~2022 Spring~

519 2番目に好きな人と結婚しました。

  

 


 

 橘にプロポーズしてから、季節が一巡した。

 人々は再び春の温度を思い出し、俺たちは卒業の日を迎える。


 四年通った東京大学から。


 そして、二年余り続いたこの奇妙な関係から。



「……にしても、結婚式と卒業式の日を同じにしなくても良かったのに」


 控室でウエディングドレスをまとった橘が言った。


「仕方ないだろう、互いの両親の都合が今日しか合わなかったんだから」


 俺はヘアメイクをしてもらっている橘に鏡越しで言葉を返す。首元についた蝶ネクタイの存在が慣れなくて少しこそばゆい。


「俺もまさか卒業生代表で話してから即、卒業式を抜け出す羽目になるとは思ってもみなかったよ」

「ふふ、本当ね。前代未聞すぎるわ」


 そう。俺たちは大学の卒業式を途中で抜けて、結婚式の会場にやってきた。

 本当は単に卒業式を欠席するはずだったのだが、どうしても代表挨拶をしてほしいと教授に頼まれたのだ。それを断ろうとしたところ「君に断られたら、次は橘さんに頼みに行くことになる」と言われ、俺は渋々それを承諾したのである。


「まあ、私たちほど勉学に熱心だった学生はそういなかったでしょうから。仕方ないわね」

「院に進まないかって誘いを何度断ったことか……」

「一瀬は優秀なだけで、探求心が全くないものね」


 橘は皮肉めいた口調で俺をからかう。衣装や髪型を除けば、本当にいつもの橘だ。


「じゃあ探求心溢れるお前はなんで院進しなかったんだよ」


 俺もいつものように皮肉まじりに尋ねた。そう、衣装と髪型を除いて。

 

「そりゃあ、もちろん早く夢を叶えたいし──」


 ヘアメイクを終えた橘は立ち上がり、鏡越しではなく、直接こちらに向き直って笑った。


「──あなたと肩を並べていたいもの」



          *



 オルガンが特徴的なBGMが、小さな教会に流れている。

 俺は牧師を横目に、橘が入場するのをじっと待つ。席に座っている俺と橘の家族、そして春咲と天賀谷も、装飾された重々しい入口の扉を見つめている。

 

 本当は家族葬のように近親者だけを呼んだささやかな式にする予定だった。しかし、春咲と天賀谷のふたりには俺たちの結婚を見届けてほしいということで橘と意見が一致し、特別に呼んだのだ。

 

「……うう~~~」


 なぜか春咲は既に泣いている。いくらなんでも感極まるのが早すぎるだろう。

 司会者が一瞬引きつつも、すぐに表情を戻して「それでは、新婦の入場です」と厳かに言った。


 すると、まもなく扉が開かれ、父親の腕に手を回した橘が現れた。橘は白く透けたヴェールを被っているが、その面持ちは晴れ晴れとしているのが分かる。

 一方、橘のお父さんはガチガチに顔を強張らせていた。まさかこんなに早く娘とヴァージンロードを歩くとは思っていなかったのだろう。先日改めてご報告と挨拶に伺った時も、お父さんはかなり困惑していた。しまいには柔道でケリをつけることになったのだが、その話はまたの機会にしておこう。


「……行ってこい」


「ありがとう、パパ」


 少し頭を下げて、橘は父親の腕から手を離し、数段の階段を上る。俺の横に立った橘は、それから俯いた顔をゆっくりと上げた。

 ステンドグラスから漏れる日光を背に浴びる神父と、俺たちは目を合わす。


「病めるときも健やかなるときも、哀しみのときも喜びのときも、貧しいときも富めるときも、互いを愛し、互いを助け、互いを慈しみ、尊敬する気持ちを忘れず、命の限り大切にすることを誓いますか?」


 俺は橘のことを一瞥して、「はい、誓います」と。


 橘は俺のことを一瞥して、「はい、誓います」と。


 

 本当は永遠の愛など、人は約束することなどできない。

 人は毎日少しずつ変わり続けている。今日抱えているこの想いを、明日へ明日へと運び続けていくことは、きっとそう簡単じゃないのだろう。


 しかし、けして確実でないからこそ、人は誓うのだ。

 あなたを愛し続けたいと、あなたに愛され続ける私でいたいと、そう祈るように。



 

 プロポーズではなく、典型的に想いを伝えて、典型的な学生らしく付き合うという選択肢もあった。しかし、俺が橘に言いたかったのは、望んでいたのは、恋人らしいことがしたいとかそういうことではなかった。


 ──橘が安らげる居場所であり続けたい。

 ただ、この二人が暮らす「家」という空間を、ずっと死ぬまで継続させたい。


 俺はきっとそんなことばかり考えていたから、傍から見れば早急な結果になったのだろう。

 社会人になって上手くいかなくなったら、なんて。不安症の俺はたまに時々四六時中考え込んでしまうことも、もちろんある。だが、それでも​─────


「では、誓いのキスを」


 眩しい光に照らされた半透明のヴェール。

 それをゆっくりと上げると、絵画のように美しい顔がそこにはあった。

 

 水のようになめらかに流れる琴色の髪。雪のように光り輝く白い肌。強い意志と柔らかい優しさを湛えた大きな瞳。しゅっとした鼻に、ピンクの口紅が艶めく小さな口。

 

「……ん」


 橘の大きな瞳を瞼が隠し、上向いた長い睫毛がこちらを見上げた。

 あまりに綺麗なその造形にもはや感動を覚えながら、神に祈るように唇を重ねた。



 初めてのキスだった。

 

 


          *





「うう~、本当におめでと~!!!」

「わぁっ!」


 ドレス姿の春咲に勢いよく抱きつかれ、高いヒールを履いている橘は少しよろけた。

 式が一通り終わり、教会の広い庭で春咲や天賀谷と四人で話していたのだ。

 

「おいおい危ないって──」

「うええええええん」

「いや泣きすぎだろ……」


 橘の肩を後ろから支えながら、俺は橘の胸で咽び泣く春咲を見下ろす。


「おい天賀谷──」

 春咲をなんとか宥めてもらおうと、天賀谷に声を掛けようとするが、

「──ってお前もかい!」

 彼もまた滝のような涙を地面に落としていた。


「当たり前じゃないか……! 大好きな友達同士が結婚したんだぞ!? こんなに嬉しいことはないだろう……!?」


 嗚咽を漏らしながら、そう叫ぶ天賀谷。

 橘に頭を撫でられている春咲も、うんうんと強く頷いていた。


「だってだって! 琴葉ちゃんにも、こーきにも、ずーっとお世話になったんだもん! 楓と付き合えたのも二人のおかげだし……。だから、二人が幸せになってくれて、すっっごく嬉しい……!!」


「ももか……」


 珍しく感極まった橘が、「好き!」と春咲をぎゅっと抱きしめ返した。

 わたしも大好きぃぃ、と春咲が更に泣き始めては、よしよしと撫でられて、なんとも華やかな画になっている。


「浩貴と琴葉には、ぎゅー事件の時も世話になったもんな!」

「は、はは……」


 恥ずかしい勘違いをしたことを思い出して、思わず苦笑する俺たち。 

 果たして二人の進展はあれからあったのだろうか……。いや、あってほしい。

 

「喜んでくれるのは嬉しいけど、全然気にしなくていいのよ? 全部私たちが好きでやっていたことなんだから」

「そうだけど……!」

「それに──」


 橘は幸せを胸いっぱいに抱えるように手を広げて、満面の笑みで話す。


「ずっと私たちはあなたたちの恋のキューピットみたいなことをやってきたけれど、でも実際は逆だったんだと思うわ」

「……そうだな」


 俺は橘の言わんとしていることを理解した。


「今思えば、春咲や天賀谷と出会っていなかったら、俺と橘が仲良くなることもなかった。お前たちの恋路を応援しながら、俺たちは互いを知ることができて──」


「今こうして、一瀬と恋ができているの」


 橘は「でしょう?」とでも言いたげに俺に微笑みかける。俺も「そうだな」と頷くように、笑顔で返した。


「だから、こちらこそ……ありがとう」

「ああ。本当にふたりがいて良かった」


 俺と橘がまっすぐに感謝を伝えると、今度は天賀谷と春咲が抱き合って「よかったなぁ~」「幸せになってね……」「二人が照れもしないで感謝を言えるなんて……」「大人になったねぇ~」などとわんわん泣き始めてしまった。


 そんなふたりを困り顔で見守りながら、教会の十字架に見守られながら。

 俺と橘は傍から見なくとも幸せそうに、こっそりと手を繋いでいた。




          *





 誰かの笑い声を街で耳にすると、自分を嘲笑っているのではないかと考えてしまう日があった。不意に自分の人生が虚しく思えて、俺には幸せになる才能がないと投げやりになった夜があった。


 だが今は、街の笑い声にもう悪意を感じない。寄り添う人たちを見ても憎悪が湧かない。むしろ心がぽかぽかと温かくなって、自分の幸せを誰かに分けてあげたいとすら思える。


「なんだか慣れないわね」


 なんの変哲もない住宅街をふたりで歩く。夕暮れ染まる頃合いで、遊んでいた子どもたちもはしゃぎながらそれぞれの家に帰っていく。


「これから毎日歩くんだし、すぐ慣れるさ」

 

 そう。この春、変わったのは俺たちの関係だけではなかった。

 俺たちは社会人になるこの時期を契機に、新たな部屋を借りることにしたのだ。やはり今までの部屋は狭すぎたし、お互いが職場にアクセスしやすいところが良いだろうと。


「……そうじゃなくて、慣れないのは結婚の方よ」


 橘は気が立っているのか、冷たい口調で口を尖らせている。

 頬が若干赤いような気もするが、夕陽のせいで判別がつかない。


「そうか? 今までも事実婚とはいえ結婚という名目で一緒にいたんだし、何も変わらないだろう」


 もしかしたらマリッジブルー的な不安を抱えているのかもしれないと思い、励ますように俺は言った。しかし、どうやらそういうことではないらしかった。


「何も変わらないの……?」


 そう拗ねたように上目遣いでこちらを見る橘は、明らかに顔を朱色に染めていた。


「え……?」

「私は……せっかくあなたと好き合っているのだから、その……。少しくらいは……ね?」


 すべてを言葉にするのは恥ずかしいのか、橘は俺の腕をぎゅっと抱きしめてきた。


「そ、そうだよな……」


 こっちの方が恥ずかしくなってしまった俺は、思わず押し黙ってしまう。

 駅から家までの新たな帰路を必要以上に確かめて、腕に感じる柔らかい感覚から何とか気を紛らわせていた。ドクンドクンとうるさい心臓の音は、果たしてどちらの主のものか知らない。



 二十分ほど歩いて、ようやく新しい住み処に辿り着いた。不動産屋にもらったばかりの鍵で玄関の扉を開けると、橘が真っ先に靴を脱ぎ、中に入った。

 そんなに新居が楽しみだったのかと意外に思った刹那、橘はバッとすぐにこちらに振り返り、


「おかえりなさい」

 

 澄ました顔でそう言った。


「……ふっ、それが言いたかっただけかよ。可愛いところあるな」

「何よその余裕ぶった言い方。新婚なんだから、妻の可愛さにもっと取り乱してもいいんじゃなくて?」


 拗ねたようにぷい、と背中を向いて、そのまま部屋の中に入っていく橘。

 俺は慌てて靴を脱いで、その背中を追いかけて────

 

「……ただいま」

 

 後ろから抱きしめるようにして、そう呟いた。

 橘の耳が真っ赤になるのが分かり、俺まで恥ずかしくなって身体を離す。


「……わるい、ちょっと今のはきもかったかも」

「本当よ。……でも、少し新婚っぽかったから、もう一度してもいいわよ?」


 顔を赤らめて、そうおねだりする橘の上目遣いに、俺は頭の血が沸騰しそうになる。


「ったく勘弁してくれ……」


 思いが通じ合っていると分かったこの一年、それでも正式に結婚するまでは何もしまいと様々な煩悩を押さえつけた俺の理性を、これ以上脅かさないでくれ。


「……な、なんてね! 冗談よ。じゃあ、夕飯でも買いに行きましょうか」


 気まずさと気恥ずかしさに耐えかねた橘が、白々しく話題を変えた。

 慌てて支度をしようとわたわたする仕草すら可愛らしく、より煽情的に見えてしまう。


「そうだ、せっかく正式に結婚したのだから、あの台詞でも言っておきましょうか」

「……?」


 橘は名案を思い付いたとでも言わんばかりに手を叩いて、俺の正面に立った。

 ふわふわな生地の春色のカーディガンは少しサイズが大きく、橘は手を萌え袖のようにしている。デニム生地のスカートは、彼女の綺麗な曲線のシルエットをそのまま俺に伝えている。

 すべての要素が悪魔的に可愛い橘が、小悪魔のように笑って放った言葉は──


「ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ──」


 橘の言葉はそこで遮られた。

 否、俺が遮った。自制のきかなくなった身体が、橘の唇を勝手に奪っていたのだ。



「お前にする────琴葉」




「───へっ!?」





 


 本日、二〇二二年三月二六日。




 俺、一瀬浩貴は、

 2番目に好きだった橘 琴葉と、


 結婚しました。



















「……なんだか妙な気分だわ」


 小鳥のさえずる朝。

 この広い2DKで現状唯一運び込まれた家具のダブルベッドで、一糸まとわぬ姿の橘は俺の腕に頭を乗せていた。互いの素肌が触れ合って、こそばゆいのにどこか心地いい。


「一瀬……じゃなくて、浩貴とこういうことするなんて」

「……嫌だったか?」

「そうは言ってないけどっ」


 橘はこちらに背を向けるように寝返りを打つ。細く白い背中と、芸術的な影を刻む肩甲骨が目に飛び込んできて、俺は慌てて目を逸らした。一晩経っても、慣れないものは慣れない。


「まあここんとこ色々卒業しすぎたな俺たち」

「本当よ。なんだかよくある堕落した大学生の恋愛に埋没したようで心外だわ」


 俺はそういう恋愛を橘とするのもやぶさかではないと思ってしまうが、確かに俺たちの結婚生活のもともとの始まりは、もっと理性的で論理的なものだった。


「結局、2番目に好きな人と結婚するのが最適解、なんて俺たちの持論は棄却されちゃったな」

「ふふ、懐かしい。私たちそんなことも言ってたわね。確かに私たちはこうして普通の恋愛結婚をしてしまった────でも」


 そこで言葉が途切れたので、橘の方に俺は視線を戻す。

 カーテンから漏れる日光と、新しい部屋特有の木の匂い、掛布団の中にこもった温度。五感すべてが新鮮で、そして幸福だった。


「ある意味で、私たちはまだ2番目とも言える」

「はあ? なんだそれ。浮気かっ!」


 今度は俺がふてくされたふりをして、ごろんと寝返りを打った。互いの背中がぴたと触れて、熱い。


「違うわよ。ほら、歴代の好きな人の中で言えば、楓が私にもたらした影響はやはり大きい。それに好きだった時間も一番長かった訳だし」

「まあ、職業選択に影響したくらいだからな」

「そうね。そしてきっとあなたの人生も、ももかと出会ったお陰で大きく変わったのでしょう?」


 そう言われて、俺は春咲と出逢った春の河川敷を思い出す。

 確かにあの日のことがなければ、俺は高校生になってからもずっと、孤独を抱え続けていたかもしれない。


「確かにな。俺と琴葉は運命的な出逢いをした訳じゃない。互いに一番好きな人と出会って、その末に俺たちは引き合わされたんだもんな」

「そう。だから、私たちの理論はまだ破綻していないわ。私たちは一応、2番目に好きな人と結婚したと言えるのよ」


 無邪気な声でそう言い張る橘が可笑しくて、俺は思わずくすくすと笑った。


「なんで笑うのよ」

「いや? 卒論の口頭諮問だったらめちゃくちゃ教授に詰められそうなガバガバ理論だと思ってさ」

「うるさいわねえ、ここは学会じゃなくてダブルベッドなんですけど?」

「結婚二日目の朝から、そんな愛のないこと言う方がどうかと思うが?」


 そうやって、皮肉を言い合っている内に、俺たちはいつの間にか目を合わせて笑っていた。

 おでことおでこがぶつかりそうなほどの距離。橘の息遣いが聞こえるほどに近い。


「……まあいいさ。別にそれでも」

「あら? もしかしてまだ拗ねてるのかしら?」


 いつものように挑発した上目遣いをする橘だが、俺は屈託なく笑って橘の頭を撫でた。


「これから時間をかけて、琴葉の一番になるから。別にいいんだよ」


 そう言われて一瞬目を見開いた橘は、すぐに顔を綻ばせて俺の胸に顔をうずめる。


「……くふふ、しあわせ」


 甘えた子猫のように頭を擦り付ける橘を抱きながら、俺は絶対にコイツを幸せにすると胸に誓った。


 ふたりが一緒にいる幸せを、必ず明日へと運び続けるという誓い。



 それが、結婚というものなのだ。

 


 


 改めまして俺たちは────


















                 ────2番目に好きな人と結婚しました。 



























                               完

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