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 夜の湖ってちょっと怖いわね。


 特に今日、新月なのよ。空に浮かぶ月がないだけで、妙に不安を覚えちゃうから不思議だわ。


 足元がおぼつかないから、大きめのランプを持ったメイナードがわたしの手を引いてくれる。


 別荘から湖までの道は整えられているけど、足元が暗いと、急に何かが飛び出してきそうな気がして、知らないうちにメイナードとつないでいる手に力が入る。


 小虎がついてきたがったけど、あの子はメイナードに噛みついちゃうから、セルマに預けておいた。


 見送りに出たキャロラインが、にまにま笑いながら、「デート楽しんできてねー」って言っていたのを思い出して頬が熱くなる。そっか、これってデートなのよね。メイナードとデート――はじめてよね? 夜会はデートじゃないものね?


 メイナードがゆっくり歩くから、別荘から五分ほどの距離の湖までが少し遠く感じる。


「ここから階段だから、踏み外さないように気をつけて」


 湖に降りるまでに短い階段があるの。言われて顔をあげると、墨のように黒い湖が目の前にあった。昼間見たときのキラキラと輝く宝石みたいな湖とは反対に、湖の底から何か得体のしれないものが出てきそうで怖いけれど――その周りを飛び回る夜光虫が目に入って、すぐにそんなことは忘れてしまう。


「きれい……」


 小さく光る夜光虫が目のまえをふよふよと飛んでいる。その数と言ったら、まるで星を散りばめたみたいよ。


 夜光虫の見せる幻想的な光景に目を奪われながら階段をゆっくりと降りていく。


「今が一番多い時期だね」


「夜光虫って見ることができる時期が短いんでしたよね」


 夜光虫の一生は儚い。昔、ジオフロントお兄様が教えてくれた。成虫になって一週間くらいでその生涯を終えるんですって。


 光るのは求愛行動らしいわ。次代に命をつなぐために、一生懸命光るの。


 階段を下り終えて、メイナードと湖のそばまで歩いていく。


 暗い湖の上を夜光虫が飛んでいく。月はないけれど、その分星がいつもより輝いて見えて、夜光虫の黄金色の光と星の銀色の光が夜の湖を儚く照らすのは、まるで一枚の絵画のよう。


「気に入った?」


 うっとりとその光景に見入っていると、メイナードがささやくように訊ねてくる。


「とても」


 この光景を気に入らない人なんていないと思うわ。いつまででも見ていられる。


 わたしはメイナードと手をつないだまま、夜光虫が飛び交うのを見つめ続けた。






 いくら幻想的でも、ずっとここにいるわけにはいかない。


 まだ見ていたいなとも思うけれど、あまり遅いとオルフェウスお兄様が心配して迎えに来ちゃいそうだし。


 そろそろ戻った方がよさそう――、帰りましょうと告げようとして、わたしが顔を見上げたとき、メイナードがつないだ手にぎゅっと力をこめた。


「殿――」


「し! ……誰かいる。それも複数」


 メイナードの声が低い。こんな怖い声を出すメイナードははじめて。


 びくりと肩を揺らすと、つないでいた手をほどいたメイナードが、わたしの肩に腕を回して引き寄せた。


「自然にしていて。振り向かないで」


 メイナードの横顔が強張っている。彼が手に持っているランプが下からメイナードの顔を照らしていて、表情がはっきり見えるから、わたしは急に怖くなった。


 メイナードがこんな顔をするということは――きっと、よくないことだ。


「アイリーン、私が合図をしたら、別荘まで走るよ。できる?」


 わたしはこくんと頷くことで返事をした。暗い道を歩くから、靴はぺたんこだもの。走れるわ。


 歩いて五分の距離。走ったらもっと早い。大丈夫、走ったらすぐに別荘につく。


 メイナードはわたしの肩をなだめるように撫でたあと、もう一度手をつなぎなおした。


 わたしには全くわからないけれど、メイナードは感じるという気配を探っているみたい。ぎゅっと手を握られて、――そして次の瞬間、ぐいっと手を引かれた。


「走れ‼」


 メイナードの合図でわたしは走り出す。メイナードがわたしの腕を強い力で引っ張るから転がるみたいに。多分メイナードはわたしの速度に合わせてくれているのだと思うけど、こんなに早く走ったのははじめてよ。


 バタバタと足音が追ってきて、ようやくわたしにも、誰かがいたのだと理解できた。


 息が上がる。走ったからだけでない汗が背中を伝う。


「アイリーン、このままうしろを振り返らず走れ!」


「え?」


 メイナードの手が外れて、足を止めようとしたわたしは、「走れ‼」とメイナードに怒鳴られて反射的に走って――、でも、メイナードが折ってくる気配がなくて、やっぱり足を止めて振り返ってしまった。


「殿……」


 どうして、手を放したのかしら。


 メイナードが手を放そうとしても、しがみついて離れなければよかった。


 振り返ったわたしの視界の先で、メイナードが肩越しに振り返って「逃げろ」って――


「メイナード‼」


 暗い夜の闇の中で、何か銀色のものが鈍く光ったと思ったら、メイナードがその場に崩れ落ちる。


 時間の流れが、すごくゆっくりになったような錯覚。


 わたしはただ目を見開いてメイナードが地に倒れるのを見つめることしかできなくて。




「メイナード―――‼」




 わたしの悲鳴が、夜の闇を切り裂いた。

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