【23】願いと戸惑い

「着いたぞ」


 エルグさんに声をかけられ、固く閉じていた目を開いた。

 目の前には見慣れたライルの邸があり、私とライルはその玄関に座り込んでいた。エルディア城からここへ飛ばされたのだと、その景色を前にして理解した。


「戻ってきたんだよね……?」


 肌を撫でる風を感じられること、そして互いに触れ合っている体が温かいことが何よりの証拠。私とライルは自然と顔を見交わし、安堵あんどの笑みを浮かべていた。


「まったく、恐ろしい皇帝だ。ワシに剣を向けるとはな」

「お前、本当にサロの禁書なのか?」


 戻ってきたことで少し気持ちが落ち着いたのか、ライルは痛む刻印を押さえながらも再度エルグさんに確かめた。さすがのエルグさんも、これには呆れ気味。天を仰ぎ見ながら盛大な溜息をついた。


「まだ言うか。さっきからそうだと言っておるだろう」

「いや、そうだけど……実感がわかないんだ」

「そこまで言うなら、ワシの役目を果たしてやろう」


 姿が青年になったにも関わらず、エルグさんは「どっこいしょ」と、その姿に似つかわしくない年寄くさい掛け声をかけて、ライルの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。


「少し熱いから我慢しておけ」


 忠告した矢先、刻印を押さえているライルの手を強引に退けて、自らの手を刻印に押し当てた。ジュッと焼けるような音がして、ライルの胸元から白い煙が立ち上る。

 それは、ほんの一瞬。手を離し、見てみろと胸元を指さした。覗き込んだ私とライルは目の前にある光景が信じられなくて、しばらく呆然としていた。


「刻印が……!」


 消えている――それが信じられなくて、私は恐る恐る手を伸ばした。

 震える指先が肌に辿り着く。あの焼けるような熱も、波打つ鼓動も、刻まれていた禍々まがまがしいサソリの姿も消えてしまった。傷一つとして残っていない。

 張り詰めていた緊張が一気に解け、安堵あんどしたのも束の間。ライルは私の手をしっかりと握り、その勢いのまま私をき抱いた。


「ラ、ライル!」

「俺、生きてるよな?」


 その問いに何度も頷きながら、しっかりと伝わるライルの鼓動に耳をかたむける。


「邪魔して悪いのだが?」


 と、喜びを分かち合っている最中、エルグさんが申し訳なさそうに咳払い。すっかりその存在を忘れていた。私とライルは慌てて離れた。


「フィー……じゃなかった。エルグ、ありがとう」

「なぁに。これがワシの存在する意味であって、役目だからな。礼はいらんよ。おっ、そうだった。忘れる前に返しておかなければな」


 そう言ってふところから取り出したのは救世の鍵アナスタシスだった。


「もはや鍵としての力もなくなった。今はもう、ただのバングルだ」

「……終わったんだよね?」


 実感が湧かず、自らにただし、確かめるように呟く。2人の視線が私に向けられた。


「全部、終わったんだよね? ライルの刻印も消えた。これからは、ライルが危険な目にうことも――」

「いや、まだ終わってない」


 ライルはそう断言して、刻印が刻まれていた場所に触れる。まるで、その存在を思い出すかのように、ゆっくりと、指先が鎖骨さこつのあたりをなぞった。


「刻印は消えたが、俺に下された罪まで消えたわけじゃない。皇帝もファローも俺を反逆者として、今まで以上に追ってくるはずだ」

「それじゃ、まだ逃げ続けなきゃならないの?」


 今度は隠れているだけでは済まないかもしれない。なにせ、救世の鍵アナスタシスもサロの禁書もうばい取ってしまったのだから。

 肩を落としている私を、ライルがじっと見つめている。その瞳があまりにも真剣で、どこか悲しげだったせいか、戸惑ってしまった。

 どうしてそんな顔をするのか。うかがいながら顔を覗き込んだとたん、意地悪そうな子供みたいに笑った。


「安心しろ。もう、ルディを連れまわしたりはしない」

「えっ? それって……」

「最初に約束した通り、ルディはシスターのもとに帰す」


 ライルを助けたいと願って必死に突き進んでいたせいか、私自身の本来の目的を今の今まで忘れていた。“帰る”ということを――


 自分で決めたことなのに。帰ることが目的だったはずなのに。

 救世の鍵アナスタシスが手首から外れて、ライルの刻印も消えた今、私がここに留まる理由がない。そして“シスターの元へ帰る”という約束だけが、私とライルの間に残っている。

 わかっているはずなのに、どうしてだろう。こんなにも胸が痛むのは、どうして?


「少しでも早いほうがいい。数日中には送っていく」


 瑠璃色るりいろの瞳が真っ直ぐに私を捉える。

 嫌だ――その想いが全身をけ抜ける。息をすることさえ苦しくて、胸がきしむような痛みを覚えた。帰りたいと思っていたのは間違いない。ただ、今はどうしてもここから離れたいとは思えなかった。


「ライル、私……」

「用意、しておけよ」


 呼び止める声を振り切るように、ライルはそのまま邸の中へと入っていった。

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