聖女の棺
1
五歳だった「彼」にはその判決が何を意味するのか、わからなかった。
二か月ほど前から父が頻繁にどこかに呼び出されていることは知っていた。社交シーズンであっても領地から出ようとしない父が、その時ばかりは疲れたような顔をして頻繁に王都に向かっていたから、きっと何か重要なことがあったのだと、なんとなく思った。
彼は五歳の割には利発な子供だったと思う。
断片的ではあるが、大人たちの難しい会話の意味を理解することはできたし、両親の表情からこれは「よくないこと」だと感じ取ってはいた。
だが、彼の中では、その「可能性」はゼロだったと言っていいだろう。
そう――、ある朝、王都から息を切らしてやってきた従者が、父の死を告げたとともに血を吐いて倒れた、その瞬間を見るまでは。
その知らせを聞いた時、母は泣き崩れなかった。
茫然とする彼を、母の弟に押しつけると、急いでこの国から出るように告げた。
五歳の子供が、母親から引き離されて穏やかでいられるはずがない。泣いて縋った彼を抱きしめた母は一言、「生きて」と言った。
そのあと母がどうなったのか、詳しくわかったのは数年がたってからだ。
叔父とともに北へ逃げた「彼」は、誰かがこう噂をしているのを聞いた。
――禁忌を犯したヴァーミリオン家が、取り潰された、と。
その瞬間、彼は母が死んだことを悟った。
☆
グーデルベルグ城の裏手にある離れ。
前王の愛妾が使っていた離宮で、グーデルベルグ国王は療養中だった。
グーデルベルグ国王セオドアにとってこの離宮は、あまりいい思い出のない場所だ。なぜならここで暮らしていた前王――彼の父の愛妾は、グーデルベルグ国王の実の母親だったから。
前王である父には四人の妃と、身分の低い愛妾が一人いたが、四人の妃たちの間には姫しか生まれなかった。王子を生んだのは愛妾ただ一人で、彼女はセオドアを生んだと同時にこの離宮が与えられ、そして生んだ王子は取り上げられた。
母から取り上げられたセオドアは第一妃のもとで育てられたが、第一妃は愛妾の生んだ王子に冷淡だった。だが、生母に会うことには禁じられ、セオドアが実の母と会うことを許されたのは、第一妃が他界する直前――彼は十三歳になっていた。
父と養母である第一妃から愛情らしいものを与えられずに育ったセオドアは、生母に会えると聞いたとき、期待した。実の母であれば自分を愛してくれるだろう。会いたかったと言って抱きしめてくれるかもしれない。
だが、その期待は無残に砕け散ることになる。
――お前なんて産まなければよかった。お前さえいなければ……。
セオドアは絶望した。セオドアを見つめる母の目には、憎悪しかなかったからだ。
あとから教えられたことによれば、母はセオドアを生み、離宮に移されたと同時にセオドアの父である国王からの愛を失ったそうだった。王は離宮を訪れることは一度もなく、母は愛妾と言う名の囚人さながらの人生を送ったそうだ。
セオドアは、もともと父は母を愛していなかったのではないかと思う。王子を生ませるために手元において、目的を果たしたから捨てた。
(この国は呪われている……)
熱い息を吐きだして、セオドアはゆっくりと瞼を開ける。
ずっと意識が混濁していたセオドアが目を覚ましたことに、そばで様子を見ていた侍医たちは歓声を上げたが、その声は彼の耳には届かない。
目を覚ましたセオドアはしかし、まだ夢を見ているような気持ちだった。
指先を動かすことも叶わない。関節がひどく痛くて、頭の中に蜘蛛の巣が張ってしまったかのように、何も考えられない。
このまま死んでもいいと思った。王子の一人は病弱だが、王子は三人いるのだ。自分は役目を果たした。もともとこの世に興味はない。誰も愛してくれない世界など、はじめから執着していない。
いっそこの疫病が国中に広がって、こんな国など滅びてしまえばいいのにと思う。
(疲れた……)
セオドアがゆっくりと目を閉じようとしたとき「父上」と自分を呼ぶ声が聞こえた。
誰だろう、と考える。セオドアを父と呼ぶことから息子のうちのどれかだろう。だが、彼らといつから口をきいていないだろう。声を聞いただけでそれが誰であるのかもわからないほど、彼と息子たちの関係は希薄だった。
目を開けたセオドアは、三度ほど瞬いた。
肩よりも少し長い薄い金髪に青灰色の瞳をした、線の細い男。誰だろう、と思った。どこかで見たことがある気がする。だが、思い出せない。そんなセオドアに、男は笑った。
「お久しぶりです。わからないですか? ニコラスです」
ひゅっとセオドアの喉が鳴った。
ニコラス――。病弱な第一王子の名前だ。長くは生きられないと言われていた王子だ。それを聞いた瞬間に役には立たないと切り捨てた王子だ。どうして生きているのだろう。とっくに死んだと思っていた。
気を遣ってか、侍医たちが出て行って、部屋には息子と二人きりになる。
ニコラスはベッドサイドの椅子に座って、冷ややかにセオドアを見た。病弱だったことが嘘のように元気そうな息子の様子に、セオドアの中にある言葉が蘇る。
――ニコラスは、呪われている。
生みの母の命を、婚約者の命を、次々に吸い取って生きながらえている呪われた王子。
そうか、と思った。今度は自分の番なのだ。この息子はセオドアの命を吸い取って、その分を生きるのだと。
不思議と怒りはわかなかった。自分の命など、もはやどうでもよかったからだろうか。ただふと、自分を見つめる青灰色の瞳の中に、ある女の顔を思い出した。
――陛下、あの子を助けてくださいませ!
泣きながら訴えた、もう今はいない女。――ニコラスの、生母。
セオドアは三人の妃を娶ったが、誰一人として愛さなかった。女など信用できないと思っていた。だがあの一瞬、病弱でいつ死ぬかわからない息子のことを羨ましいと思った。ニコラスの母は、愛を返さない夫を愛しはしなかった。だが、もしも彼女が自分を愛してくれたら、自分は愛を知ることができただろうかと、考えた一瞬だった。
(いや――)
セオドアはまっすぐに息子を見つめ返して、はじめて自嘲した。
(手を伸ばさなかったのは、私か……)
この息子は呪われているのかもしれない。けれどもそれもいいだろう。自分の命を吸い取って生きるのならば生きればいいと思う。息子を息子とも思わなかった自分ができる、最初で最後の父親らしいことだろう。
「ニコラス……、この世界は、生きにくいだろう?」
掠れて、声になったかどうかはわからない。
母を失い、婚約者を失ったニコラスは、セオドアとは違う絶望をその身に宿しているだろう。
愛を知るからこそ知る絶望だ。
それを羨ましくなると同時に、ひどく同情する自分もいた。それだけ、息子の青灰色の瞳は凍っていたから。
ニコラスはセオドアの問いに答えを返さなかった。黙って立ち上がると、去り際に一言だけ言った。
「……さようなら、父上」
セオドアは笑った。
どうして、愛しもしなかった父に、ニコラスが会いに来たのかはわからない。彼が何をしようとしているのかもわからない。息子が何をしようとも、セオドアには止める権利も、そもそも止めるつもりもない。
セオドアは今度こそ、ゆっくりと目を閉ざした。
――陛下、あの子を助けてくださいませ!
泣きながら訴えたあの女は、これで満足だろうかと、思った。――最期に。
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