日常からの転落
俺の名前は
そんなにも保険という商品はダメなのか?
統計によれば、自動車保険の加入率は約八割。十割と言えないのは悲しいが、公道を走っているほとんどの車は自動車保険に加入している。ちなみに火災保険の加入率も八割だ。見渡せば、見える建物のほとんどが火災保険に加入している。他にも生命保険、学資保険、賠償保険……日本で暮らす人々の多くは何かしらの保険に加入しているのだ。
つまり、保険という商品は人々が安定した暮らしを送る為に、必要不可欠な商品なのだ。
なのに、なぜ、売れない! 否! なぜ、俺を通して保険に加入しない! 同期のトップセールスマンから加入しても、俺から加入しても保険の保障内容は変わらない。保険料も同額だ。だったら、俺を通しても加入してもいいだろう?
世の中は、本当に理不尽だ。まぁ、それでも得体の知れない水や、怪しげな壺を売る仕事と比べれば、世の中に必要とされている商品だ。だから、この仕事には多少の誇りも持っていたのだが……。
……持っていた。そう過去形だ。
なぜ過去形かと言えば……。
「紫苑さん、やらかしましたね」
隣のデスクに座る後輩が俺に同情の眼差しを向ける。
「……うるせえ」
俺はそんな後輩に小さな声で悪態をつく。
「まぁ、あれはしょうがないっすよ。飛び込みで来た客っすよね?」
「……そうだな」
「やっぱ、飛び込みで来る客は危険っすね」
「……そうだな」
俺は同じ言葉を繰り返す。飛び込みで来た……つまり、お客様から保険会社に「保険に入りたいです」と直接訪れたのだ。店舗型の保険会社ならともかく、通常の保険会社ではそういうお客様は稀だ。せいぜいあったとしても、電話やインターネットを通じて資料請求をして、それを受けて俺達、営業マンがお客様の元を訪れるのが通常のスタイルだ。
俺はやらかした。そう、やらかしたのだ。何をやらかしたかって?
飛び込みで来たお客様の言われるままに、高額な火災保険(盗難補償付)を契約。一週間後にその保険対象が盗難されたのだ。
今回支払う保険金は一億円。頂いていた保険料は約百万円なので、会社は九千九百万円の損失を被ったのだ。
本当に盗難されたのかも知れない。運よく、盗まれる直前に保険に加入しただけかも知れない。と思いたい気持ちもあるが……保険金を請求するあの態度を見る限り、恐らく故意――保険金詐欺――だろう。
俺は内部監査部からの調査対象となり、めでたく自宅謹慎となった。
◆
俺は会社の近くの立ち飲み屋で、飲みに飲んで、荒れに荒れた。
「ちくしょう! なんだよ! 俺が悪いのかよ!」
すでに何杯目かも分からなくなったビールを飲み干す。
クソッ! やってられねーよ! 俺はどこで間違えた? 保険金詐欺を企てた詐欺師。手の平を返して俺を切り捨てた信頼していた上司。仲が良かったと思っていた同僚達。俺にもっと人を見る目があったら。そもそも、あれは本物だったのか? 実は偽物だった可能性もあるよな? そう考えると、俺は物を見る目も足りないのか……。
俺は心の中で自分を罵倒し、後悔に苛まれながら、千鳥足で立ち飲み屋を後にした。
タクシーで帰りたいが、こちらの車線から乗っては遠回りになるな。面倒だが、歩道橋を渡って向かいの歩道へ向かうか。
グルグルの三半規管を狂わせながら、歩道橋の階段を一歩ずつゆっくりと駆け上る。ようやく、階段を駆け上ると、歩道橋の中央で学校の制服を着た少女が行き交う車を眺めていた。
ヒック。未成年がこんな時間に外を出歩くとは、けしからんな。我ながら親父臭い説教を心の中で唱え、歩道橋を一歩ずつ前へと進むと……、
――!?
少女はゆらりと手摺を乗り越えて、道路にその身を投げようとしていた。
「おい! 待て! 早まるな!」
俺は叫び、ふらつく足で少女へと駆ける。
少女を助けるべく、伸ばした手は……少女をすり抜け空を掴む。
――え?
距離感を誤り、前のめりに突っ込んだ俺は勢いそのままに、歩道橋の手摺を道路へとその身を投げ出した。
目の前には強烈な光――車のヘッドライトが迫りくる。
走馬灯のように駆け巡る、過去の思い出。
あ。死んだな。
半ば生を諦めた俺は、存在するかも分からない神に祈った。
来世はもう少し人を見る目がありますようにと。
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