508 変わっちまった悲しみに



「あ、一瀬くん……だよね?」


 中学2年の秋頃だったろうか。

 ある日の休み時間、俺はいつも通り図書室で本を読んでいた。ぼっちの居場所は保健室か図書室だと六法全書にも書いてある。

 そんな孤独な俺に話しかけたのは、見覚えのない女子だった。背はやや低めで、ぼんやりとした顔立ち。黒髪をハーフアップに結んでいる。


「誰……?」

「同じクラスの白石しらいしだよ……?」

「……ごめん」


 完全にミスった。いや、ちょっとは見覚えある気もしたんだが。二択を外した。何の?

 俺が最悪の言い訳を心の中でほざいているうちに、彼女は俺の隣にちょこんと座る。


「本、好きなの?」

「……うん」


 顔を覚えられていなかったことなど気にも留めず、彼女は俺に話しかけ続けた。

 しかし、いつも必要最低限の会話しかクラスメイトとしていない俺にとって、自分のことを話す機会はオアシスのように貴重だったため、疑問に思いつつも彼女の問いに答え続けた。

 いつも彼女は興味深そうに俺の話に耳を傾けていた。俺と目を合わせる度に、ほんの少しだけ首を傾げる仕草が印象的だった。


 休み時間に図書館で行われる20分の質疑応答。そんな日々が二週間ほど続いた日のことだ。


「ねえ、一瀬くん。良かったら私と付き合って?」

「え?」


 同じ教室で過ごしているにもかかわらず、彼女は図書室以外では話しかけることはなかった。だから、俺も彼女の真意を測りかねていた。

 最初こそ「もしかして俺のこと好きかも?」などと舞い上がっていた自分もいたが、なら教室で話しかけないのは不自然だろう。俺はここ数日でその線はないと断定したにもかかわらず、これだ。


「白石さんは俺のこと好きなの……?」

「うん。一瀬くんは私のこと、嫌い?」

「いや、嫌いじゃない……けど」


 そんな曖昧なやりとりで、彼女との交際は極めてふんわりと始まったのを覚えている。

 周りが恋人や友人などと青春を謳歌する中で、俺にもそういったものへの興味が人並み程度にはあったのだろう。

 付き合うとはどういうことなのか、付き合ったら何をするのか。底知れぬ好奇心が渦巻き、俺は突如舞い込んできたその機会に手を伸ばしたのだ。



     ・・・



 フィクションには、「謎多きヒロイン」というものがいかに多く登場することか。中学生の俺もそれに気づき、そしてまたその魅力に惹かれてもいた。


 そういう意味で、何を考えているのかさっぱり分からない彼女の存在に惹かれてしまった部分もあったのだろう。どちらかといえば、夢を見ていたという表現が正しいかもしれない。


「一瀬くんは────だね」

「え?」

「もう別れよっか」


 クリスマスも目前に控えた二学期の終わり。付き合ってわずか二ヵ月経った頃、彼女は唐突にそう告げた。

 たしか、クリスマスにどこか遊びに行こうと初めてデートに誘った直後のことだった気がする。

 俺は何か気に障ることを言ったのかと朝まで考えたが、結局答えは今も分からないまま。


 謎めいた異性というのは、好意を向けてくれているからいいのであって、逆の場合はむしろ精神にとても悪影響だということを学んだ冬だった。

 その時、彼女に言われた言葉を俺は覚えていない。おそらく防衛機制が働いたのだろう。人間の脳は都合よくできている。


 しかしその時の彼女の冷酷な目だけは、7年経った今も忘れることができないでいた。



         *



「え、誰だっけ……?」


 結果から言えば、同窓会は散々だった。

 そもそも俺を覚えている奴が全然いない。というか俺が覚えている級友がまずいないのだ。


「あれ、俺っていじめられてたっけ?」


 そう考えたくもなるが、そうではない。実際、嫌われ避けられたことは一度もなかった。

 クラスメイトと会話することも普通にあったはずだ。しかし、特定の誰かと仲良くなるということもまたなかった。


 有り体に言えば、俺は学校で浮いていたのだ。

 誰とも深い仲を築かず、ひたすら勉強と読書に捧げた中学時代のことなど、俺ですら印象に薄い。それが他人なら況やである。


「自己分析どころか思い出話のひとつもできないのか俺は……」


 こうなったら頼みの綱はもうあの人しかいない。

 極めて気まずいとは思いつつ、どこかで彼女と話したいと思っている自分もいた。


 謎めいたヒロインの真意は、物語の終盤で必ず明かされるものである。

 だから彼女がなぜ突然俺に近づいて、なぜ突然俺を見放したのか。その真意を知らないまま生きていくのは、とても居心地が悪い。

 回収されないままの伏線も、立てっぱなしのフラグも、現実の人生には往々にしてあるのだろうが。それでも知りたいと思うのも、また現実なのだ。


「さて、問題はどこにいるかだが……」


 会場となっているホテルの大広間は結婚式場のようにかなり広い。

 そこにひと学年200人程度の人間が歓談しているのだから、探すのは至難の業だ。

 7年の時が経っている。特に女性は容姿の変化が大きい。髪型やメイクでそもそも彼女を判別できるのかも怪しい。


「いないな……」


 30分ほど探すもそれらしき人物は見当たらなかった。大勢の人に酔ってきたのか気分が悪くなってきた。新鮮な空気を吸うために一旦外に出る。

 だがどこからか煙草の匂いが漂ってきて、俺は顔をしかめて鼻をふさぐ。駐車場横に設置された喫煙ブースからのようだ。スーツを着た一人の女性が一服している。


「……」


 同窓会の参加者かと訝しげに見ていたら、その女性は喫煙ブースから出てきてこちらに近寄ってきた。


「────あ」


 どうしてだろうか。俺はとうの昔に彼女に出逢っていると、理由もなく確信した。

 思わず足を止め彼女を見ていた俺に、一歩一歩ヒールの音が近づく。


「一瀬くん……だよね?」


 そして、記憶の奥底に沈んでいた言葉で彼女は俺に声を掛けた。

 そうだ。彼女は、白石さんは、7年前もこんな風に話しかけてきたんだった。風が心を吹き抜けていく。


「白石さん……?」


 直感ではそう思っていても、理性はなかなか理解できないでいた。だがそれも無理はない。

 目の前にいる女性は背も160後半はあろうかというくらい高く、艶のある黒髪を肩甲骨のあたりまで伸ばし、強気な目つきが強調されたメイクをしている。加えて、先ほどの煙草だ。


 まるで別人だと思った。声は確かに聞き覚えがあったが、それ以外の情報は俺の記憶と殆ど違う。どちらかといえば、遠慮しがちな柔らかい雰囲気を持つ少女だったような。


「驚いた? 随分変わったもんね、私」

「……」

「それにしてもまさか君が来るなんて思わなかったよ。ダメ元だったけど、今日は来てよかったな」


 俺が何も言えずにただ茫然としていても、彼女は気にも留めずに淡々と話を進めていく。その奔放さだけはあの頃と変わっていなかった。真意の読めない思わせぶりなセリフも。


「変わらないね、一瀬くんは」


 俺の全身を見回してから、彼女は微かに笑う。「そりゃお前から見たらな」と俺は小さく毒づくも、彼女は意にも介さない。


「君もどうせ中に居づらいでしょ。少し歩かない?」



        *



 彼女に誘われるまま、俺は大通りの歩道を歩いていた。もう外は暗く、東京では見えない星空がこちらを見下ろしている。

 自動車のヘッドライトが次々と三歩前の彼女を照らしては消えていく。そんな光景をただぼーっと見つめながら、俺は問うた。


「なあ。さっき『君も』って言ったけど、白石さんも同窓会気まずかったのか?」


 告白されてから俺は何度か彼女の姿を教室で見かけたが、いつも友達と仲良さそうに話していた。その記憶が確かならば、俺のように誰にも覚えられていないなんてことはないはずだが。


「あの頃の私と、今の私は違うからね。皆引いちゃってさ」

「……何かあったのか」

「何もないよ。ただ、私にとっての自分の理想が変わった。それだけだよ」


 白石さんは後ろも振り向かず、両手を後ろに組んでテクテク歩いていく。その言葉は妙な違和感があるというか、どこか引っ掛かった。


「理想が変わったからって、そんなに変われるものなのか」

「変われるよ。私も、君と同じだからさ」

「同じ……?」


 彼女の言葉を繰り返すも、彼女は俺に別の問いを投げかけてきた。


「じゃあ、君はなんでわざわざ同窓会に来たの? 仲いい人なんて、いなかったでしょ」

「それは──」


 俺は一瞬口ごもるも、ここに来た目的はこの人に過去の俺について聞くためだ。説明は避けて通れない。


「そろそろ就活だから、昔の話とかできたら役に立つかと思って……お前と話しに来た」

「へえ、奇遇だね」

「え?」

 

 それってどういう意味、と訊こうと口を開けた時には彼女は既に俺に問いを投げかけていた。


「で、君は何になりたいんだい? これから何がしたいの?」


「……それが分からないから、ここにいるんだろ」


 俺が投げやりにそうこぼすと、彼女はにっこりと微笑んだ。


「ほらね。変わってないよ君は。容姿とか垢抜け具合とかそういうのじゃない。一瀬くんは────」

 

 俺は不意に師走の図書室の空気を思い出す。

 暖房で温められた眠たくなるような空間と、それを切り裂くような冷たい口調と視線。



「君は、あの頃からずっとだね」



 その時、右折した車のハイビームが彼女を背後から照らした。逆光で彼女の表情を読み取れない。

 そのせいか、そこにはまるで7年前の白井さんの顔が写っているような錯覚がした。

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