505 笑う貴方が、この時間が、空間が


 風に吹かれながら、またひとつ頁をめくる。

 小説の中ではいよいよ探偵が犯人を突き止めようとするところだ。シリアスな展開に汗ばむ指で、また一枚頁をめくる。

 やはり読書は良い。すぐに新しい世界へ没入することができる。たとえそれが電車の中でも。喧騒にまみれた街中でも。そして、もちろんここが海辺であろうともだ。


「だからって海で本読むかいな!」


 稲藤くんが関西の芸人バリにツッコんで、頭をべしんと叩く。もちろん叩かれたのは私ではない。隣で同じように本を読んでいた一瀬だ。

 そう、今日は遂にダブルデートの日。私たちは海に来てまで、パラソルの下でフィクションの世界に旅立っていた。


「いってー、今いいとこだったのに」

「うるさい。せっかく夏に海に来てるんだ、楽しまなきゃもったいないでしょ」


 冷静にたしなめる稲藤くんも、どこかそわそわしている様子だ。やはり彼にとっても、海は気分を昂らせるイベントなのだろう。案外、子供らしいところもあるじゃない。


「よし! じゃあ行くとするかな、ナンパに!」

「「は?」」


 あ、全然子供らしくありませんでした。稲藤くんは相変わらずサイテーの倫理観バグ男でした。女の敵、いや、花蓮ちゃんの敵ですこの人。


「ソウくん?」

「YABE」


 噂をすれば何とやら。着替えに手間取っていた花蓮ちゃんが、いつの間にか稲藤くんの背後に立っていた。笑顔のようで、その目は笑っていない。


「もうそういうのはしないんですよね?」

「はいしませんしませんすいません……」


 正座をさせられた稲藤くんを、腕を組む花蓮ちゃんが見下ろす。さながら鬼嫁の説教だ。ふふ、いい気味ね。

 まあ彼も、長年続けてきたキャラが簡単には抜けきらないのでしょうけど。仮面ペルソナというものは、そう易々と付け外しできるものではないから。


「まあソウくんも反省しているようですし、私が今一番言って欲しいことを言ってくれたら許してあげますよ。そういうの得意なんですよね?」

「煽りが上手すぎて恐いな……」


 あまりの鬼嫁ぶりに横で座る私の夫もぶるぶると戦慄していた。あなたの嫁は優しくて温厚でよかったわね。本当に。

 肝心の被告人、じゃなくて稲藤くんは花蓮ちゃんの頭からつま先を一瞥して答える。


「花蓮、水着似合ってて可愛いよ」

「もう! 悔しいけど正解です!」


 やはり流石の稲藤くんといったところで、こういう質問は外さない。


「なんか嬉しそうだなお前」

「ふふ、まあね」


 それもそのはず。花蓮ちゃんが褒められれば、水着を選んだ私も鼻が高いというもの。

 水色のフリル、露出しすぎないスカート型。色気というよりは純粋な可愛さを全面に押し出した水着コーデは、やはり彼女にぴったり合っている。


「稲藤くんは誰かさんとは違って気が遣えるのね」

「なんで俺を見て言うんだよ」

「あはは、浩貴にそれを求めるのは酷だよ琴葉ちゃん」

「おい、それどういう意味だ」



 私と稲藤くんは肩をすくめてはぐらかす。

 まあ確かに、浩貴はここに来てから私の方を一度も直視すらしてないしね。異性と海なんて来たことないから照れているんでしょうけど、私だって恥ずかしいんだからね。少しくらいの賛辞がないと割に合わないとも思う。


「琴葉先輩も水着めちゃかわ! ね、先輩もそう思いますよね!?」

「え」


 花蓮ちゃんはわざとらしく私の水着を褒めた。なにせこの黒のワンピース型の水着を選んでくれたのは紛れもない彼女自身だからだ。しかし、一瀬へのナイストスには違いない。

 戸惑う彼と一瞬目が合う。何と言われるのか……恐怖と期待が重なって、速まる鼓動が聴こえる。

 

「ま、まあ……コイツはいつも可愛いからな」

「ひゃ!?」

「えっ、いや待って、ちょ今のなし。タンマ、間違えた」

「ふう~! 先輩やるぅ~!」


 慌てたように水をがぶ飲みする一瀬は耳まで真っ赤だ。そして多分それは私も同じだ。

 いやでも、一瀬がまさかあんなことを言うなんて……。


 そもそも「可愛い」なんて言われたのは初めてじゃないかしら。私に対してそういう感覚があったのかと少し驚く。

 顔がにやけそうになるのを私が必死に抑える横で稲藤くんがぎゃははと笑い出した。


「やっぱ浩貴おもしろすぎるよ。水着そのものに言及するのは恥ずかしい、でも褒めた方がいいのは分かってる。その葛藤の結果出てきたのが少女マンガみたいな台詞なんだから」

「おい笑い過ぎだぞお前」


 ツボに入ったのかお腹を抱えて笑い転げる稲藤くんをジト目で睨む一瀬。しかし、その頬はまだ赤い。

 そこで彼はもうこの話はやめだとでも言うように、別の話題を呈した。


「そういえば朝比奈と橘は一緒に水着買いに行ったんだってな」

「そうなんですよ! 先輩から誘ってくれて!」

「お前から人を誘うなんて珍しいな? どんな話したんだ?」

「別に? ただの普通のガールズトークよ。ね?」

「ねー!」


 私は花蓮ちゃんに目配せ、もといウインクをする。一瀬は「なんだそりゃ」と不服顔だが、話題を逸らせたことで満足したのかそれ以上は追求してこなかった。



 ──結局、素直に言うのが1番だったりするんですよね!


 あの日花蓮ちゃんと話してから、私は勇気をだしてバイト先の二人の友人に話をした。

 そして、ミスコンには出ないことを伝えた。


 元々ミスコンにはあまり興味がないこと。というか本当は少し苦手なこと。でも二人と仲良くなりたくて勢いで言ってしまったこと。そして、一番の理由は好きな人がいることも──。


「え、そうだったんですか! ごめんなさい下手に勧めてしまって!」

「ううん謝らないで。私が変に遠慮していたのが悪いんだから」

「これから嫌な時はちゃんと言うんだぞー? それが友達ってもんだしさ」

「……はい!」


 そうして、二人は快く受け入れてくれた。それどころか、「別の企画に3人で参加しよう」と提案もしてくれたのだ。悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるほど、ミスコンの問題はあっさり解決した。

 それもこれも稲藤くんと花蓮ちゃんのアドバイスのお陰だ。

 私はまたひとつ、輪を広げることができた気がした。



「ま、何にせよお前が最近楽しそうで何よりだ」

 

 一瀬は曇りのない表情、なんなら若干どや顔でそう言った。

 こういう腹が立つ顔を見ていると、ミスコンのことを知って困惑する一瀬もやはり見たかったと思うけれど。


「なによ父親みたいな面して」


 私はふてくされたと分かるように頬を少し膨らませる。

 しかし、私の変化に気付きそれを受け入れてくれるような彼の言葉に、どこか喜んでいる自分もいた。


「それより先輩たち! せっかく来たんだからそろそろ泳ぎましょう!」

「ふふ、そうね。じゃあ行くわよほら」

「手なんかなくても立てるっての」

「と言いつつ握る浩貴であった……」

「うるせえなぁ」


 ミスコンなんて無理に出なくたって、一瀬の面白い表情はいつでも見ることができる。そう、こうして手を差し伸ばすだけでね。


 こんな生活が、こんな時間が、ずっと続けばいい。

 私は照れた彼の表情を見て、彼の骨ばった右手を握って、そう強く思った。



         *


 それから私たちは他の観光客と同じように、いたって普通に海を満喫した。

 沖の方まで軽々泳いでいく稲藤くんと、それを戦々恐々と見つめる一瀬とか。ビーチバレーをした際に、相変わらずの球技の下手さを露呈する一瀬とか。「陸でも苦手なのに、海の中でまともにできるわけがないだろ」と哀しいツッコミをする一瀬とか……。


 いけない、私の主観で描写が誰かさんに偏ってしまった。これでは私がずっと彼ばかり見ていたみたいじゃない。やめてください変な誤解は。


「ちょっとお茶買ってくるわ。一瀬付き合ってくれる?」


 海が橙色に彩られ始めた黄昏時。

 私は一瀬を誘って、砂浜に上がる。そして稲藤くんとすれ違う際に、彼の背中をぽんと叩いた。あとは打ち合わせ通りにうまくやりなさい、という意味だ。


「じゃあ二人は待っててね」

「はーい」


 花蓮ちゃんは何も知らない純粋な笑みで私たちに手を振る。

 しかし見送られた私たちは売店には向かわない。


「あのさ、花蓮」


 そして、こっそりと二人の行く末を見守れる場所に陣取った。


「どうしたんですか? ソウくん。急にそんな改まって」


 海に太陽が呑み込まれていく夕景をバックに花蓮ちゃんは立ち、正面の稲藤くんの顔を覗く。稲藤くんの位置から見ても、彼女の姿は眩しいだろう。


 稲藤くんの誤解を解くために、花蓮ちゃんはずっと頑張ってきた。

 嫌われるかもしれないのに。自分のものにはならないかもしれないのに。それでも想いを伝え続けて、ここまでやってきたのだ。

 今なら素直に、彼女がやってきたことがいかに勇気のいることかを認めることができる。


「ソウくん……?」


 だから、勇気を出すのはもうあなたの番なんじゃない? 

 稲藤くん。



「聞いてくれ、大事な話があるんだ」



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