第2章 闇人は永久なる夢を見る
第1話「事件ハ大佐ト共ニ」
階段を踏みしめる足は重く、それに反して、どこか甘さの混じる音を立てた。
それに重なる溜息も同じような甘さと戸惑いを含んでいて、溜息をつけばつくほど足取りは重くなる。それでも先へ進まなければという義務感から、手にした懐中時計を確認しつつ、刻む秒針に合わせて一歩、一歩と、古書館へ続く階段を下りた。
「はぁ。私、どんな顔すればいいんだろっ……!」
盛大についた溜息と独り言は、思いのほか反響した。やまびこのように広がった自分の声に驚いて、慌てて口を押さえた。
それが壁と薄暗い空気に解けて消えたのを見計らい、私は再び溜息をついた。
「周防さん、もう来てるよね。最初は〝おはようございます〟で、いいんだよね? いや、それ以外に何があるっていうの? あぁ、頭が痛くなってきた……」
今朝起きた時は、清々しい気分だったというのに……今、職場へ向かう私の体は、風邪をひいたみたい 疲労感に襲われている。一歩踏み出すのさえ気だるくて、階段の途中で立ち止まり、壁に額を押し付け項垂れた。
少し考えれば……いや、考えなくてもわかるような簡単なことさえ、今の私には判断できなくなっている。要するに、古書館へ踏み入れた時の、最初の表情と言葉が見つからなくて困っていた。
「あれからすぐ、周防さんが来栖さんと一緒に出張に出て、留守にしていたから2日も会ってないし……ん? そっか、2日も経ってるから普通にできるじゃない。次の日なら会える度胸なんて――」
そこまで口にしたところで思い出してしまった。
―― 『見ていたのは、俺の方が先だ』
耳の奥で、周防さんの声が響いている。その声に耳を傾け、集中すればするほど息苦しくなって、目の周りと耳がカッと熱くなるのがわかった。
思い返すまでもなく……エレナさんの事件が解決した日、私が密かに抱いていた想いは成就した。
ずっと一方通行の片想いだと思っていたのに、蓋を開けてみれば、周防さんの想いも私に向けられていた。
―― 『お互いに好きだってわかったんだ。これで遠慮なく、いつでも傍にいられるな』
それは、見ていたという告白の、続きの言葉。
互いに遠慮する必要がなくなったとはいえ、それを直接伝えられて「はい、そうですね!」と受け入れられるほど、私の心の器は突然のことに準備ができていないのだった。
「うぅぅっ……息ができない」
予想していなかった急展開に、物理的にも精神的にも体が追いつかず、胸を押さえて座り込んだ。
これは甘い戸惑いと、凍りつくような恐怖が複雑に入り混じっている。想いが通じた嬉しさ反面、この事実を周囲に知られることが何よりも恐ろしい。
仕事の忙しさから、すっかり忘れていたけれど、この軍内には周防さんを狙っている女性たちはたくさんいる。受付のおばちゃん曰く、その人気は来栖さんと1・2を争うとか。
ただでさえ、部署が一緒というだけで妬まれているというのに、お互いに想い合っているなんて知られたら――
「の、呪われるかも……」
女の嫉妬ほど恐ろしいものはない。呪いの稿人形か、それとも呪いの呪文を書いた札を送りつけられるのか。ここに渦巻く女達の感情の全てが、私に向けられるのだと思うとゾッとする。
「でも、周防さんは私のこと……ふふっ」
そして、唐突に湧き上がる甘い事実に、ついニヤけてしまう。照れながら少し身を捩った振動で、コルセットのベルトに括りつけていた懐中時計が揺れ、
「こんなところで悩んでる場合じゃなかった!」
甘い余韻を振り払って、私は階段を一気に駆け下りた。
後半は2段飛ばし、最後はひょいと3段飛ばして、その勢いのまま古書館のドアを押し開けた。
「すみません、遅くなりました!」
視界に飛び込んできたのは、机に向かって資料を読む周防さんの姿だった。
ランプに照らされた横顔、気だるげに椅子にもたれる姿は、カムイ図書館の閲覧室で見ていたあの姿と重なった。
昨日、私が帰ったあとにここへ来て、また朝まで徹夜をしていたのかもしれない。無精ひげが伸びているのは、きっとそのせい。けれど、なんだか妙に色気があって、これはこれでいいかもしれない。普段見られない姿とあって、つい魅入ってしまった。
「あぁ、おはよう、ミズキ」
落としていた視線をゆっくりとこちらに向け、周防さんが柔らかく溶けるように笑う。
周防さんは口に煙草を銜えていることもって、少し口籠ったような挨拶だったのがちょっと残念だったけれど、何よりも、私の名前を最後に付け加えてくれているのが妙に嬉しかった。
「いつもより遅かったな。まさか寝坊したのか?」
「ち、違いますよ。今日は道が混んでいたんです」
苦しい言い訳をして、自分の机に向かった。
愛用の
ふと視線を感じて目をやると、資料を見ていたはずの周防さんが、
「な、なんでしょうか?」
「今、何考えてる?」
「えっ? 特に、何も……どうしてそんなことを?」
「いつになく余所余所しい感じがしたからな。気のせいか?」
「気のせい、ですよ」
図星だけど、ここは誤魔化すしかない。
次はどうかわそうかと、考えていた矢先――突如、周防さんの手が私の腕を掴んだ。
驚いて反射的にそこを見下ろしたとたん、
しまった――そう思うよりも早く、私を見上げる周防さんが悪そうに不敵な笑みを浮かべた。
「あぁ、なるほどな」
「す、周防さん!?」
「たまには髭を伸ばしてみるのも悪くないか。ミズキが気に入ってるようだし」
「うぅぅっ、やめてください! 勝手に人の記憶を読むのも禁止です!」
「はははっ。でも、いいと思ったんだろう?」
「あぁぁ……」
どう見積もっても、記憶を見られてしまっては勝ち目がない。反論できず、片手で目元を
どんな顔をしていいのかわからず
強引に持ち上げられ、自ずと、正面から真っ直ぐ見据える周防さんとしっかり見つめ合う。間近で見るその眼差しは、相変わらず吸い込まれるような力があって、逸らしたくても逸らせず、私はごくりと息を呑むことしかできない。
「そう緊張するな。避けられてるみたいで、結構傷つくんだからな」
「ご、ごめんなさい。でも、ここへ来た時とは明らかに関係が変わったので……」
「距離が縮まったこと以外、何も変わらないだろう。それとも、ミズキは俺との関係が進展しないほうがよかったのか?」
「いいえ、それは困ります! 進展ナシの片想い一方通行なんて……むしろもっと近づきたい、です……」
この想いを隠しておいても意味がない。勢いに任せて言い放つと、周防さんは嬉しそうに笑ってくれた。
とたんに、柔らかく穏やかで、暖かな日向にいるような空気に変わった。このまま、2人の時間が続けばいいと、少し
「周防、ミズキちゃん、お邪魔するよ!」
と、こちらが返事をする間もなく、来栖さんが古書館に飛び込んできた。突然の訪問に、私の心臓は痛いくらいに跳ね上がった。
頬を掴んでいる周防さんの手を素早く振り解き、何もなかったように「さぁ、仕事するぞ!」と、両腕を高く突きあげるように背伸び。周防さんは溜息をつきつつ、入ってきた来栖さんをキッと
甘い時間が続けばいいだなんて、そう簡単には許してはもらえないみたい。だって、ここは軍本部古書館だもの。
「お、おはようございます、来栖さん」
「ミズキちゃん、おはよう。それにひきかえ周防……なんだよ、その面白くなさそうな顔。僕がここに来たら迷惑とでもいいたそうだね」
「本当に迷惑だよ」
「ん?」
「何でもない。それで? こんな朝っぱらから何しにきたんだ? 押収品、持ってきたわけじゃなさそうだな」
「日常業務は一旦保留。今、奇妙な事件が起こっていてね。特務局の方でも調査してるんだけど、お手上げ状態で……そこで、2人の力を貸してもらおうと思ってね」
来栖さんは語尾を弾ませ、相変わらず
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