516 俺が描く未来の中に



「それでは、私たちの優勝を祝って!」


「「「乾杯!!」」」


 都内某焼肉屋にて。隣のテーブルからは賑やかな女子大生の声が聴こえてくる。


「お、琴葉ちゃん達も始めたみたいだし、俺たちも乾杯するか」

「じゃ、先輩お願いします!」


 朝比奈に言われ、俺は生ビールのグラスを持つ。


「今日は勝たせてやれなくてすまなかった! 乾杯!」

「あはは、かんぱーい」

「別に先輩は巻き込まれただけなので、謝ることないですよー」


 俺たちはグラスをこつんと合わせて、酒を喉に流し込む。滅多に飲まないビールはやはり苦かった。稲藤に合わせて、見栄を張らなきゃ良かったと後悔する。


「いやー、今日は完敗だったなー。乾杯だけに」

「先輩もう酔ってます?」


 そう、結論から言えば俺は橘に負けた。あれから二回ほどはなんとか得点したが、優勝に王手をかけていた橘に追いつくことはできなかった。

 イナズマイレブン並みの逆転劇は、フィクションの中だけということだ。

 試合中に俺がいくら成長しても、試合前に橘が積み重ねてきた努力量には敵わない。同じだけ努力してもなかなか勝てなかった相手なのだから、それは当然の結果だった。

 

「にしても、琴葉ちゃんの友達二人とも可愛いなー、早く席替えしたい」

「ソウくん?」

「いでででで!」 


 目移りする稲藤の耳を朝比奈が思いっきり引っ張ると、「冗談です……すみませんでした……」と稲藤が肩をすぼめる。俺の知らないうちに、このカップルの力関係はますます面白いことになっていた。


「まったく。目を離すとすぐこうなんだから……」


 もはやオカンと息子である。

 

「まあでも、せっかく一緒に食べようって言ってくれたんだしさ。仲良くしような」


 そう。クイズ大会が終わり俺と橘が談笑していたところに、橘のチームメイト二人が「これから打ち上げなんですけど、良かったら一緒にどうですか?」と言ってくれたのだ。

 彼女たちは家での橘について同居人である俺に色々聞きたい様子だった。俺もバイト中の橘には興味があったので、お言葉に甘えることにした。

 ただ、最初はチームメイト同士で慰労会をして、いい頃合いになったら合流して話そうということになった。稲藤はそれを心待ちにして怒られて、そして今に至る。

 


「いやでも、琴葉がフェルミ推定対策でレジュメ30枚配り始めた時は、正直抜け出そうかと思ったよ」

「それなー!? ひとり10枚覚えましょうって先輩が言ったとき、頭おかしくなったのかと!」

「もう! その話はもういいじゃない。結局私が28枚覚えたんだから」

「「そういう問題じゃない!」」


 モクモクと煙の上がる焼肉の網を囲んだ隣の女子三人は、話に花を咲かせている。

 酒が入っているからか橘の顔は仄かに紅潮し、いつものクールな表情が緩んでいる。そこに気遣うような、一線を引くような壁は感じられない。


「……良かったな」


 俺は心の底からそう思った。そう思えた自分に驚いて、同時にとても安堵した。

 ここ最近感じていた息苦しさは、もうそこにはなかった。橘に対する劣等感も、情けなさも、今は不思議と感じない。


 きっと、今日が楽しかったからだろう。

 確かに負けてしまった。それは死ぬほど悔しい。でも、戦っていたあの瞬間、俺はアイツと対等になって楽しめた気がした。それが嬉しかった。


 そして、これからもそうでありたいと、俺は強く思う。



「なあ、人生で一番幸せだった時っていつ?」


 俺はタレをつけたカルビを白米の上にダイブさせながら、なんでもないように二人に訊く。


「俺は今こうして浩貴の金で焼肉食ってることかな!」

「はい、不正解」

「不正解!? これクイズだったの!?」

「そもそも割り勘だからこれ。色々間違ってる」

「そうですよソウくん。正解は、『夏休みに四人で海に行った時、私に「いつまでも待ちます」って言ってもらった時』です」

「自信がすごい……確かに嬉しかったけどさ」

「ですよね? あれから二ヵ月一緒に暮らして、まだ何の進展もないですけど、私ちゃんと待ってますもんね? 本当にいい子ですよねえ? え?」

「は、はい……」


 とんでもない圧力で潰れそうになっている稲藤に助け舟を出すべく、俺は朝比奈に話題を振る。


「そういう朝比奈はどうなんだ?」

「私も、もちろん今ですよ! だってソウくんとずっと一緒にいられてるんですから! そこに誤解も嘘も衒いもないから、私は今、とっても幸せです!」

「お前のその羞恥心のなさは、本当に見習いたいよ……」


 俺は思わず感嘆の溜め息をついてから、声を潜めて口を開いた。


「俺はさ、多分誰かと今日みたいに何かしらで競うのが好きでさ。大した個性のない俺でも、生きてるなーって思えるんだ」


 俺は横をちらっと一瞥して、さらに声を一段階小さくする。


「そして。その競う相手がアイツだと、一番ワクワクするんだ。アイツと競ってきた時間が、一番幸せだった」


 朝比奈と稲藤は、もうそんなこと知っているとでも言わんばかりの微笑みで俺を見守っている。俺の言葉を待っている。


「ずっと何者かになりたかった。でも、俺ようやく気付いたんだ。俺はアイツと一緒に歩けるような人であり続けたい。その為に、劣等感なんか感じる暇もないくらい、人生を楽しみ続けたいんだ」

「……先輩」

「浩貴の気持ちがそれだけはっきりしてたら、もう就活は問題ないね」

「そうだな。少なくとも、どういうところを目指すかは決めたよ」


 不思議なことに、自分の気持ちを自覚したら、就活の軸もすんなり決まっていた。

 でも、それも当然なのかもしれない。


 仕事のことを考えるということは、将来の人生を考えるということだ。

 そして、将来の人生を考えるとき、俺の頭にはいつもアイツがいた。



「俺が描く未来の中に、橘がずっといてほしいんだ」



 もはや誰に伝えるでもなく、俺は言い聞かせるようにそう呟いた。

 すると、朝比奈がその言葉を噛み締めるようにして俺の目を見つめては、


「……それはちゃんと、本人に伝えてあげてくださいね」

 

 そう小さく、でも力強く言うのだった。


 


         *




「まさか、お前がバイトでそんなミスをしてたなんてな」

「あのねえ、あなたは私の失敗談を嬉々として聴きすぎよ」

「お、ダジャレ?」

「偶然よ。あなたの寒いヤツと一緒にしないでくれる?」


 散々飲んでは語り明かした帰り道。

 終電を逃した俺たちは、我が住まいに向かってゆっくりと歩いていた。


 お互い酒が回っているのか、綿あめが空に浮かんだかのようなふんわりとした応酬が続く。


「あなたのギャグは本当に寒気がするから、冬は禁止令を出すわね?」


 内容に反して、彼女の口調も表情も柔らかい。


「もうそんな季節か……」

「ちょうどこの生活も、もうすぐ一年ね」


 橘と再会したのは、ちょうど去年のクリスマスの時期だった。今年のクリスマスは、もう来月に迫っている。


「楽しかったな」


 俺が素直な感想を言うと、橘はちょっとだけ意外そうに目を見開いて、またすぐに目を細めた。


「……そうね」


 その声があまりにも優しくて、今までに聞いたことのないくらい甘ったるくて。思わず橘の顔をじっと見つめてしまう。

 シャープな輪郭、白い息を吐く小さな口、いつもと違って目尻の下がった優しげな目、なめらかに陰影を刻む琴色の髪。


 そのすべてが美しくて、胸のあたりの何かが溢れてたまらなくなった。


 きっと、この想いは橘と暮らしたこの結婚生活があったからこそだ。灰色だった大学生活が、あの冬の日以来、色めきだした。それは紛れもない事実だった。


 ──君が今も居場所を欲していることに変わりはない


 最近投げかけられた心ない言葉が頭を過ぎる。確かに、橘は俺に居場所をくれた。

 でも、俺は橘が居場所をくれたから、今こんな気持ちになっているんじゃない。


 ただ橘の居場所になりたいから、橘が好きなんだ。




      ・・・




「橘」


 歩道橋の上、前を歩く彼女に呼び掛ける。


「なに? 一瀬」


 立ち止まり、ゆっくりと振り返った橘の頬は仄かに赤い。

 コートの裾がふわりと翻るその様を、俺はじっと目に焼き付ける。


「俺、ようやく決めたよ」

「うん」

「自分が何になりたいか。自分がどうしたいか」

「それは良かったわね」


 彼女の声は相変わらず、チョコレートを溶かしたように甘く、優しい。


「まあ、希望の会社に受かるかは分からないけどな」

「大丈夫よ。あなたなら」

「……橘」

「なにせ、全力で対策した私から、あなたはぶっつけ本番で3点もポイントを奪ったんだから」

「あれ、恨んでる?」


 何気ないやりとりで、また二人はくすくすと笑い出す。

 この幸せな空間がいつまでも続けばいいと、願わずにはいられない。


 ──ちゃんと、本人に伝えてあげてくださいね


 さっきの朝比奈の言葉も相まって、何かを橘に伝えたい気持ちがふつふつと湧く。

 しかし、俺の本当の戦いはこれからなのだ。


「なあ、橘」


 歩道橋の脇に肘を置いて、どこまでも続いているように見える道路を眺める。すると、橘も隣で同じようにもたれかかった。

 

「なあに?」


 彼女はすべてを包み込むように、こちらに微笑みかける。

 俺は恥ずかしくなり目を逸らして、慌てて言葉を紡ぎ出した。


「……もし就活がうまくいって、ちゃんと内定取れたらさ」


「うん」


 眼下を走る無数のヘッドライトが、ピントがずれたように滲んで見えた。

 そのドラマでロマンなチックにきっと感化されたのだろう。


「俺の願いをひとつだけ聞いてくれないか?」


 あまりに物語的なセリフを、俺は秋の夜に吐いていた。

 木枯らしの冷えた空気が火照った身体に心地良い。


「いいけど……」


 橘は手袋を身に付けた両手の平を合わせ、首を傾げた。


「じゃあ、もしうまくいかなったから?」


「え?」


「そしたら私の願いをひとつ聞いてくれる?」


 まるで俺の意図など見透かしているかのように、橘はにこっと笑う。

 どんな仕草も、どんな表情も、飽きもせずに見惚れてしまう。


「いいけど……。ちゃんと俺の無事を願っててくれよな?」

「ふふ。確かにそうね」


 そう悪戯っぽく言って、橘はまた蠱惑的に笑う。


 まずい。俺は一刻も早く内定を獲得して、就活を終わらせなければいけなくなってしまった。

 でないと、愛の言葉が今すぐにでも口から飛び出してしまいそうだから。

 

















最終章 〜2020 Autumn〜 Fin.













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