第12話「亡霊」(1)

 いつものように古書館へ続く階段を下り、地下にぽつんと佇む、見慣れたいつもの扉をそっと押し開ける。

 何から切り出そうか、どう話せばいいのか。頭の中であれこれ考えながら、私はそっと中を覗いた。すると、眠っていたはずの周防さんが起きていた。ソファに腰掛け、私が淹れたまま置いていったお茶を飲んでいる。


「……ん? やっと戻ってきたか」


 周防さんは私に気づき、不意にこちらを向いた。おかえりと言わんばかりの優しい笑顔を向けられ、胸がぎゅっと締めつけられた。その時、私の脳裏にはハンス・ペルシュメーア号事件の記憶が何度も何度も過っていた。

 私は後ろ手に扉を閉め、1歩ずつ確かめるように歩み寄って、周防さんの隣にすとんと腰を下ろした。


「起きていたんですね」

「あぁ、ついさっきな。一時間ほど寝ていたらしい。せっかく淹れてくれたのに、悪かったな」


 と、すっかり冷めてしまったお茶を見下ろす。私は何度も首を横に振った。

 何か言わなければ。そう思えば思うほど、言葉が見つからない。

 周防さんは何か好きで、何が嫌いなのか。いつもなら話したいことがたくさんあって、話しきれないほどなのに、こんな時に限って言葉がどこかに消えてしまった。

 膝に置いた手を握り締めたまま視線を落としていると、周防さんの手がスッと、私の髪に触れた。顔を覗き込んだ周防さんの表情がいつになく不安げで、私が悪いことをしているみたいな錯覚に陥る。


「ミズキ、どうした?」

「えっと……その」

「どうした? 俺が寝ている間に何かあったのか?」

「あったと言えば、あったと言いますか……周防さん、ごめんなさいっ!」


 突然謝ったものだから、周防さんは不思議そうに傾げた。


「魔がさしたといいますか……眠ってる周防さんに触れてみたくて、その、つい。それで……触れた時に、記憶を見てしまったんです」


 気まずさに襲われながら、上目遣いで様子を窺った。周防さんは驚いた様子で目を丸くしていたけれど、目が合ったとたんに吹き出した。


「なんだ、そんなことか。俺はてっきり、来栖にでも口説かれてその気になったのかと思ったよ」

「そ、そんなことって! そもそも、来栖さんは私に興味ないだろうし、私は周防さん以外の男性なんて、これっぽっちも興味ないですからね!」

「わかった、わかった。悪かったよ。それで? どんな記憶を見たんだ?」


 そう訊ねられ、私は再び口籠くちごもった。


「ミズキ?」

「……ハンス・ペルシュメーア号事件の記憶です」


 その答えに、周防さんの顔から笑みがスッと消えた。私の口から、その言葉が出るとは思っていなかったのだろう。


「来栖さんから、周防さんもあの事件の被害者だってことは聞いていました。だから、いつか話そうと思っていたんですけど……私も、あの事件の――」

「知ってたよ」


 予想していなかった答えに、私はハッと顔を上げた。すると、周防さんは少し申し訳なさそうに笑みを浮かべて、一度視線を外した。


「図書館でミズキの記憶を見てしまった時に、偶然あの事件の記憶も見えてな。勝手に見てしまった点では俺も同じだ。今まで黙っていて悪かった」


 私は返事をする代わりに、何度も何度も、力強く首を横に振った。

 記憶を読んでしまった私が罪悪感を覚えていたように、きっと周防さんも同じように感じていたのかもしれない。私を見つめる表情は申し訳なさそうでありながらも、やっと話せたことに安堵あんどしているようにも見えた。


「まさかあの時、ミズキも船に乗っていたとはな」

「私も、来栖さんから聞いた時は驚きました」

「記憶が一度消されてしまったから、まだ思い出せていない部分もあるが。ひょっとしたらあの時、船内で会っていたかもしれないな」


 そう言って見つめる周防さんに、私は恥ずかしくて瞬きを繰り返した。

 すれ違っていたかもしれないし、船内で迷って声をかけていたかもしれない。私の記憶は消されてしまって未だに思い出せないけれど、もしかしたら私はその時から、周防さんを好きになっていたのかもしれない。記憶以上にこの体が覚えていたのだとしたら――なんて素敵なんだろう。

 幸せを噛みしめたのも束の間、それを邪魔するように、唐突に脳裏を過る周防さんの記憶。犯人の夢喰い人アルプトラウムが振り返る光景を思い出し、顔はとたんに強張った。


「ミズキ、どうした?」

「その、ペルシュメーア号事件のことなんですけど……周防さんは、犯人の夢喰い人アルプトラウムの顔は見たんですか?」


 私は恐る恐る訊ねた。周防さんは一瞬だけ言葉に詰まっていたけれど、「わからない」と一言呟いて首をひねった。


「見ていたのかもしれないが、あの時の記憶の大半が消されてしまったからな。俺やミズキはもちろん、あの時の関係者で思い出せた者は未だにいないはずだ」

「思い出していないんですか? 本当に……?」

「あぁ」


 どう見ても、嘘をついているようには思えなかった。ひょっとすると、私が見た周防さんの記憶は、周防さんですら気づいていない記憶だったのだろうか。

 それを確かめてもらうため、私は手を差し出した。


「私が周防さんから読み取った、あの事件の記憶。私から読み取ってください。お願いします」

「……わかった」


 周防さんはいつになく慎重に、私の手を握り締めた。

 体の中心から力が吸い取られるような、眩暈にも似た感覚が襲ってくる。周防さんは目を閉じたまま苦しげに顔をしかめた。

 時間にしてほんの数秒くらいだろうか。記憶を読み終えた周防さんは、深めの溜息をついて、どこか躊躇ためらうように目を開けた。


「ミズキが落ち込んでいた理由は、この記憶のせいだったんだな」

「……周防さんは、その記憶のことは?」

「初めて見たよ。おそらく、俺自身が思い出せていない、記憶の中のさらに深いところにある記憶なんだろう」


 そう話す周防さんの横顔を、私は不安にかられながら見つめていた。唇を噛みしめている私に気づくと、真剣な表情を浮かべていた周防さんが、ふと柔らかく笑って見せた。


「思い出せていない時点で、今は何を言っても説得力はないが……ミズキが不安になるようなことは絶対にしていない。それだけはわかるんだ」

「うぅっ……周防さんっ」

「あぁ~、その子猫とか子犬の記憶を見た時みたいな声を出すな」


 私がどんな表情になっていたのか自分ではわからないけれど、それを見た周防さんはケラケラと笑った。

 何の確証はないけれど、迷いなくはっきりと言いきってくれることが、今は何よりも安心できた。


「それにしても、あの事件の夢喰い人アルプトラウムが俺自身とはね。奇妙な記憶だな」

「周防さんの記憶なのに、自分自身を見ている記憶なんておかしいですよね?」

「ひょっとすると、あの事件の被害者の中で、俺は犯人の夢喰い人アルプトラウムの顔を誰よりも間近で見たのかもしれないな」


 周防さんはうーんとうなりながら腕を組み、ソファに凭れ天井を仰ぎ見た。


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