506 夏の終わり、将来の夢、線香花火


「聞いてくれ、大事な話があるんだ」


 稲藤がいつになく真剣に、嘘も衒いもない素朴な表情で朝比奈を見つめていた。

 俺と橘は二人に見つからぬよう堤防の上から観察している。


「それにしても、まさかお前がこんなことを言い出すとはな」

「稲藤くんはどうでもいいのよ。頑張ってる花蓮ちゃんが報われて欲しかったの」

「ふっ、それもそうだな」


 そう、このお膳立てを提案したのは俺ではなく橘である。

 お膳立てと言っても、夕焼けのタイミングで二人きりにするだけではあるが。


「なーに? ソウくん」


 大きな鏡の中の夕陽に照らされた朝比奈は、どう見てもこの季節の主役だ。

 稲藤も思わず赤らんだ頬をかく。


「本当に……僕でいいのか?」

「何言ってるんですか。こんなダメダメな人、もらってあげられるの私しかいませんよ?」

「なんでそこまでできるんだ? 俺は何も返せていない、ただ花蓮を傷つけてるだけなのに」


 稲藤からこぼれたのは告白の言葉ではなかった。

 朝比奈が信じられないのではない。愛される自分が信じられないからこその、弱気な言葉。


「私がどれだけ時間と労力を費やしてきたと思ってるんですか? 東大ですよ東大。凡庸なJKが並の努力で入れるところじゃありませんよ」

「そ、そうだよな……本当にすまな──」

「それでも。ソウくんの最後の人になりたかったから。ううん、それよりもあなたをもっと知りたかった。あなたの良い所も悪い所もぜーんぶ知って、『それも含めてあなたが大好き』って言いたかったから!」


 稲藤の言葉を遮って、一気に思いの丈をまくし立てた朝比奈。少しだけ、目元が反射してキラキラ光っているように見える。


「……だから、ここにいるんですよ。ソウくん」


 一瞬だけ風が凪いで、波もない穏やかな海の時間が訪れる。

 稲藤は勇気を振り絞るように、ふうと息を大きく吐いて、ゆっくり言葉を紡ぎ始めた。


「俺、もう何もないんだ。自分のことなんて、どうでもいいと思って生きてきた。だから人を傷つけるのも、傷つくのも、全然怖くなかったんだよ」

「……」

「だけど、今はめちゃくちゃ怖いよ。好きな人に好かれるって死ぬほど怖い。こんな汚れた自分でいいのかって、死ぬほど思う」

「うん……」


 朝比奈が包み込むような優しい声で頷く。隣の橘も、母親のような暖かい目つきで稲藤を見つめていた。


「でも、このひと月、花蓮と過ごしてすごく救われたのも事実なんだ。このまま君といたらもしかしたら、いつかまた自分を好きになれるんじゃないかって、そう思えるようになった」

「ならよかったです」

「……だから、もう少しだけ待っていてほしい。わがままを言えば、その時までそばにいてほしい。俺が俺を愛せるようになったら、ちゃんと他人のことも、花蓮のことも、愛せるような気がするんだ」


 夕陽が沈んでいく。凪の時間は終わり、陸から海へと風が流れていく。

 朝比奈は靡く髪を耳に掛け、すうっと息を吸い込んだ。


「もう……ワガママですね。いつまででも待ちますよ! 待つのは慣れっこですからね!」

「……花蓮、ありがとう。お前、いい奴すぎるよ」

「好きな人だから許せるだけで、別にいい奴じゃないですよ。それに、お礼を言うならわざわざ二人きりにしてくれた先輩たちにも──」


「ね!」という声とともに、朝比奈はこちらの方を急に見上げ目を合わせてきた。俺たちがずっと見ていたことにちゃんと気付いていたらしい。


「えっ浩貴と琴葉ちゃん!? いつからそこに……ってか知ってたなら言ってよ花蓮!」

「最初からいましたよ? 私は別に聞かれても嫌なことは何もないので」

「俺がありまくりだから! うわーまた弱み掴まれた、アイツらしつこいんだよ……」


 稲藤は自分が何を言ったのか思い出したのか、羞恥で頭を抱えてしまった。

 

「ふふ、いい気味ね。これからまた楽しくなるわ」

「覚えとけよー稲藤」


 俺たちは砂浜でうずくまる稲藤に雑に野次を飛ばして、踵を返す。ひと段落ついたので、二人と合流するのだ。夏の締めといえばもちろん花火でフィナーレだ。


「それにしても、私たちいつもこんなことしてるわね」


 海辺へ戻る途中、ふと橘が思い出したように言う。

 確かに言われてみれば、高校の時から天賀谷と春咲の恋路を手伝って、最近も復縁させて、朝比奈の話も聞いて。そして今もこうして稲藤たちを見守っている。そろそろ仲介手数料をもらってもいい頃だな。


「珍しくお前が言い出さなきゃ、俺は今回何もするつもりなかったんだけど」

「ふふ、無理よ。なんだかんだ私も貴方もお節介だもの」

「そうかもな。案外似た者同士だな」

「どうでしょう、似てきたのかもよ?」


 太陽が水面に隠れる様は、さながら絵の具が滲んでいくようで。

 未だに俺は橘の方を直視できないまま、ただその眩しい水平線だけを眺めていた。


「もう同棲も8か月か」


 ちょうど今年の初め、一月から始まった同棲生活。

 そして今、もう目と鼻の先まで九月が見えている夏の終わり。


「思えば、あっという間だったわね」

「確かに。でもまだ8か月かーって感じもする」

「それもちょっと分かる。色々なことがあったものね」


 なんだかノスタルジックな気持ちになるのは、秋を先取りしたような涼しい陸風のせいだろう。身体をすり抜けるような爽やかな空気は、もう熱気を帯びていない。


 橘と再会したあの冬に近づいているような、そんな錯覚がした。



         *



 花火は、実は日本以外の国でも楽しまれている。日本では専ら夏の風物詩と持て囃されているが、海外では季節に関係なく祝祭日やパレードの際に打ち上げられることが多いのだとか。

 しかし一方で、日本でしか見られない花火もある。それは線香花火だ。


「やっぱこれを見ると、夏の儚さを感じますよねー」

「だな」


 俺たち4人は手持ち花火をひとしきり終え、海辺で小さく輪になって線香花火に火を灯していた。

 よくある『誰が最後まで火が落ちないでしょうかゲーム』である。


「それにしても線香花火こそ、日本の夏の終わりって感じがするよな」

「花火の中でもいっそう儚いものね」


 あえかに揺れる火の玉が、心悲しい晩夏の海を仄かに照らす。しみったれた空気が流れ、なぜか4人とも無言になっていた。

 耳の奥に波のさざめきを捉えながら、線香花火を己の命かのようにじっと見つめている。


「あ」 

 

 最初に落ちたのは稲藤だった。まもなく朝比奈の火もふっと地面に消えた。


「なかなかしぶといわね」

「お互いにな」


 橘と短い応酬をしては、また自分の火を見つめる。

 既に終わった稲藤と朝比奈は片づけをしながら、名残惜しそうに海を眺めていた。


「終わっちゃったなー夏」

「そうですね。また絶対遊びたいです!」

「ふふ、当たり前でしょう」


 朝比奈にめっぽう甘い橘は、なんだか春咲を撫でている時と似ている。

 そう思っていたら、橘の花火もふっと落ちていった。


「あら、私もおしまいね」


 残る灯は俺だけになる。


「でも今みたいに頻繁には遊べなくなりますねー」

「そうだなあ」


 稲藤と朝比奈が寂しそうにそう呟く。

 俺はよく意味が分からず「どうしてだ?」と訊くと、


「え、だって先輩たちは──」


 当然のように朝比奈が答えた。

 取り残された線香花火が風で揺れる。大きく揺れる。


「え? 何言ってんだ……まだ3年の夏だぞ? そんな馬鹿な」

「いや、周りはもう普通にやってるでしょ」

「そうね。先輩も大体6月くらいから始めたと言ってたわ」


 信じられないと狼狽する俺に、稲藤と橘は事も無げに言う。

 そうだ、俺はこの日まで何も知らなかった。何もしてこなかったんだ。


 ──だって先輩たちは、


「う、嘘だろう!?」


 日はとうに沈んでいる。冷えた風が、ぴゅうと今一度吹いた。


 夏が終わる。秋が始まる。

 永遠のモラトリアムなどないと主張するように、季節は容赦なく進んでいく。


 もう夏いだと秋風は俺の灯を地面に叩きつけ、ついでに厳しい現実をも叩きつけて海へ逃げていった。


 夏が終わる。秋が始まる。

 人生の夏休みもいずれ終わり、秋に向けて誰もが支度をしなければならない。



 俺の未来が決まる、就職活動が始まる。













最終章 〜2020 Summer〜 Fin.

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