503 現実は小説より恐怖なり

 

「暑い……」


 大学の夏休みは2か月弱と高校までに比べかなり長い。ただ9月が丸々休暇になる反面、夏休みの始まりは遅れる。基本的には8月の第二週以降になるのだ。


 もちろん世間と夏休みが一か月ずれることによって、9月の平日に空いている観光地を訪れることができるといったメリットもあるけれど、実はデメリットもある。

 そもそもなぜ夏休みはこうも長いのかという話だ。それは当然──


「あづい……」


 ──気温の問題である。

 8月に差し掛かったこの頃、登下校は灼熱地獄と化していた。歩かずとも無尽蔵に垂れてくる汗。日傘をしているにもかかわらず、容赦ない日光と蒸したような外気が気力という気力を奪っていく。


「ふう」


 今日も今日とて授業を終え、私は一瀬と家路を辿っていた。しかし、あまりの暑さに頭も回らず会話どころではない。私も彼も無意識に「あつい」という三文字を妖怪のように繰り返し呻いていただけである。


「はあ、クーラーつけましょう」


 道程はそう長くないのに、下宿に着く頃には体中の汗が服やら髪やらにへばりついて不快感は限界に達していた。


 恋愛感情のない同棲生活は、夏が一番つらい。


 これが私の出した結論である。まだ秋を経験した訳ではないけれど、恐らく間違いない。なぜなら、お互い恋人でないということは、こんなに暑くて汗をかいていても、家に入った途端にキャミソール姿にもなれないということだからだ。


「橘、先シャワー浴びていいぞ。エアコン効くまで時間かかるからな」

「ええ、ありがとう……」


 一瀬は家に着くなり無防備にもシャツを脱ぎ、黒の肌着一枚の状態で汗を拭いていた。今まで殆ど見てこなかったがっしりとした腕や胸板が、一瀬も男の子なのだと改めて私に実感させる。

 私は自分の動揺を誤魔化すように脱衣所に入る。普段、異性だということをあまり意識していないからこそ、余計にドギマギしてしまっているのかもしれない。



「そういえば、早く一瀬に言わなきゃだった……」


 シャワーで全身の汗を流しながら、私はバイトで勧められたミスコンのことを思い出す。


 しかし、本当に言わなきゃいけないのかと言われたらどうだろうか。恋人同士ならなんとなく報告しておいた方がいいような気もするけれど、私たちはそうではない。いやしかし、仮にも夫婦なのだから言わないのも不自然かしら……?


「うーん……」


 浴室を出て、バスタオルを身体に当てるようにして水分を拭き取る。

 どちらかと言うと、私は一瀬に言いたいと思っているような気がする。どこかそういう前提で考え込んでいる節があった。でも、それが何故かと言われると──。


 駄目ね。暑さというものは脳の働きを妨害するらしい。まあコンピューターだって熱に弱いのだから、仕方ないわよね。うん、とりあえずまた考えましょう。また新たに相談も申し入れたのだしその時にでも。


「お待たせ、入っていいわよ」

「ああ」


 入れ替わりで脱衣所に向かった一瀬も汗を軽く流しただけのようで、すぐに戻ってきた。その格好もまた上は肌着姿で、私はずっと目を20度ほど斜めに逸らして会話する。


 当然だが一瀬はアウトドアなタイプではない。筋トレが趣味でももちろんない。だから、彼の肉体は客観的に見て筋骨隆々という感じではない。むしろどちらかといえば細い方だ。

 それでも、女の身体とはまるで違うその無骨な肩や腕は、私を意識させるのに充分だった。


「なあ、怖い話してくれないか?」

「へ?」


 会話から意識が遠のいていた私は、思わず素っ頓狂な声を上げる。ベッドに座る一瀬はバスタオルを肩にかけ、その髪はまだ濡れている──じゃなくて、何? 怖い話? 今?


「ほら、こう暑いと勉強のやる気も出ないしさ。息抜きがてらに何かない?」


 そう雑に話を振ってくる彼も相当暑さで頭がやられているらしい。


「あなたは誰にでも怖い話のレパートリーがあると思ってるのかしら? それならまだ『何か面白い話して』の方がまだマシよ」

「じゃあ面白い話して」

「ないけどね? 私に芸人バリのエピソードトークができる訳ないでしょう」


 半年して二人の会話はどんどんフランクになっている。もちろん高校の時から友達だったが、やはり同棲開始当初はどこかお互いに気を遣いながら、手探りの生活をしていた感は否めない。

 それが半年して、お互いに相手に気を許せるようになってきたのだろう。


 例えば、一瀬はたまに全く面白くないギャグを言う。そして一人でケタケタ笑っている。私はクスリともしないけれど、その姿は少しだけ微笑ましい。あと、素の姿を見せてくれているようでシンプルに嬉しい。

 私は彼のことがやっぱり好きなんだなあ、と度々実感しては息をつく。


「やー勉強したくねー」

「そうね……じゃあこんな怖い話はどう?」

「ほう」


 ベッドにごろんと転がった一瀬が、私の言葉で起き上がる。


「じゃあ雰囲気を出すために……」


 そう言って彼は遮光カーテンを閉め、部屋の明かりも消した。多少は暗いが、昼間なのでお互いの居場所や顔くらいはちゃんと見えている。

 私は目一杯声を低くして、おどろおどろしく語り始めた。


「これはとある東大生に起きた悲劇なのだけれど──」


 一瀬の息を呑む音を聞いて、私は続ける。


「彼は小さなころから成績優秀でした。かの東京大学にも首席で合格し、彼の人生は順風満帆に見えました」

「なんか身に覚えのある話だな?」

「彼の大学生活はきわめて充実していました。学業にサークルにバイト。新しい友人に囲まれながら、彼は人生の夏休みを大いに謳歌していたのです……」

「あ、急に知らない人の話だ」


 哀しい一人ツッコミをしている一瀬を無視して、私は矢継ぎ早に語り続ける。


「そして遂に誰もが羨む大企業から内定も手に入れて、成功への切符を手にした彼。それにもかかわらず、卒業間近になってから何故か悪寒が止まりません。こわいなーこわいなーと思いながらも、彼は自分を疑いませんでした。今まで何の不自由もなく生きてきたからです」

「いや別に稲川淳二に寄せる義務ないからね怪談って」

「しかし、卒業直前に彼は教務から呼び出され、そこでようやく悪寒の正体を知りました」


 私はそこで一呼吸置いて、一層おどろおどろしく次の言葉を吐いた。


「そうです! 彼は卒業要件となる単位をひとつ取り忘れていたのです! 彼はその小さなケアレスミスにより留年を余儀なくされ、更には内定も取り消されてしまいました。また、翌年の就活は自信喪失からか上手くいかず、彼は路頭に迷うことに……。その後、彼は大学を中退したと聞きますが、その後の男の行方は──誰も知らない」


 ふう、と私はやりきった満足感で息をつく。しかし、一瀬は顔を真っ青にして何も言わない。


「どうだった?」

「いや怖い話ってこういうのじゃないからね!?」

「あらそうだったかしら」

「ある意味怖いけども。どっちかというと本当にあった笑えない話だよ。想像したら冷や汗かいてきた」

「じゃあ良かったじゃない。冷やすという目的は達成されて」

「あのなぁ……」


 顔を歪める一瀬は、やはりどこか頼りない印象を与える。私も人のことは言えないが、彼は臆病で小心者で、ももかを何年も引きずっていたくらいには女々しい人。


 だがそんなところも愛らしいのだ。一度そう思えば、彼の欠点すら私にとっては愛おしい。彼の男らしいところも、そうでないところも。私はすき。


 素直になれない私だけれど、もう私自身に嘘はつかない。

 だからこの生活が大事で大切で、そのために私は変わらなくちゃいけないのだ。


「じゃあ次はあなたの番ね?」

「げ」

「そりゃあそうでしょう? さて、どんな本格的な怪談が聞けるのかしら?」


 ──ま、一瀬をからかうのが楽しいのは変わらないけれどね。


 ハードルを上げられた一瀬は焦った顔で思案していた。

 皮膚の下を流れる血液は滾るほどに熱を帯びている。燃え盛るような夏は、恋の季節でもあるのだろう。


 私は、彼の横顔を焼き付けるようにじっと見つめていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る