211 この涙は隠したままで
「そもそも結婚って好きな人としなくちゃいけないのか?」
「いいえ! そんなことないわ」
「そうだよな?」
騒がしい師走の居酒屋。久々に会った異性の友達と意外な話で盛り上がった。
そんなどこにでもありそうな、ありふれた風景。
お互い酔いが回って、彼の頬もほんのり紅潮していた。あと、珍しくとろんとした目が少し可愛い。これは酔っても言えないけれど。
「好きって感情が嫉妬やら不安やらを呼び込むんだよな」
「それで相手をとっかえひっかえしてたら倫理的にもおかしいけど、そもそも自分自身が安定しないわよね」
「そう、ある程度信頼してさえいれば結婚相手に恋愛感情なんてなくたっていいはずだ!」
頭は冷静に私たちを見つめているけれど、私は努めて酔った気分になろうとしていた。
殆どお酒を飲んでこなかった私にとって、こんなにお酒を交えて話すのが楽しいなんて思わなかったから。
「って言っても、今や橘くらいしか信頼できる奴なんていないんだけどな」
しかし、どうやらお相手は本当に酔っているようだ。普段は言わないそんな恥ずかしいことを言うのだから間違いない。
「まあ、私も……一瀬ほど信頼している人なんていないけど……」
酔っていることになっている私も、お酒の力を借りてそう言った。
つくづく思っていたのだ。
好きな人なんかじゃなくてもいい、と。
信頼できる人が近くにいてくれたらどれだけ幸せか、と。
「……なら、結婚するか」
「別にいいわよ……?」
彼の言葉には心底驚いたけれど、私の口が勝手に返事をしたことにはあまり驚きはしなかった。
だって、社会は冷たいから。人間は思った以上に残酷だから。
信頼できる人なんてそうそうお目に懸かれないことを、私は知っていたから。
このまま彼を好きにならずに、死ぬまで彼と一緒にいたっていい。
そんなことを、この時は本気で思っていたのだ────。
・・・
「ただいまー」
腑抜けた声が玄関から聞こえて、私はゆっくりと深呼吸をする。
自分の愛するものを自分の手で殺めるというのは、なんておぞましい行為なんだろうか。
「琴葉ちゃん! 久しぶりぃ~!」
「ももか……」
私は一瀬の後ろから現れたももかの姿を見て、確信した。
「やっぱり、そういうことなのよね……」
あんなに頑なに想いを伝えようとしなかった一瀬が、確かに彼女に好きだと伝えた。
それを盗み聞いた時から、こんなことになるような気がどこかでしていたのだ。
「一瀬、おめでとう……良かったわね」
私はきっとロボットのように硬い笑顔を浮かべているだろうけれど。
それでも私は、一瀬がずっと前からももかを想っていたことをよく知っているから、ちゃんと祝福してあげたかった。
「おめでとうって……何が?」
「琴葉ちゃんどしたの?」
「ごめんなさい……私、あなたたちが電話してるの聞いちゃったの」
「えっ……?」
ついこの前好きだと気付いたばかりの私には、この結婚を続ける資格など到底ないというのに。
ももかの顔を見ると、こんなに胸が痛い。羨ましいという気持ちで、息が止まりそうになる。
「安心して。仮押さえしてもらってた新居は、ちゃんとキャンセルしてもらったから」
「なっ!? 待ってくれ、俺は」
良かった。これで、言うべきことは全部言えた。
彼の言葉なんて無視して、涙を流してしまう前に部屋を出てしまおう。
「だから待ってくれって!」
「放して!」
「……!!」
掴まれた彼の腕を思い切り振りほどいた衝撃で、ギリギリのところで堰き止めていた雫が目からこぼれていく。
「琴葉ちゃんごめん!」
「ひゃっ!?」
それでも出ていこうとする私を、ももかがぎゅっと後ろから抱きしめてきた。
腕をばたつかせても、彼女の力に私なんかが敵うはずもない。
「悪いのは私で! 楓と別れちゃったから、今日は一瀬に話聞いてもらおうとしただけなんだけど……」
「どういうこと……? 二人は付き合うんじゃないの……?」
私がやっと聞く耳を持ったので、ももかの抱擁からやっと解放された。
二人してこんなに必死に私を引き留める理由が、まだ私には分からないけれど。
「ううん違うの。私が楓のこともう好きじゃないなんて嘘ついちゃったからこーきは……!」
「待て、ちゃんと俺が説明する」
そこで一瀬がももかを手で制し、言葉を遮った。
「お前が出ていきたいのは分かった。でも、まずは俺の話を聞いてくれ。勘違いしたまま終わるんじゃ嫌だからな……」
「……分かった。ちゃんと最後まで聞くわよ」
一瀬の真剣な表情を見て、少しだけ私は冷静さを取り戻す。
あれこれ一人で考えて行動する前に、まずは彼の説明を聞いてもいいだろう。
「その、告白のことだが……電話で好きだと言ったのは本当だ。多分それを聞いてたんだよな……」
「ええ、そうね」
「でも今日春咲の家に行って、俺の好きって気持ちはもう『付き合いたい』っていう意味じゃないって気付いた。勿論好きになった頃はそう思ってたかもしれないけど、いつしか『幸せになってほしい』って意味に変わっていたんだと思う……」
「そっか……」
話の張本人が真横にいるにもかかわらず、一瀬は言葉を濁すことなく気持ちを伝えようとしてくれていた。それ故に私は何も考えず、ただ次の言葉を待った。
「そしてお前との生活のことも、今更気付いたことがあって……」
彼はより一層居心地の悪そうに、そう口にした。思わず私は息を呑む。
ずっとその『肝心な言葉』を望んでいたはずなのに、いざとなると少し胸が怯えたように縮こまるのが分かった。
「今の俺は……思ったよりお前との生活が気に入ってるらしい」
「へ……? どういうこと……?」
「だ、だから……この結婚を続けたいってことだ……」
「……うそ」
いや、嘘ではない。彼の赤らんだ顔も、照れ隠しで逸らした視線も、それを証明している。
それでも私は彼の言葉をにわかに信じられなかった。
「橘からしたらくだらないかもしれないけど、お前と競い合ったり、皮肉を言い合ったり、そういうのが今すごく楽しい。一緒に居て飽きないなっていつも思うんだ。何も喋らなくても一緒に居て、本読んで、ご飯食べて、勉強して、テレビ見て。……そういうのがお前とだと苦じゃないんだよ」
「い、一瀬……」
「『好きじゃない人と結婚する』って理論は信頼関係がないと成り立たない、って前に話したけどさ。本当は他にも同じ価値観とか金銭感覚とか相性とか、もっともっと必要なものがあって……でも、橘はそういう意味じゃこれ以上ない相手だと俺は思ってた」
「な、何よ急に……」
彼が話す間、私も顔を背けて必死に涙をこらえていた。
ここで泣いてしまっては、私の想いがバレてしまうから。
「悪い……。今まで言ってこなかった俺が言うのもなんだけど、お前はどう思ってたんだ……? もう、やめたいのか……?」
私は臆病で、この想いを伝えて関係が変わってしまうのが怖かった。
「ええ。もう懲り懲りよ」
「そっか……」
何より私はこの結婚が続くのなら、あの穏やかな日々をまた送れるのなら、一瀬と恋愛的な意味で結ばれなくたって全然かまわなかった。
「……なんてね、冗談よ。私が勘違いしていただけみたい。てっきりももかと付き合うのかと思ったから、さすがにこの結婚はおしまいかなって……てへ」
「そ、そうだったのか……本当、びっくりした」
「そりゃあ告白なんて聞いたらそう思うでしょう? まどろっこしいことしないでくれる?」
「ご、ごめん……」
私がいつもの調子で毒づくと、彼は些か納得のいかない表情で謝った。
やっぱり私に振り回されているあなたが一番……なんてね。
「でもね、今こうして少しホッとしてるくらいには、あなたとの生活は私も楽しかったわよ?」
「お、おう……それならよかった」
彼があからさまに恥ずかしがるものだから、私もなんだか恥ずかしくなってしまう。
あと、ももかにずっと興奮した顔で見守られているのも、本当に恥ずかしい。
「もう。私たちにはやっぱりこういうのは似合わないわね」
「そうだな……」
「ごめんねももか、私たちのことに付き合わせて」
「ううん! 元は私が悪いと思うし……でも、これでまた二人は一緒に暮らせるんだよね?」
心配そうに私と一瀬の顔を見比べるももかが可愛らしい。
低身長なのも相まって、さながら私たちの子どものようだ。それは違うかも。
「ああ、そうだな。新居のことはまた考えよう。しばらくはまたここで」
「そっか! じゃあ、仲直りの握手! しよう!!」
「「え!?」」
本当に子どものようなことを突拍子もなく言い出したのは昔と変わらないけれど、その内容は少し、なんというか……恥ずかしいものだった。
「べ、別に喧嘩していた訳ではないのだけれど……」
「はい二人とも、手だして!」
「そりゃ春咲は聞かないよなぁ」
一瀬はもう諦めた様子で、おずおずと右手を差し伸べていた。
よく考えれば、一瀬の手に触れるのは結婚して初めてではないだろうか。
「はぁ……分かったわよ……」
彼に合わせて私も右手を差し伸べる。そしてごつごつした男子らしい手が、私の手をそっと包んだ。
人と触れ合うのはあまり得意ではないはずなのに、肌の感触が妙に心地よくて、離したくないなと思いながら私たちは手を離した。
「じゃあ、まぁ、不束者ですが、よろしくな……橘」
「ふふ……こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いします」
お互いに頭を下げたとき私は、一瀬と久々に屈託なく笑った気がした。
またこんな生活が戻ってきたという安心感から、私はまたこっそり泣いてしまったけれど。今はまだ、それを隠しておくことにしよう。
いつかこの気持ちを伝えたくなる時が来るのだとしても。
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