第5章
~2020 Summer~
501 共感、謙遜、愛情表現
「橘」
歩道橋の上で前を歩く彼女に呼び掛ける。
「なに? 一瀬」
立ち止まり、ゆっくりと振り返った橘の頬は少し赤い。
コートの裾がふわりと翻るその様を、俺はじっと目に焼き付ける。
「もしすべてがうまくいったらさ」
「うん」
眼下を走る無数のヘッドライトが、ピントがずれたように滲んで見えた。
そのドラマでロマンなチックにきっと感化されたのだろう。
「俺の願いをひとつだけ聞いてくれないか?」
あまりに物語的なセリフを俺は秋の夜に吐いた。
木枯らしの冷えた空気は酒で火照った身体に心地良い。
「いいけど……」
橘は手袋を身に付けた両手の平を合わせたポーズをした。
「じゃあ、もしうまくいかなったから?」
「え?」
「そしたら私の願いをひとつ聞いてくれる?」
まるで俺の意図など見透かしているかのように、橘はにこっと笑う。
どんな仕草も、どんな表情も、飽きもせずに見惚れてしまう。
そうだ。俺は橘琴葉のことが好きだ。
だから、改めて橘と結婚したい。二番目ではなく、お互いに一番目として。
それが俺の願いであり、俺の望む未来だ。
すべてが終わったら、俺は橘にプロポーズをする。
*
5か月前。大学3年の夏。
私が一瀬と同棲を始めてからちょうど半年。短くも、濃い半年だった。
2年の冬に彼と偶然再会して。それからうちの両親に一瀬が挨拶しに来て。あの時は焦ったなあ。
あと一瀬がももかに告白するのを聞いてしまって。そこで私は自分の気持ちに気付いたのよね。本当、気付かなければ良かったのに。
春にはももかと楓を復縁させて。まさかハグがしたかっただけだとは驚いたけれど。契約解除の手続きもその時決めたのよね。
そして、朝比奈さんが現れて。私はこの生活を手放すのがこわくて、彼女に理不尽に当たってしまったりもした。彼女は稲藤くんを追いかけに来たっていうのにね。その稲藤くんには一瀬への気持ちが依存になりかけていることを指摘されて。
「はぁ……」
思い返すだけで頭が痛くなるような、けれどつい笑ってしまうくらい充実した半年だった。
しかし、稲藤くんの指摘は事実だ。私は人を信頼するのが恐くて、人と仲良くなれないままでいる。高校の時は、ももかや楓がいたけれど。今はもう、一瀬しかいない。
「どしたん? ため息なんかついて」
「何か分からないことでもありました?」
長く物思いに耽っていた私に、二人の女の子が声をかける。彼女たちは、同じカフェでバイトしている子たちだ。
そう、私は今更ながら新たにバイトを始めたのだった。
「いえ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃっただけ」
「まあ分かるよ。こんなけ客来ないとねむなるよねー」
そう気だるげに欠伸した彼女は、東大の修士1年生。つまり院生であり、バイトだけでなく学内においても先輩だ。黒髪をセンターで分けており、凛々しい印象を受ける。
「橘先輩は教職もあるから大変ですもんねー」
私を先輩と呼ぶ彼女は、同じく東大の1年生。しかし、彼女は入学早々からここで働いており、バイトとしては彼女の方こそ先輩である。アッシュの髪色に、ピンクのインナーを入れた今時のオシャレな髪型をしていて、軽音サークルで先輩にいつもちやほやされている。
最後のは私の勝手な想像だけれど。
「でも私は全然バイトとかしていなかったし、二人の方が両立していてすごいですよ」
私は頭をフル回転させて、無難な回答を出す。
『女子の会話は共感と謙遜と愛情表現で回るのだ。』
いつだったか一瀬がそんな謎の持論を展開させていたので、誠に不本意ながらそれを参考にさせて頂いている。
「でも
「いやいや、修士なんて別に気楽なもんよ」
「えー、そうなんですか?」
「理系は脳死で院に行く人も多いからな」
「あーたしかに」
二人の会話が私抜きに弾むので、こっそり胸を撫で下ろす。
会話とはこんなに難しいものだっけ。あとどうでもいいけれど、年齢的に上の人と下の人がいる時って、敬語はどうするのが正解なのかしら。
そんなことを今更悩むくらいには、私のこれまでの人間関係は乏しかった。
どこかでこんな話を聞いた。
自立するということは、誰の助けも借りずに、誰にも依存せずに生きていくことではない。多くの人や趣味などに、ちょっとずつ依存して生きていくことなのだ、と。
そういった意味で言えば、これまでの私は一瀬に自分を預けすぎていた。今日あった嬉しいことも、最近読んだ面白い本も、話す相手は全部一瀬だった。それではこの同棲生活を失うのを恐れて当然だ。
だから、私はこうしてコミュニティを広げて、依存先を増やすことにした。
一瀬ほど信頼できる人や、あのワンルームほど落ち着ける場所などそうそう出会えないことは分かっている。それでも、このままじゃ駄目だと分かっているから。高1の時、楓が励ましてくれたことを思い出して、こうして外の世界へ飛び出したのだ。
今日はバイトを始めてちょうど一週間。シフトがよく被る二人と会話する機会は多かった。実際に、業務について教えてくれたのも彼女たちだ。
正直なところを言えば、広げるコミュニティは同じ大学の人たちでない方が本当は良かったけれど、幸い彼女たちは同学年ではない。また、二人とも理系だ。いくら私の噂が文三で広まっていようとも、彼女たちは私のことなど知りもしなかった。
馬鹿真面目で、なぜか皆と距離を取っていて、サークルにも行事にも参加しない、次席合格の女。人生の夏休みを謳歌している人からしたら、さぞ嫌味に映るでしょうね。
だから、二人が先入観なく私に接してくれるのは良かった。今のところ、私もボロを出さずにやれている……はず。
とはいえ、同年代女子との会話はやはり難しい。再び二人の会話に自然に入り込むために、私は一瀬の三原則を心の中で唱える。
共感、謙遜、愛情表現。共感、謙遜、愛情表現……。
「私、11月の文化祭すっごく楽しみなんですよね! 先輩は?」
「共感……じゃなくて、ええ。私も楽しみ」
大学の文化祭なんて一度も行ったことはない。でも、この子たちとちゃんと仲良くなれたら、そういう普通の大学生っぽいことも経験できるだろうか。私だって、決して遊びたくない訳じゃないのだ。
「お、じゃー当日ちょっと3人で回ったりするかー?」
院生の紬さんがいとも簡単にそう提案して、私は感嘆する。その一言を発するまでに、私なら百の深呼吸は事前に必要とするのに……。
紬さんは、学部が別の大学だったからサークルも入っておらず、知り合いが少ないのだと付け加えた。
「え、全然いいですよ! せっかくなら何かイベント参加しません?」
「いいね、例えばどんなんが毎年あんの?」
「私去年行きましたけど、凄かったですよ。例えば──」
ポンポンと進んでいく高速で高度な会話に、私は徐々に目を回す。いえ、これはいたって普通の、常人が行う会話なのだ。きっと。
しかし、こんな簡単にスケジュール帳を見る間もなく、気持ちの助走もなく、イベント事が決定していくのは、私にとって未知の体験だった。いや、確かにももか達が予定を決める時はもっと急だったけれど、あれはもうそういうものと割り切っていたというか……。
いえ、負けてはいけないわ橘琴葉。地球だって今も猛スピードで回っているのに、それが当たり前じゃない。要は慣れればいいのよ。いざ、共感。謙遜。愛情表現。
「──あとはミスコンとかですかねー。先輩なんてスタイル良いですし、出てみたらどうですか?」
「へー、いいな。もし橘ちゃんが出たら絶対応援するよ」
「えっと、うん! そうね。今年は出てみようかしら……」
私は勢いでそう口に出していた。忌まわしき三原則が頭を渦巻いていたからだけではない。彼女たちが一緒に回ろうと提案してくれたことが嬉しく、私もちゃんと勇気を出してお返ししたいと思っていたからだ。
いやしかし、ミスコンに出るのは最悪いい。これまで二年連続で声をかけられては断ってきたけれど。多少は恥ずかしいが、それもまたひとつの人生経験だと割り切れる。
「あ、客来た」
「いらっしゃいませー」
気だるげな先輩の声に私も倣う。しかし、頭の中には一人の顔が浮かんでいた。
そう、気がかりなのは一瀬のことだった。
何度も言うけれど、私たちは二番目。
私は彼を好きになってしまったけれど、見かけ上はそういう契約だ。
だから何とも思われなくて当然だ。むしろ彼も応援してくれるかもしれない。それでも、どこかで気になってしまう自分がいた。
もし私がミスコンに出ると知ったら──
「──一瀬はどんな顔するんだろう」
メニューを手に取りながら、私は口の中で声をこぼす。
ヤキモチを焼いた彼のふくれっ面が頭を掠めて、思わず口角が上がってしまう私がいた。
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