518 フェネチルアミンに誘われて



 朝の五時半に目が醒める。

 8畳の部屋にはベッドと本棚、そして小学校から使っている勉強机。


 モノが少ないから余計に広く見える自室で、私は朝からペンを握る。

 机の隅に置かれた写真立て。それを横目に昨日の講義の復習に取り組む。


 シャワーを浴びて、ママの作る自由な朝ごはんを食べる。朝から餃子インハンバーグはかなり重い。おそらく夜でも重いだろう。

 とはいえ、出された食事を残すことをパパは許さないので、必ず平らげる。ダイエットが上手くいかない言い訳にはちょうどいい。


 いつだったか、ももかに選んでもらった服に着替えて、私は家を出る。

 今日も私は大学の広いキャンパスを一人で闊歩して、最前列で講義を受け、どこかに立ち寄ることもなく、日が高いうちに家に帰る。

 ママの仕事の愚痴を聞きながら、一緒に夜ご飯を作って、一緒に食べる。

 私が大学に入ってから学校の話を全然しなくなったことを、ママが少しだけ気にしていたことも、実は分かっていた。それも知らぬふりして、自室に戻り、また机に向かう。


 楓、ももか、一瀬、そして私。

 いつだったか四人で行った夏祭りで撮った写真が、私を静かに見ている。


 それぞれ和装をした楽しそうな四人が、冷徹に、責めるように、私をずっと見つめている。




           *




 ──なら、結婚するか?


 ──別にいいわよ……?



 もはやクリスマスに何をねだることもない二十歳の冬。

 私はサンタクロースでは用意できない大切なものを、あなたからもらった。




           *

 



 朝の五時半に目が醒める。

 12畳のワンルームにはベッドと本棚、そして大学から使い始めたというデスク。


 二人で暮らすにはかなり窮屈なこの部屋で、私は朝からキッチンに立つ。

 いつもご飯を食べているちゃぶ台を折りたたんでできたスペースに、布団を敷いて気持ちよさそうに夢を見ている同居人。

 そんな彼の寝顔を横目に、二人分の朝ごはんを手早く用意する。


 シャワーを浴びても、まだ彼は起きてこない。暁が街の空気を白く輝かせるこの時間帯の景色を、彼は知っているのだろうか。もしかしたら、昼夜逆転の末に見たことならあるかもしれない。

 私は不貞腐れたようにカーテンを全開にして、机に向かう。勉強は楽しい。世界の美しさ、歴史という物語の面白さ、人間の強さと愚かさ、それらを知ることで私がちっぽけに思えるから。


 頃合いになったら彼の頬を指でぷに、と押す。この程度では起きないことなど知っているのに、なぜだか毎朝の習慣になっている。それから肩を揺さぶって声を掛ける。

 眠気眼の彼と朝食を済ませて、寝癖だらけの彼と大学までの道を一緒に歩く。私はこんな朝が好きだ。普段は理知的で冷静な彼の、ふにゃふにゃに油断した姿を独り占めできる朝が。


 彼と別れ講義室に入ると、あの文化祭以来新たに話すようになった同じ研究室の子に手を振られ、一緒に講義を受ける。昼には就活やら恋愛やらの雑談をしながら一緒にご飯を食べる。最近彼氏と別れたらしい彼女が「私も琴葉ちゃんの彼氏みたいな人が欲しい」と嘆くので、私は「渡さないわよ」と笑った。

 放課後はバイト先の喫茶店に行き、友達と一緒に働く。お客さんがいないときは、今日学校であった他愛ない話を共有しては、くだらないことで笑う。紬さんの研究室の教授は、声が小さすぎて何を言っているかよく分からないらしい。


 日がすっかり落ちている帰路を、私は少しだけ早足で歩く。

「ただいま」「おかえり」

 その短い応酬を合図に、私は今日来た変な客の話を彼にぶつける。彼も塾講師バイトの苦労話をしてくれる。一緒に夜ごはんの用意をしながら、私たちは心の帰る場所で息づく。


 たまにママと電話をする日もあって、その時も学校やバイト、彼の話をたくさんする。

 私が楽しそうに話すのを、ママはいつも嬉しそうに聴いてくれる。たまには帰っておいでよって、拗ねたように言ってくれる。


 私は満たされた気持ちでベッドに入る。

 こんな日々がいつまでも続けばいいと、そう願いながら眠りにつくのだ。




         *




「橘のことが好きだ。俺と……正式に結婚してほしい」



 私は、一瀬のことが。

 何度その想いが口からこぼれそうになったことだろう。


 それでも、私は怖くて言えなかった。何もかもが満ち足りたこの生活を、手放したくなかった。これ以上の何かを望むことは、とても贅沢で傲慢な気がしていたから。


「───はい、もちろんよ」


 だから、私が欲しくて欲しくて仕方のなかった言葉を一瀬にもらって。

 涙を流さずにはいられなかったのである。


 一瀬の真剣な眼差しが、私のことを愛していると言葉以上に伝えていた。

 宇宙の星々を閉じ込めた彼の瞳に、私は吸い込まれそうになる。


「私も……っ」


 心が身体を追い越すように、言葉が口をついた。


「あなたが好き。ずうっと前からひとりの人間として好き。今は、異性としても好き。あなたのまっすぐに筋を通すところ、ヘタレでドジなところ、考えすぎるところ、誰にでも優しいところ、本当に好きよ」


「あ、ありがと……な」


 ぎこちなく頭をかく一瀬。愛おしい。

 とっても頭がいいのに、不器用なところも好きでたまらない。


「じゃあ、これ。つけてくれるか……?」

「……はい」


 ひざまずいたまま彼は、これまたぎこちなく私の左手に触れる。それからゆっくりと、何度かつっかえながら指輪を薬指に通していく。私は手元よりも、彼の懸命な表情ばかりを見てしまっていた。


「あなた、就活中も全然バイト減らさなかったものね。もしかして、この為?」


 私は青白く輝くダイアモンドを夜空にかざすようにして眺める。


「……野暮なこと言わせるな。でも、俺たちは一応既に結婚している身だ。だから俺が本気だってことを伝えるためには、目に見える形で何か必要だと思ったんだよ」


 私の横に座り直した一瀬が、頬を染めながらこそばゆそうに言う。


「ふふ……あなたらしいわね。本当に」


 暖かい液体で身体の周りが満たされたような高揚感。冷静を装っているが、おそらく彼も同じような状態であることは、なんとなく肌で分かった。


「お、おい……!」


 一瀬の肩に首をもたれさせると、彼は慌てたように声を上げた。しかし、顔を赤くするだけで拒む様子はない。私と一瀬は寄り添いながら星を見ている。けれど、きっとお互いに星どころじゃない。


「ったく……甘えん坊なお嬢様だな」

「ちょっとくらいは許されるわよ。だって……」

「?」

「だって、あなたがももかに告白したのを聞いてしまった日から、私はずっとこの気持ちを閉じ込めていたんだもの」

「そ、そうだったのか……!?」


 驚いた顔をする一瀬に、私は拗ねたように頬を膨らまして応える。いつも冷静な目で私を俯瞰する私が、今は顔を出してこない。どうやら私は舞い上がっているらしかった。


「俺は……橘を意識したのはいつからだったんだろうな。ここ半年くらいのような気もするし、お前と暮らし始めた頃のような気もする。もしかしたら、もっとずっと前から好きだったのかもしれない」

「あら、それじゃあももかと二股ってことになるけれど?」


 私はのしかかるように彼の方に更に重心を傾けた。彼は慌てて弁解する。


「そうじゃない! 前に似たような話をしたが、『すき』の気持ちなんて一意に定まっていないんだよ。だから、ももかに抱いていた気持ちと、橘にいま抱いてる気持ちは、まったくの合同じゃない」

「そうね。それは私も一緒よ」

「……だから、この気持ちをそう呼んでもいいって気付けたのは本当に最近で。でも、この気持ち自体はずっと前からあったような気がしてるんだ」

「結論、高校時代からあなたは二股男だったと」

「いや話聞いてた!?」


 一瀬をからかうのが楽しくて、ついケラケラ笑ってしまう。こんなに恋に舞い上がっているのに、こういうところは高校の時から変わっていないのだから、私も似たようなものなのかもしれない。私と彼の恋心は、きっと友愛の延長線上にあって。白昼の青と夕景の橙のように境目がない。



「……それより。半年前に歩道橋の上で俺が言ったこと覚えてるか?」

「ええ。もちろん」


 

 ────もし就活がうまくいって、ちゃんと内定取れたらさ


 ────うん


 ────俺の願いをひとつだけ聞いてくれないか?



「あの時、俺がプロポーズするつもりだって、やっぱり分かってたのか?」

「薄々だけどね。でも……あの時のあなたの真剣な表情が。そして、あれから必死に頑張っているあなたの姿が、凄く重なって見えたの」

「……?」

「あなたと一緒にいるために変わらなきゃって、頑張ろうとしていた私にね」


 そう。あなたに依存してしまう私を抜け出すために、あなたと健全な関係でいられるように、奮闘していた私の姿にとてもよく似ていた。だから、一瀬もきっともしかしたらって考えた。否、期待したのかもしれない。


「そうか……。俺も少しは変われた……のかな。俺は何者でもないけどさ、お前の隣にいて恥ずかしくない奴になれたらいいって、今はそう思ってる。社会人になっても頑張らないとなって」

「ふふ、気が早いのね」


 でも、私からしたらあなたは何者でもないなんてことない。こんな私とずっと一緒にいられるくらい、優しくて変な人だ。

 私たちはいつもお互いをライバル視して、競い合うことを楽しんでいるけれど。それがすべてじゃないって私は思う。


「あの時、私「就活がうまくいかなかったら私の願いも聞いて」って言ったでしょう?」

「そういえば言ってたな!? そんなことになってたまるかと思ってたからすっかり忘れてたわ。結局アレなんだったの?」

「私と結婚してほしい……籍を入れてずっと一緒にいてほしい──」


 一瞬で身体が火照るのを感じながら、私はそこで一呼吸置く。


「──って、お願いするつもりだったの」


 一瀬が唾をごくんと飲み込む音が聴こえたような気がした。しかし、その刹那でハッと正気に戻ったように「え、俺がヒモでもいいってこと!?」とツッコむ。


「ええもちろん。もしあなたが就活全滅しても、私が養ってあげるくらいのつもりだったわよ?」

「嫌だわそんなん! てか、現実的に難しいだろ!」

「まぁ私、官僚になる道も一応考えてはいたから。学校教育の問題は多いし、先にそっちに行くのもアリかなって。だから実は少しだけそっち方面の就活もしてたのよ?」

「ま、まじかよ……」


 啞然としている一瀬を見ると、やはり気分がいい。これだから、彼を出し抜くのはやめられないのだ。


「もう辞退したけどね。結局そっちだってパワハラとか、ブラックなのは変わらないみたいだし」

「なんかお前って──かっこいい女だな」


 真顔でそんなことをこぼす一瀬は珍しい。一瞬ときめきそうになったのを隠して、私は「あら、今更?」と冗談めかして返した。

 確かに私は勉強も好きだし、努力する自分も好きだけれど、あなたによく見られたくて頑張っている節だってあるんだからね? なんて、乙女の私が内心で呟く。


「とにかく、あなたが頑張ったって頑張れなくたって、私はあなたを変わらず好きってことよ。あなたは言っても聞かないでしょうけど」

「ああ……今のを聞くと余計頑張らなきゃってなったわ」

「でも、無理だけはしないこと」


 前に一瀬が見せてくれた涙を思い出す。もうあんな思いは、ひとりで抱え込んでほしくない。


「お前も……たまには甘えるんだぞ」

「あら。もしかして甘えてほしいの?」

「いや、そんなことない。……って言ったら嘘になる」


 顔を赤くしてそっぽを向く一瀬。

 今日から私の恋人になった一瀬。

 もう気持ちを隠さなくてもいい。

 彼の寝癖をいつでも撫でていい。


「じゃあ、もう一度言ってくれる?」


 その事実をまだ俄かには信じられなくて、私はそんなことを言ってしまった。


「……え」

「野暮なことは聞かないで、でしょう?」


 おそらく「何を」と聞き返そうとした一瀬を、私は食い気味に制す。

 一瀬も私の言わんとしたことを察したのか、恥ずかしさに悶えるような表情をしている。しばらく唸っていた赤面の一瀬が、決意を固めたようにふうと息を吐いた。


「その……橘」

「ええ」


 彼の緊張が触れ合う肩から伝播して、私までドキドキしてしまう。否、私の心臓がもともと跳ねていて、それが彼に伝播したのかもしれない。私はさざめく波の音を聞きながら、彼の言葉をじっと待つ。


「今夜は月が綺麗……だな」


 一瀬は夜空を仰いで、そう言った。私もつられるように彼の視線を追うが、どこにも月は見当たらない。そうだ、今日は新月だった。

 夜の海を照らしているのは、頼りない星の光だけである。だから一層、綺麗に見えたのかもしれないと今更のように気付く。同時に、彼の言葉の意味にも。


「ふふ……こんなに幸せでいいのかしら」


 私は思わず口の中で小さく呟く。

 その不器用で遠回りで、一周回って余計にこっ恥ずかしい彼の文句が、私の胸が痛むほどに愛らしい。刹那、腹の底から突き上げるような情動に突き動かされる。

 私と彼の間を満たしていた温かい液体がさらに熱を帯びて。


「私、死んでもいいわ」


 フェネチルアミンにいざなわれて、私は一瀬の身体を抱きしめていた。

 彼は何も言わずに、遠慮がちに背中に手を回す。彼の匂いが、体温が、鳩尾にすっぽりと収まったように心地いい。


「ああ……本当に、幸せだ」


 一瀬が私を抱きしめる力を少しだけ強める。

 私も同じように力を強めてみる。そしたらまた彼も。私も。


 そうして、朝になる頃にはひとつになってしまえるのではないか。

 ──なんて愚かしいことを考えながら、私たちはしばらく、星空の下で抱擁を交わしていた。

 


 


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