502 大人数の会話はバスケのよう
七月某日。俺と琴葉は稲藤の住む家を訪ねていた。
もっとも、稲藤はひと月前から朝比奈の下宿に居候しているので、実質朝比奈の下宿を訪れたことになるのだが。
「へえ、琴葉ちゃんバイト始めたんだ。ガールズバー?」
「そんな訳ないでしょう、普通のカフェよ。アイドルオタクの稲藤くん?」
「それはもう忘れてよ!」
クッションに座る稲藤は珍しく赤面して声を荒げる。ちゃぶ台を挟んで向かいに座る俺と橘は、滅多に見られなかったコイツの狼狽ぶりをにやにや楽しんでいた。今まで散々からかわれたんだ。少しくらい報復しても罰は当たるまい。
「てか、俺もまだ知らないんだけどなんで急にバイト? そんなお金に困ってたか?」
「それは──」
俺に訊かれた橘は目線をすうと稲藤の方へ流して、「まあ、誰かさんの助言でね」と含みを持たせるように言った。「なんだ?」と二人を見比べるが、両者肩をすくめるばかりで何も語らない。よく分からないが、二人の仲がよろしくなっているようで何よりである。
「それで? 今日はバイト関連の相談なの?」
「そうなのよ」
そう、今日は橘が稲藤に相談があるとのことだった。コイツが他人に相談、しかもよりにもよって稲藤になんてどういう用件かと気になったので俺も付き添いで来たわけである。
あとは、稲藤と朝比奈の暮らしぶりを一目見たかった(冷やかしたかった)という理由もあったが、肝心の家主である朝比奈はバイトで丁度外出していた。
「こればっかりは一瀬じゃ役に立たないでしょうからね……」
「はあ?」
なんだかとても失礼な語り口だな、と俺は眉間に皺を寄せたが、その憤りも橘の次の言葉ですぐさま吹き飛んだ。
「バイト先の人たちとどうすれば上手く会話できるのかしら……」
「ああ……」と、稲藤が何かを察したような声を漏らす。俺も数秒の間沈黙し、「いやそれでもやっぱり失礼じゃないか?」と思い直した。確かに稲藤の方が適任なのは認めざるを得ないが、わざわざ言わなくてもよくない?
「あの、笑わないで、ほしいのだけれど……」
「ん?」
橘は何を恥ずかしがっているのかぶつ切りに言葉を紡ぐ。
「会話が5人以上になると……いつ話し始めればいいか分からないの」
「ええ? どういうこと?」
稲藤は意味が分からないといった具合に首を傾げる。その横で俺は共感の意で激しく首を上下に振っていた。赤べこも顔負けだ。
「なんというか、複数人で話していると私抜きでもどんどん会話が続いていくじゃない? しかも目まぐるしく話題が変わるから、話そうと思ったことを頭の中で整理している間に次の話題になっていたりするし。たとえすぐ整理できても、誰かと声が被ったりしたらどうしようかとか思っちゃうし……」
「いやいや、そんな大縄跳びに入るタイミング分からない子じゃないんだから」
分かりすぎて辛い──☆
会話というのは一種の知的スポーツだと言ってもいい。司会業、MCと呼ばれる仕事があるくらいだから、その技術的な側面はもっと知られてもいいはずなのに、なぜか皆会話は誰でも同等に出来ていると思ってしまう。
会話はキャッチボールだと誰かが言ってたろう。俺は球技が苦手なんだ。
「あと大学の女の子も多いのだけど、私、昔から女の子特有の気を遣う会話も苦手で……」
「あーね。琴葉ちゃん苦手そう」
「一応、一瀬が前言ってた『女子の会話の三原則』を参考書に今まで頑張ってきたのだけれど……」
「え」
唐突に意外な所から自分の名前が出てきて、面を食らう。
俺、そんな仰々しいタイトルの本書いたことありましたっけ? SNSとかで見つかったら2秒で炎上するくらいの主語の大きさだけど大丈夫?
「あれ、同棲始めたての頃に言ってなかったかしら。女子の会話は共感と謙遜と愛情表現で回るとかなんとか」
「あー……言ったかも?」
いや1月とかの話かよ。そりゃ覚えてないわ。というか過去の自分がなんかカッコつけててとても恥ずかしい。
しかし、そんな半年も前の些細な話を橘が覚えていることは、なんだかむず痒いような。でもやっぱり早急に忘れてほしかったような。複雑な男心。どうでもいいな。
「まーでもさすが。浩貴の言ってることは割と芯食ってると思うよ」
「おお」
稲藤が腕を組んで関心するので、俺は少しだけ過去の自分を褒めた。女心マスターの稲藤が言うのだ。このお墨付きは信用できる。
「でも、それだけじゃ駄目なんだな」
「え?」
「上手く受け流すだけならそれでもいいかもだけど。でも琴葉ちゃんがその子たちと仲良くなりたいと思っているなら、その三つでは足りないんだよ」
「そうなのか……」
稲藤の逆説を聞いて、俺はまた過去の自分を呪った。なんだよ、上げて落とすなよ女心マスター。複雑な一瀬心も理解しやがれください。
「じゃあ何が必要なのかしら」
「まぁ、これは女の子に限った話じゃないけど。仲良くなるために必要な過程はね、『プライベートを開示すること』」
「どういうこと? 住所や電話番号でも教えろっていうの?」
橘は稲藤の言っている意味が分からず、首を傾げる。ちなみに俺も右に同じの姿勢だ。
「違う違う。自分を見せるってことさ。自分の話なら何でもいい。好きな音楽でも、ペットでも、軽い悩みでも。それこそ恋バナでもね。大事なのは内容じゃなくて、『自分を曝け出している感を出すこと』なんだ。塩梅が難しいけど、重すぎず、でも当たり障りがなさすぎないことが望ましい。そうして「私、あなたと仲良くなりたいんです」って言外に伝えるんだ」
「なるほど……いわゆるメタコミュニケーションというやつね」
「そうそう。そうやってお互いを見せ合って「俺たち私たちってこんなに仲良いよね」って確認し合うんだ。じゃないと多くの人は相手が関りを拒否してるものと思うからね。特に君たち二人は周りからそう思われてるタイプだろうし」
俺は関係ないだろう俺は。
しかしまぁ、さすが女心マスターといったところでコイツの言うことには一定の説得力がある。それは橘も同意見のようで、俺の隣でせっせとメモを書いていた。
かつてなら人間関係のことを稲藤に教わることなど絶対しなかっただろうに、一体どんな心境の変化やら。まぁ、橘なりに必死に頑張っているんだろうな。なんて、上から目線で言えた義理ではないが。
「ねね、奥さんに見惚れてないで俺の話も聞いてよ」
耳元で小声で囁いたのはいつの間にか寄ってきた稲藤だった。
「いや見惚れてないから。てかなんで小声なんだよ」
「メモ取ってる健気な琴葉ちゃんの邪魔にならないようにだよ」
……嘘が下手な男だ。
「それで? 何だお前の話って。好きだったアイドルとか?」
「しつこいな?! そうじゃなくて、あの子のことでちょっと俺も相談が……」
「あの子?」
「だからここの家主の──」
そう稲藤が言いかけたところで、鍵を開ける音がして扉が勢いよく開いた。
「ただいま帰りましたー、愛しのソウくん!」
同時に聞こえてきたのは、人目も憚らぬ特大のラブコール。その声の主はポニーテールを揺らしてリビングに入ってきた。
「か、花蓮……」
「あれ? そっか、先輩たちも来てたんですね!」
俺たちに気付いた朝比奈はとびきりの笑顔でこちらに手を振る。
労働を終えた後にも拘わらずこの輝き。そういえば、こんな太陽みたいに眩しい奴だったと思い出す。あの張り込みの一件以来、久しく顔を合わせていなかった。
「ねーソウくん! あのこと考えてくれました?」
「いや、えーあはは。そう……だね」
稲藤の歯切れの悪さから、さっき俺に話そうとしていた相談事はおそらく朝比奈とのことだったのだろうなと推測された。
「あのことって?」
橘が首を傾げて朝比奈に尋ねる。
「デートですデート! 夏休みに海に行きましょうって誘ったんです。でもソウくん全然返事してくれなくて」
「それは良くないなぁ」
なぁ稲藤? と俺は顎をくいと上げる。すると稲藤は、苦虫を嚙み潰したような顔をしてまた俺の耳元で囁く。
「ずっとこの調子なんだよこの子……どうすりゃいいんだよもう」
「なんだよそんなことか。別に普通に行ってあげたらいいだろ」
「そうなんだけど……なんか俺なんかでいいのかなっていうか……こんなド直球で純粋な愛を向けられるのに慣れてないというか……」
「いや奥手な女子か」
もじもじしながら呟く稲藤に、俺は思わず突っ込んだ。
今までの即断即決即ホテルインの稲藤蒼士はどこ行ったんだよ。さっきまであんなに雄弁に語っていたくせに。
「あ、いいですねそれ!」
「どうしたんだ?」
俺たちが話している間、朝比奈と橘の間で勝手に話が進んでいたらしい。それにしてもこの二人が話しているところって珍しいような。初対面で会った時以来じゃないか?
「琴葉先輩がじゃあ4人で行くのはどうかって」
「「ええ!?」」
稲藤と俺の声が綺麗に重なる。
「いいじゃない。せっかくの夏なんだから」
そんな普通の青春っぽいことを言う橘はやはり変わった。でもなぜだろうか、前よりも少しだけ彼女が大人びて見えるのは。
「まあ、橘がいいなら行くか」
「ええ?! 浩貴まで」
「うるさい。お前もこれ以上逃げるな、腹くくれ」
俺は小声で稲藤に凄む。稲藤と朝比奈の関係には充分手を焼いた。だからもうこれ以上何か手を貸すつもりはない。
俺が海に行きたいのは単純に、橘との思い出を増やしたいと思ったから。アイツと一緒に何かを重ねたいと思ったからだ。
結婚し始めた時はそんなことあまり思わなかったのに、今は強くそう思う。
「よしっ、じゃあ海だ! 花火だ! エモエモ夏休みだ~!」
「おーっ!」
一人で声を上げ、一人で返事をした朝比奈はこの季節のように陽気だ。
窓の外では太陽が悪魔的な輝きを放ち、青空と入道雲が街を見下ろしている。そう、夏はまさにこれからなのだ。
「ま、その前に期末だけどね」
「あ」
橘がぴしゃりと浴びせた言葉は打ち水のように冷たかった。
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