【4】生きるための願い(1)
静まり返った室内に、柱時計がボーンッと低く音を響かせた。
ぼんやりとした視界に目を細め、何度か瞬きをしながら、私は時計に目をやった。
「もうこんな時間……? ライル、まだ上に居るのかな?」
ふと、リビングの隅にある階段を見つめた。
調べたいことがあると言って、ライルは3階にある私室にこもってしまった。
残された私は散らかった部屋を片づけたり、掃除をしたり。それから、シスターに手紙も書いた。黙っていなくなってしまって、今頃心配しているはずだから。
ライルに再会したこと、ここへ来た
「もしかして、1度も部屋から出てきてないのかな?」
テーブルには、夕食に作ったシチューが入った鍋と、ライ麦パンが詰められたバスケットが1つ。器を使った様子もないし、シチューも減っていないところを見ると、ライルは一度も部屋から出ていないようだった。
「部屋にこもる前に、ちゃんと食べてねってあれほど言ったのに……」
時計は午後11時を過ぎている。部屋に戻ったのは夕暮れ前だったから、かれこれ6時間以上、部屋にこもりきり。
昔からそう。ライルは何か1つのことに
「ここは強引にでも部屋から出さないと駄目ね」
私は3階へ上がり、真っ直ぐ伸びた廊下の突き当たりにある、ライルの私室の前へやってきた。
ノックしようと手を構えた矢先――ドサッと、何かが床に落ちるような、重量感のある音が部屋の中から聞えた。
直感、とでも言うのだろうか。その時、嫌な予感が走った。上がる
目の前に映った光景にドクンッと心臓が跳ね上がり、思わず出そうになった声を押し込めるように手で口を塞いでいた。
ライルがベッド脇に座り込み、ぐったりと天井を
「ライルっ!」
すぐさま部屋へ飛び込み、ぐったりとしているライルに駆け寄った。私の顔を見るなり、ライルはなぜか迷惑そうに顔を
「ルディ……何して、るんだ。下に、戻ってろ」
ライルは額を押さえながら深く息を吐き、途切れる言葉を必死に繋ぎ合わせて、冷たく言い放った。
「戻れって……何言ってるのよっ。こんなに苦しそうなのに!」
「いいから戻れ! 俺なら大丈夫だ……お前が、心配するような……ことじゃない」
小さく舌打ちを返して、反動をつけて立ち上がると、私の腕を掴んでそのまま廊下へ引きずり出した。
抵抗できないまま、私は廊下へ放り出された。すぐに立ち上がったけれど、ライルは侵入を拒むようにドアを閉めてしまった。
「ライル、開けて! そんな状態で放っておけないよっ。何かの病気なの?」
「いいから、行け! 朝まで、ここには近づくなっ。いい、な」
ライルはそれきり返事をしてくれなかった。今もなお、ドアの向こうからは、絶え間なく苦しげな息遣いが聞こえる。
何かの病に侵されているでは? その言葉が脳裏を過った瞬間、ライルの胸元に見えた、あの妙な刺青のことを思い出した。
「あの刺青、少しだけ光っていた……?」
ライルは胸元を強く押さえていた。何か関係があるに違いない。
私はすぐさまリビングに戻り、部屋の至るところに積み上げられている本を片っ端から集めた。埃まみれになった本の山を崩し、サソリの刺青という漠然とした手がかりを頼りに探し続けた。
「――あった! これは……【咎の刻印】?」
ボロボロになった古文書のとあるページにそれは記されていた。
咎の刻印とは、500年ほど前に生み出された呪いの一種であり、国に逆らった罪人の胸に刻まれるもの。刺青は痛みを生じることもなく、刻まれた者さえも気づかぬうちに少しずつ力を奪う。
この刻印は月が生み出す魔力をもとに発動する呪いであるため、満月の夜になるとその力は増幅し、その日だけは激しい痛みを伴う。
刻印は色の変化でその危険度がわかり、赤に近づくほど死が迫っていることを示す。刻まれる時は白から始まり、白から青の第1段階、青から緑の第2段階、緑から赤の第3段階の3つに分けられる――そう記されていた。
「あれが咎の刻印。噂には聞いていたけど、まさかライルが……ライルの刺青は青だった。それって第2段階に入ってるってことよね。もし赤色に変化したら、ライルの命は……。その刻印を消す方法は?」
最後の1文に“如何なる者も、この刻印を消し去ることは不可能である”と記されていた。
この記述が真実なら、ライルは確実に死を迎えるということ。その事実に頭の中が真っ白になっていく。
「そんな大きなものを抱えているのに。どうしてあんなに平気な顔してられるの?」
ひたすら死に向っているとわかっていながら、冗談を言ったり、強気に振舞ったり、笑顔を見せることなんて、私にはできない。
もしその絶望的な感情が渦巻く心でも“考えること”があるとすれば、ただ1つ。
生きたい──この強烈な想いが体を突き動かして、何としてでも刻印を消す方法を見つけようとするはず。負けず嫌いで、
「ライルがサロの禁書を探しているのは、刻印を消すため……生きるためだったんだ。そんなライルに、私は」
“守ってもらおうじゃないの”――なんて、知らなかったこととはいえ、なんて図々しいことを言ってしまったんだろう。
「自分のことで精一杯なのに、私のことまで守れだなんて……」
私はそっと、咎の刻印の挿絵に触れた。
どうしてライルは、この刻印を刻まれたのだろう。その思いが強烈に焼き付いて、胸から離れなくなった。
✣✣✣✣
『サロの禁書、お願い……僕の母さんを、助けて』
頭の中に響いたその声が、深い眠りの底にあった私の意識を目覚めさせる。
僕の……母さん? 誰のことだろう。何のことを言っているのだろう。
重たい瞼をそっと開ける。滲んだ視界に映ったのは、自らの腕と、その下に敷かれた分厚い本。
ライルのことが頭から離れなくて、何をしても落ち着かなかった。本でも読めば少しは落ち着くような気がして、ライルが持っていたサロの禁書のお伽話を読んでいた。そこまでは覚えている。気づけば、本を枕代わりにテールに突っ伏した状態で眠っていた。
「私、どのくらい眠ってたんだろう……」
目をこすりながら読んでいた本を見下ろした。不意に蘇るのは、夢の中で聞こえたあの言葉。
『僕のお母さんを助けて』
それは、物語の主人公が叫んだ言葉だった。
魔法士見習いの貧しい少年は、不治の病にかかった母親を助けるために、願いが叶うというサロの禁書を探す旅に出る。幾度となく降りかかる災難を乗り越え、サロの禁書を狙う悪党達と戦い、その末にサロの禁書を見つけ出した少年は、その力を借りて母の病を治す。それがサロの禁書のおとぎ話。
「お伽話みたいに、いつかサロの禁書が見つかって、ライルの願いが叶えばいいんだけどね……」
本を閉じたのと、ほぼ同時だっただろうか。背後でギシッと階段が軋む音がした。振り返ると、階段を下りてくるライルの姿があった。
「なんだ、こんなところに居たのか。風邪引くぞ」
ライルは小馬鹿にするように鼻でフンッと笑った。けれど、その笑みが無理に作られていることがはっきり伝わった。
きっと、苦しんでいる姿を見せたくないのだろうけれど、痛みに耐えているのは隠しきれないみたい。笑顔の中に暗い表情が時々混じる。笑顔の裏で歯を食いしばっているのがわかった。
それを覚られないようにしているのか、ライルは何事もなかったように振る舞いながら隣の椅子に座り、「もらうぞ」と、私が飲みかけていた水を口にした。
「もう、大丈夫なの?」
「あぁ、大丈夫だ」
「嘘。まだ辛そう」
「大丈夫だって言ってるだろ。ルディに心配されるなんて、なんか情けねぇな」
口の悪さは相変わらず。何も知らない数日前なら「せっかく心配してるのに、何よ!」と歯向かって行くだけの気持ちはあった。刻印のことを知ってしまった今は何も言い返せなかった。
「ねぇ、強がらないで。ここには私しかいないし、少しくらい弱音吐いても……」
「大丈夫だ。まぁ、さっきよりはマシかな」
「それじゃ、まだ痛いの?」
「少し。波があるからな。痛みが消えたり、表れたり。多分、もう少ししたらまた痛みだすはずだ」
ライルはほんの少しだけ弱音を吐いてから、刻印が刻まれている胸元を押さえた。
いつもより素直な今なら、何か話してくれるかもしれない。淡い期待を抱いて、思い切って訊ねてみることにした。
「あのね……ライルの叶えたい願いって、もしかして、サロの禁書を見つけて刻印を消すことなの?」
乱れたシャツの隙間から微かに見える刻印に目をやる。
ライルは視線に気づき、さりげなくそれを隠した。
「……あぁ。俺はこれを消したいと思ってる。ずっと、な」
「各国の皇帝達もサロの禁書を探しているんでしょ? もしライルがそれを見つけてしまったら、国に逆らうだけの問題じゃないわ」
「皇帝達の怒りの矛先が、いずれ俺に向けられる。それも承知の上だ」
そんな危険な状況下にあるというのに、ライルは自ら起こそうとしている行動を他人事のように口にする。それを理解しているはずなのに、全く気にも留めていないようだった。
「怖くないの?」
「すでに反逆者だからな。これ以上、罪が重なっても怖くもない」
そう言って笑い飛ばす。
ライルのことを何も知らないままでいいのだろうか。そう自分に質しながら指先を黙々と見つめる。自問自答を心の中で繰り返した結果は、少しでもライルを知りたいという想いに辿り着く。
触れてはいけない──頭ではわかっていたけれど、私はその痛みを求めるようにライルの胸元へ手を伸ばした。薄いシャツ越しに指先が触れた瞬間、とんでもない罪を犯したような感覚に囚われて、とっさに手を引いた。けれど、ライルはその手を掴んで引き止め、自らの胸へと触れさせた。
「……わかるか?」
「うん……。焼けるみたいに熱くて、凄く、速く波打ってる」
まるで別の生き物がそこに存在するかのように、刻印はライルの胸の上で焼けるような熱を放っていた。
「痛い、よね?」
「少しな。けど、不思議だな。ルディが触れてると、痛みが和らいだように思える」
今までに見せたことがない優しい笑顔を向けられ、急に恥ずかしくなってライルから手を離した。その反応が面白かったのか、ライルはククッと喉を鳴らして笑った。
「か、からかわないでよ」
「悪い、ついな。けど、今のは本当だったんだけどな」
と、ライルは照れくさそうに前髪を掻きあげた。見せるその笑顔が胸を締め付けた。
「さっきね、ライルの胸にある刻印のこと調べたの」
その言葉だけでライルは理解できたのだと思う。その表情が変わることはなく、ただ黙って私がどんな言葉を返してくるのか待っていた。
「その刻印ってライルの命を奪うために刻まれたんでしょ?」
「……ああ。それを見て怖くなったのか?」
訊ねられて、小さく頷いた。心配して胸を痛めている私をよそに、ライルは「バカだな」と豪快に笑い飛ばした。
「な、何笑ってるのよ。私は心配してるのに!」
「もしかして、それで俺が落ち込んでいるとか思ったのか? 甘いな」
ライルは明らかに馬鹿にした口調で言い放った。その態度がどうにも気に食わず、ムッとして、目を細めた。
「俺はそんなことくらいじゃ落ち込まねぇよ」
「だって、咎の刻印は……」
「黙って死を待つなんて御免だ。こんな呪い、跡形もなく消し去ってやる。それに、この呪いをかけたやつにも仕返ししないと、死んでも死に切れないからな」
不敵に笑う様は、
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