~2021 Spring~

517 満天星夜のマリヨンヌ



 桜が咲いている。

 春の訪れを歓ぶように、ひらひらと花びらが舞っている。


 春休みの新宿は、やはり人がゴミのように人混み人混みしていて、普段はあまり足を運ばないこの地の恐ろしさを知る。

 無料入園日だというからふらっと立ち寄った新宿御苑も、ひどい混雑だった。桜を撮る人、池にかかる橋を渡る人、蒼い芝生にレジャーシートを引いて寝転ぶ人、老若男女様々な人でごった返している。


 そんな風景を、俺は東屋のベンチに座りながら穏やかな気持ちで見ていた。

 人混み、騒がしい声、都会特有の圧倒的な情報量。俺の嫌いなものだけで出来上がったアンハッピーセット新宿に来ても、こんなにも心が穏やかなのはなぜか。


 好きな季節がようやっと巡ってきたからだろうか。

 それとも、懐に認めたさっき買ったばかりのコレのせいだろうか。


 どれも一因ではあろう。しかし、こんなにも目に映る人が幸せそうに見えて、こんなにも目に映る空が青々しく見えるのは、きっと。

 きっと────

 



           *




「就活、終わったーーーーーーーッ!」


 俺は飲み干した生ビールのジョッキを置きながら、沁みるように叫ぶ。

 横のカウンターに座る稲藤が、そんな俺を苦笑いで見守っていた。



「珍しくはっちゃけてるねー」

「ああ、世界というのは素晴らしい……」

「どんだけ病んでたんだよ。まあ、浩貴から飲みに誘うくらいだから、よっぽどだとは思ったけどさ」


 そう、俺は浮かれていた。それも無理はない。

 俺はちょうど今朝、第一志望御社の社長と面談し、正式に内定通知書を受け取ることができたのだ。憎き就活からの解放である。

 面接を終えた俺は、羽の生えたような足取りでそのまま新宿に向かい、買い物を済ませ、これまたその勢いで稲藤を電話で呼び出したのだった。


「本当、お前にはお世話になった。改めて感謝する」


 この半年、稲藤は俺の就活相談に付き合ってくれた。自己分析も、ESの添削も、模擬面接も、もちろん面接官の愚痴も、諸々全部。

 きっと稲藤なしではこんな結果にはなっていなかっただろう。俺は深々と頭を下げる。


「まあまあ、助かったのはお互い様だよ。俺も浩貴じゃなかったら言えない愚痴とか色々あったからさー」


 色々自分のことを話し合って、曝け出してみて、改めて俺とコイツはどこか似ていた。

 どこか空虚で、自分の軸がなくて。でもそれを社交的に埋めていたのが稲藤で、内向的に埋めていたのが俺だった。

 まさか稲藤とそんな深い話をするような仲になろうとは、入学当初の俺は思ってもみなかったけどな。


「それに、受かったのは浩貴の実力だよ。普通に倍率えぐかったっしょ」

「ま、まぁ……おそらく300倍から500倍ってところだろうな」

「ひえ~、大手企業でも採用人数20人とかだもんね。エンタメ業界ってこええ~」

「それよりも遥かに厳しい競争を、俺は入社してからもしていくんだけどな」


 悩みに悩み、結局辿り着いた俺の志望業界は、出版業界だった。

 まぁ俺の数少ない趣味が読書であることから、これは自然な選択にも思えるだろう。

 それと、これはお嬢様部で得た教訓だが、やはり同じ本を好きな人がいる職場の方が、自分にとって馴染みやすいのではないかと考えたのもあった。

 少なくとも、商社やコンサル、メガベンチャーなどのGD(グループディスカッション)で話したような人達とは上手くやっていける自信がなかった。致死量のキラキラ、もしくはギラギラを持ち帰った帰路を今でも覚えている。


 もう一つ大きな決定打があった。それは、それなりに競争できる環境であるということだ。

 マンガ雑誌の週刊連載などは分かりやすい例だが、出版業界は社内でも社外でも互いをライバル視しながら鎬を削る場所である。

 俺が一番幸せなのは結局、誰かさんみたいに優秀な奴と競っている時なのだと気付いたから。それらの理由が重なり合ってようやく辿り着いたのが、出版社だったのだ。


「もしかしたら全然向いてないかもしれないし、落ちこぼれるかもしれないけど」

「それはやってみなくちゃ分からんよ」

「もちろん。やれるだけやってみるさ」


 俺は俺なりに悩んで未来への決断を下した。

 現在という時点から放射状に無数に広がる可能性の大半を失った。いや、自らの手で潰したのだ。決断というのは、俺みたいな不安症の人間には重すぎる行為である。

 しかし、何も決めなければ、何も成し遂げられないまま終わってしまう。全ての可能性を抱きしめたまま生きていくのは、全ての可能性を殺しながら生きていくのと同義だ。


 だから、悩むだけ悩んだら。あとは頑張るしかないんだ。

 そうやって、アイツも言ってくれていた。



「……にしても稲藤は随分就活終わるの早かったな? 二月とかだったか?」


 あらかたの料理を食べ終えて腹が膨れた俺は、枝豆をつまみながら酒を呷る。


「そう、早期選考でね。さっさと解放されたかったからさー」

「ホント要領だけはいい奴だな」

「それで東大来てるからね」


 にかっと笑う稲藤の内定先は、誰もが羨む大手コンサル企業である。要領だけで受かるようなところでもないが、コイツには顔も学力もコミュ力も備わっている。認めたくはないが、落ちる要素がむしろ見当たらなかった。


「ま、他の内定者とかとも何回か会ってみたけど、コンサルが『稼ぎたいけど中身空っぽの奴が働くところ』ってのはマジだね。なにせ──」

「お前みたいなやつばっかりってか?」

「うーん失礼だけど……正解っ!」

 

 ぴんぽんぴんぽーん、と稲藤が上機嫌に言いながらまたジョッキをぐいっと傾ける。

 俺はなんとなく、コイツとの付き合いは長くなるのだろうなとこの時思った。


「じゃあ、就活も終わったし、後は頑張るだけだな」

「え、何を?」


 まさか俺の考えていることが稲藤にバレているのかと思い、焦って過剰に反応してしまう。


「いや何って……卒ろ」

「やめて! その名前は出さないで!?」

「いや卒論は死の呪文じゃないから。アバダケダブラみたいな扱いしないで?」


 俺がわざとヒステリックに耳を塞ぐと、稲藤は冷静にツッコむ。ここ半年で俺らのノリも割と軽快なものになりつつあった。少なくとも俺が積極的にボケてしまうくらいには。


「……んじゃ、そろそろ出るか」


 俺の思惑がバレていた訳ではないと知り、ほっと安堵して席を立つ。

 その際に、しっかりとバッグの中に例の品物があるかを確認する。こんなところで失くしたとなれば、一世一代の黒歴史になってしまう。


 その後、どちらが奢るかで一世一代の泥仕合が勃発したが、あまりにしょうもなかったので割愛する。将来大物になる俺には今のうちに奢った方がいいとかなんとか、そんなことを言い合っていた。多分。


 改札の前で俺たちは立ち止まった。俺と稲藤は違う路線なので、ここで別れる。

 

「んじゃ、頑張れよ」


 何気なく、でも真剣な声色で稲藤はそう言った。


「いや卒論の話はもういいって──」

「そうじゃなくて」


 稲藤は俺の心臓にこつんと拳を当てていた。それから彼は、いつもの憎たらしい笑顔で、


「お前ならきっと大丈夫だから、頑張れよ。知らんけどっ!」


 じゃな! とウインクをして稲藤は改札の奥へ消えていった。

 何かしらの感情を誤魔化すように、俺もすぐ別の改札を通り、エスカレーターを下る。


 フィクションだけと思っていた男同士の青春っぽいやり取りをしたからなのか、それともアイツに何もかも見透かされていたからなのか。俺はどうも気恥ずかしかった。


 

「なんでアイツ、俺が明日プロポーズするつもりだって分かったんだ……?」




          *




 翌日。


 細い砂利道を踏みしめる音がふたり分。

 生い茂る雑草の間にひっそりと伸びる一本道を下っていくと、やがて海岸まで辿り着いた。

 

「綺麗……」


 ほぼ沈みかかった夕陽が水平線を朱に染めるのを見て、橘は感嘆の声を漏らした。

 清明の海風は涼しげに、彼女の髪と白いワンピースを揺らす。


「たまにはいいわね、春の海に来るのも」

「そうだな。まあ、遠かったけど……」


 俺たちがやってきたのは、九十九里浜の南。東浪見海岸だ。

 千葉駅からでも一時間はかかる立地で、千葉に住んでいた頃ですら足を運んだことはなかった。


「私もこんなところ、全然来たことなかった」

「だよな」


 真上の空を見上げれば、そこは既に夜の色をしている。濃い藍色から、水平線まで視線を落としていくと、徐々に色が淡くなり、最後は赤に漸近していく。 

 まるで虹を薄く薄く引き伸ばしたような空模様だった。


「でも、来てよかったわ。だってこんなにも……」


 橘はそこで言葉を区切って、同じように空を仰いだ。

 既に何億光年先で燃えている恒星たちが、夜の藍を彩っていた。


「まさか、あなたに星空観賞の趣味があったとは思わなかったけれど?」


 そう、東浪見海岸は関東の有名な星空スポットである。特に春の天の川が評判だからと、俺は橘を誘ったのだった。

 とはいえ、皮肉っぽくこちらの目を覗く橘の態度からして、本当の目的が星でないことはもう察されているような気もするが……。


「いや、趣味ってワケじゃないけど、なんとなく……な」

「そう」


 春休みも終わりかけのシーズンだからなのか、観光客らしき人は殆ど見当たらない。

 俺たちは名所である大鳥居の近くで、適当に座れる所を探して腰かけた。


「……」

 

「……」


 そして、何十分。もしかしたら、何時間か。

 鳥居越しの海と星空を眺めながら、俺たちは夜を更かしていた。


 俺と橘の間に会話は殆どなかった。それなのに、すべてが満ち足りていた。

 時間を忘れてしまうほどに沈黙が心地よく、でもそれは隣に橘がいるからこそだった。


「……ずっと、一人で生きていけると思ってた」


 太陽の残り香が消え去り、宙の端まで深い藍色に染まった頃。

 俺は海を眺めたままに、ぽつりと語り出した。


「それは何も俺に限った話じゃない。今や誰もが一人で生きていける時代だ。一昔前に比べてコミュニティの同調圧力も弱くなって、他者と関係しなくても仕事をして、お金をもらって、税金を払って、ご飯を食べて、娯楽を楽しむことができるようになった。自由な時代だよな。それこそ友達とろくにつるみもせずに、大学に通うことだってできるくらいだ」


「自虐のつもりで言ってるのでしょうけど、刃がこっちにも刺さってるからやめてもらえる?」


 おそらく怖い顔をした橘がこちらを見ている気がしたので、全力で無視する。

 ああ、星って綺麗だな。


「でも同時に、人は誰かに自分が生きていると知ってほしいという、根源的な欲求を抱えている」


「承認欲求ね。最近は何かと悪く言われがちだけど、人間は誰かに愛されなければ不安を抱えてしまう生き物だもの……。フリードリヒ二世の実験なんて、その分かりやすい例よね」


「フリードリヒ? ローマ皇帝の?」


「そう。彼は『言葉を全く教わらない赤子はどんな言葉を話すのか』という実験のために50人の赤ちゃんを集めたの。そして食事や排泄の世話以外のスキンシップを、言葉はもちろん、目を合わせることすらも禁止した」


「それで……どうなったんだ?」


「亡くなってしまったわ。6歳までに全員……ね」


「ざ、残酷な話だな……」


「それほどまでに承認欲求というものは、私たちの生存に必要不可欠ってことよ」


 その話を聞いて俺は、自分が愛されて育ったという当たり前のことを思い知る。両親と目を合わせてもらった。友達に話を聞いてもらった。兄弟と手を繋いだ。色んな人から愛を受けて、自分の存在を日々確かめられたから、俺は今日まで生きてこられたのだ。



「──だから。俺たちが結婚したのも、実のところその欲求を満たすためだったと思うんだよ」


 一昨年のクリスマス。煌く街で再会した橘と、居酒屋で愚痴り合ったことを思い出す。


 ────彼氏とかはいいからもういっそのこと、夫が欲しいわ


 ────心の帰る場所は必要だよな


「……ふふ、そうね。間違いないでしょう」


 恋愛なんて不確定性も不安定性も極まりない関係に、身を委ねるなんて正気の沙汰ではない。だが、自分が安心して帰属できるコミュニティを「家」という場所に持ちたい。


 そんな両者のわがままな願いから、始まったこの結婚生活──


「今日俺は、この関係を終わらせたいと思ってる」


 俺は腰を上げて、鳥居の前に立ち塞がるようにして、橘と向き合った。

 唐突な物言いにも橘は動じず、ただその力強い目で俺のことをじっと見つめている。


「俺たちには、もはやこの結婚生活は必要ないんだ。橘が去年から、意識的に交友関係を増やそうと努めていたのは知ってる。今でもバイトを楽しみにしてるのも知ってるよ」


「もちろん、いい人に恵まれてるもの。あなたも、稲藤くんと仲良く話してるの知ってるわ。最近はゼミにも顔を出して、同期の女の子とたまに話すようになったのも」


「え、なんでそれを!?」


「ふふ。女子の情報網を舐めないことね」


 にたにたと笑う橘が腹立たしく、否、あまりに可愛くて俺は誤魔化すように話を進める。


「……橘がガールズトークを楽しんでいることからも分かる通り、俺たちはわざわざ一緒に暮らすまでもなく、他の交友関係で承認欲求を満たすことができるようになった」

「まあ、それが普通なんだけどね」

「それは言うこと勿れ。とにかく、俺たちがその欲求のために結婚する意味はないってことだ」

「そうね……?」


 何かを要求するような橘の上目遣いが俺の網膜に刺さる。

 いい加減、肝心な言葉を言わなくてはいけない。身体がふっと熱くなり、途端に風が冷たく感じる。


「それでも……俺は橘と一緒にいたいんだ」


 橘の目が焼き付けるように俺の瞳を離さない。俺もその双眸から目を離さない。離せない。離したくなかった。


「だから、承認欲求を満たすためじゃなく、もっともっと原始的な欲求のために。人を愛したい、好きな人と一緒にいたい……! そんな欲求のための結婚を、俺はしたいんだ」



 それから俺は満点の星空を背負って、橘の足下にひざまずく。


「────!」


 そして。

 ざらっとした砂の感触を膝に感じながら、俺は懐から小さな黒い箱を取り出した。

 


「橘、好きだ。俺と……正式に結婚してほしい」


 

 満点の星を吸い込んだような宝石の指輪を、橘の目の前に差し出す。

 しかし、まるで負けていた。星空も、指輪も。



「────はい、もちろんよ」



 幸せそうに指輪を映した、橘の瞳の輝きに比べれば。


 


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