509 『何者』
「私もね、ずっと何者かになりたかった」
逆光の影になった白石さんは、透明人間のように静かに佇む。
「幼い頃からずっと思ってた。普通に生きて普通に振る舞っているのに、特別になれる人とそうでない人がいること。私はどう足掻いても、凡庸でありきたりなつまらない人間だってこと」
「みんな違ってみんないいって先生は言う。誰しもが特別な花だって世間は歌う。けど、私には全部キレイゴトにしか聞こえなかった」
俺は黙って彼女の独白を聞く。彼女も返事など求めていないのだろう、滔々と話を続ける。
「実はね、中学の頃、私は君に憧れていたんだよ?」
「え……?」
不意に心拍数が上がるのが分かった。
それもそうだ。目の前にいる謎めいたヒロインは、唐突にあの頃の真意を語り始めたのだから。
「誰とも一定の距離を取って、教室の隅で本を読む君が。ひとり涼しい顔をして、毎回テストで学年一位を取る君が。私には、自分の世界をひっそりと守っている孤高の人に見えた。君が特別に見えたんだよ。だから、君に声を掛けた」
それから彼女の声は、1トーン低くなる。
「────でも、そうじゃなかった」
「……」
俺は何も言えないまま、彼女の独白を耳に入れることしかできない。
「付き合ってみてよーく分かったよ。君はただ臆病なだけの、普通の人だって」
こんなにはっきりと人に罵倒されるのはいつぶりだろうか。
しかし、彼女の言っていることは事実だ。俺は言い分を全て聞くまでは何も口を挟まないことにする。
「ただ自分を見せて嫌われるのが恐かったんだよね。本当は普通に友達と笑って、遊んで、ふざけ合いたかったんだよね。それこそ恋愛も……」
「それでクリスマスにはデートに行こうなんて言うから、私ガッカリしたんだよ? 死ぬほど『普通』を渇望している普通な君に」
飲み込まれそうなほど光の見えない彼女の双眸が、茫然とした自分の姿を映す。
「……だからあの時、別れようって言ったのか」
「そう」
「はあ……なんだよそれ。勝手すぎるだろ……」
俺は思わずその場にへたり込む。あまりの落胆に、マリアナ海溝より深い溜め息が漏れた。
彼女は俺のことを見ていた訳じゃなく、ただ勝手に理想を期待して勝手に失望しただけだったのだ。
「知りたくなかったな……」
そんなつまらない真実なら。その伏線はいっそ明かされないままで良かった。
ちょっと不可解でほろ苦くて、でも甘酸っぱい思い出のまま、綺麗に物語が終わっていれば良かったのに。
「じゃあお前はずっとそうやって理想を演じ続けてるのか? 7年前のあの時も、当時の理想を演じていただけに過ぎなかったのかよ」
「──そうだよ? ミステリアスな雰囲気も、あの頃のマイブームだっただけ」
「そうか」
俺が見ていた白石さんという人格は、元々どこにもいなかった訳だ。その事実の方がよっぽど俺には
「……なんかごめんね?」
またどっと溜め息を吐く俺に、彼女は悪びれる様子もなく軽い調子で謝った。
「なあ、怖くないのか? そうやって演じて。どんどん本当の自分が消えてしまうんじゃないかって思ったりしないのかよ」
語りかける俺の声にも熱がこもる。
怒りに震えているからではない。彼女の言い分にある程度共感している自分もいる。しかし、だからこそ言いたいことがあった。
「俺だって、少しは分かるよお前の気持ち。確かに全部お前の言う通りだ。俺は空っぽだ。今でも他人の顔色窺って、自分を演じ分けて。確たる個性なんか何もない、凡庸でつまらない人間だよ」
──思い返せば、ずっとそうだった。
最初に稲藤に飲み会に誘われて行った時も。俺はあの軽い雰囲気に無理に合わせて、失敗して。ああ、忘れている読者諸賢は思い出さなくていい。あれは黒歴史だから。
それに、橘の父親に挨拶に行った時もそうだ。ガラでもないのに、求められていると思って昭和の漢みたいな仮面を被ってみたりもした。
いつだってそう。俺は誰かといる時、その人に合わせて自分の色を変えていた。
カメレオンみたいに空っぽな奴なんだ。
「──それでも、お前みたいに別人になったように自分を変えたいとは、俺は思えない」
強気なフリをして、目をしっかり合わせて俺はキッパリと告げる。
きっと今もだ。彼女の態度や、そのつり目に無意識に合わせて俺は取り繕っているのだろう。
そんな俺を見て、彼女は子猫のように笑い出した。
「ふふ、君は自分が大好きだもんね」
「は……?」
俺は今まで考えもしなかったことを言われて、面を食らう。
しかしその言葉には、醜いものに無理矢理目を向けさせるような、妙に忌避したくなる何かがあった。
「だってそうでしょ? 君が自分を変えたいと思わないのは、まだ「ありのままの自分」に夢を見ているからだよ。本当は醜くて臆病で怠惰な「ありのまま」を、特別で美しくてかっこいいものだと信じたいからだよ」
ゆっくりと仮面が剥がれ落ちる音がした。
聞きたくないのに、耳を塞ぎたいのに、俺はそれができないでいる。身体が金縛りにあったように固まっていた。
「君は『本当の自分』と言うけど、そんなもの直視したことないよね? むしろそれから目を背けて『いつか自分は特別な何者かになれる』なんて、そんな現実逃避をずっと続けているんだ」
「違う!」
違う。違うのか……? 本当は彼女の言う通りで、それを認めたくないだけなんじゃないか。俺はそんなにエゴまみれの人間だったのか。いや、そんなことはないはず……だが。
脳内で肯定と否定を繰り返す己の声が喧しい。だが頭を掻きむしっても、声は止まない。
「私はちゃんと「自分」が醜くて穢いことを知ってる。こんな大嫌いな「自分」なんて、見失おうがどうでもいいのさ。私はただ自分が好きな自分になりたい。生まれ変わりたいんだよ」
「……」
そこまで熱を込めて言い上げた彼女は、ふうと息をつく。
「まぁ、いつになったら『変われた』と言えるのかは分からないけど。君は変わろうともしていないでしょ? それとも、君はあれから何か変わったと言えるのかな?」
未だしゃがんでいる俺に、白石さんは屈んで顔を覗き込む。
「……か、変わったに決まってるだろ。何年経ったと思ってるんだ……」
俺は彼女を強く睨んで、立ち上がる。
そうだ。7年前の何もなかった俺とは違う。違うはずだ。
高校に入って、春咲と出逢って友達もできた。天賀谷も他のクラスメイトもこんな俺を受け入れてくれた。
「そして今、好きじゃなくても結婚してくれる相手がいて、そいつと一緒に暮らしてる。誰にも自分を見せられなかったあの頃とは、違う」
「……へえ、そんな面白いことをしてるんだ。ちょっと見直しちゃったな」
その形が「普通」ではないからだろう、俺の結婚の話に興味を示す彼女。
「でも、君が今も居場所を欲していることに変わりはない……。いつまでも醜い自分から目を逸らして生きている君は、近いうちに必ず苦しむよ」
「黙れ……」
俺はまともな反論もできずに、ただ懇願するように嘆く。
しかし、彼女は言葉を俺にぶつけるのをやめてはくれない。
「ねえ。私と君、空っぽ同士で傷を舐めあうのも悪くないんじゃない?」
そう言って、彼女は俺の顎を優しく掴んだ。高いヒールを履いているからか、身長差は殆どない。
「君はさっき私に会いにここに来たと言ってたけど。実は私もね、君に会いに来たんだよ?」
「え?」
「私は今もね、君のことが──」
戸惑う俺の肩に腕を回した彼女はほんの少しだけ背伸びをする。甘い香水の匂いが鼻孔をくすぐると思えば、彼女はゆっくり目を瞑った。
そうしてそのまま、唇を唇に寄せる。
「──な、なにすんだよ!」
彼女と俺の唇が触れるすんでのところで、俺は自分の口を手で防いだ。
そして強引に彼女の腕を解き、急いで距離を取る。
「あれ、もしかしてキスもまだなのかな? いいの?」
蠱惑的に微笑む彼女。
簡単に唇を差し出したことに対してなのか、はたまたそれ以外の理由かは分からない。だが、言いようのない憤りに震えた俺は目の前の彼女にきっぱりと告げた。
「俺は……お前に会いに来たんじゃない。お前と話すことで、過去の自分に会いに来たんだ」
これっぽっちも彼女に会いたかったわけではない。
ましてやこんなひどい真実を聞きに来たわけでもない。
「……ふふ。冗談だよ。ちょっと試したくなっただけさ」
どこまでも俺を嘲笑う彼女。
もう既に俺のメンタルはぼろぼろだった。自分がどこに立っているのか分からなくなるほど、自分の中の何かが揺らいでしまったようだ。
───だが、それでもどうしても譲れない想いがひとつだけ残っていた。
「俺がどんなに空っぽでも……どんなに醜くても……。アイツの前では仮面を気にせず自然でいられるんだ……」
俺は橘の笑顔を思い浮かべる。
アイツが俺をどう思っているかは分からないが、この生活を大事に思っている気持ちは、お互いに同じだとなんとなく感じていた。
……だから、それだけは許しちゃいけないのだ。きっと。
「ふーん、じゃあせいぜい大切にすることだね。まあ、今日は楽しかったよ。私も、ちょっと昔の自分に会えた気がしてさ」
まああの頃の私に未練はないけど、それでもたまに懐かしくはなるからね。
そう言い残して、彼女は踵を返す。
「お、おい」
俺は何か言っておかなくてはと思い、衝動でその背中に呼び掛けた。
「俺はちゃんと向き合ってみせるぞ……。そして、俺が何になりたいのか、何者か……。その答えをちゃんと見つけてやる……!」
夜道を歩くサラリーマンや学生がこちらを何事かと見るが、俺は気にしてなどいられなかった。彼女は振り返らず、ひらひらと煽るように手を振って去っていく。
俺も、街灯のない裏路地を歩いて帰路を辿った。孤独で暗い道のりはどこまでも奥に続いているように見える。
それでも、俺は一歩ずつ足を交互に動かし、前に進むしかない。
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