じた。


「君がいれば……、君さえいれば、それでいい」


 たとえそれが、世界のすべてを敵に回すことであろうとも、この腕の中のリリアーヌが微笑んでくれさえすれば、それだけで――

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