207 アイロニックな愛とロジック


「あの……いや、な。この結婚って彼氏とかできたらどうなんのかなーって」


 一瀬がそんなことを不自然な態度で言っていた時から、何かおかしいなとは思っていた。

 けれど、きっと私はなんでもない応酬で安心していたのだろう。

 皮肉めいた言葉は愛情の裏返し。そう思えるくらい、私と彼との間には信頼関係ができていると、高を括っていたのだ。


 


   ・・・



「電話?」

「そうみたいだ。ちょっと外出てくる」


 一瀬がスマホの画面を確認した刹那、彼の瞳孔が広がるのが分かった。

 そんなに驚くような相手からの電話だったのかしら。いや、そもそも電話がかかってくること自体そんなにないだろうから、驚くのも当然かもしれないわね。なんて。


 置き去りにされた私は、一人で鍋とおひたしを黙々と食べていた。

 彼が無音は寂しいからといつも付けているテレビを、見るでもなく眺める。


「やっぱりご飯は一緒に食べた方が美味しい気がするわね……」

 

 偶然にも対照実験が行われ、その事実が証明されてしまった。

 いや、でも彼と再会する前はそんなことは……。


 なぜだか早く彼に戻ってきてほしいという気持ちが湧いてきたが、当の本人は十五分経っても帰ってこなかった。要件を伝えるだけの電話にしては長い気もする。

 少なくとも私は普段親や一瀬と電話をするとき、そんなに長い間することはなかった。


「稲藤くんと話が盛り上がっている……とか?」


 彼の交友関係から推測するとそれくらいしか考えられないけれど、それはあまり想像できなかった。もしや……女?


「……ふふ、私ったら馬鹿ね。それじゃ一瀬と同じじゃない。それこそ、もうすぐホワイトデーだし、あっちもサプライズを考えているのかも……」


 急に私は思い立って、キッチンに足を運ぶ。そういえば、さっきのカントリーマアムの宗教戦争の時、一瀬の態度がどこかぎこちなかった。

 あれが、サプライズのお返しの品を隠そうとしているのだとしたら……?


「もしかしたら私、和食伝道師より探偵に向いているのかもね」


 調子のいいことを呟きながら冷蔵庫を開け、食材やタッパーをどかしてみる。

 もしこれで見つからなかったら、おとなしく和食伝道師としてやっていくしかないけれど……。


「ふふ……ふふふ……」


 私の進路が決まった瞬間だった。私は探偵になれる。

 いやなれねえよ、とツッコんでくれる存在が今横にいないのが寂しいが、仕方ない。

 タッパーの奥にひっそりと隠されていた白色無地の包みを、思わず取り出す。


「中身が気になるけれど……やっぱりそれは当日のお楽しみにしておきましょう」


 バレていない設定にして、一瀬を泳がすのもまた一興。取り出したことがバレないよう、元の位置に包みを戻そうとすると……


「あら……?」


 奥に同じ包みがもうひとつあるのに今更気が付いた。

 自分用かとも思ったが、それならこんなに丁寧にラッピングするかしら。


「……」


 こうなってくると最初の推理も馬鹿にできなくなってきた。

 もし仮にそうだとしたら、私に彼氏ができたらこの結婚生活がどうなるかを尋ねたのも、別の意図が考えられてしまう……。


 私は心が穏やかでなくなるのを感じ、無性に居ても立っても居られなくなった。

 とりあえず真偽を確かめないと。


 この生活が始まってすぐ一瀬が作ってくれた合鍵を持って、音がしないよう扉を閉める。

 そして、まるで夜逃げする脱獄犯のように、忍び足で階段を下りた。下から一瀬らしき声が聞こえてきたのだ。


「……春咲だけだから」


 初めて鮮明に聞き取れた言葉に、私は驚いた。

 私の最初の推理が合っていたこともそうだが、何よりそのよく知った名前に。


「ももか……?」


 いつの間に連絡を取っていたのだろう。結婚する前からということはないだろうけど……。

 しかし、これであのもう一つの包みが誰のためのものなのかは明らかだった。



「俺が好きなのは、春咲だけだから」



 私はその事実をとっくの昔に知っていた。

 だから、その言葉にあまり驚きはしなかった。


 電話を切るようなやりとりが聞こえて、私は慌てて階段を駆け上がる。

 なんとか音を立てずにふたたび慎重に扉を開け、手を洗うべく洗面所に向かった。


「あっ……」


 私は鏡に映った自分の顔を見て、思わず絶句した。

 鏡の向こうにいる人物が大粒の涙を溜めていたからだ。その雫は、ひとつふたつと零れて私の衣服を湿らせていく。


「なんで……どうして……?」


 私はその事実をとっくの昔に知っていた。

 だから、その言葉にあまり驚きはしなかった────はずなのに。


 こんなにも胸が痛くて、こんなにも傷ついているのはどうしてなのか。

 その答えは火を見るよりも明らかだけれど、私は気付かないふりをしていたかった。



「ほんと、バカみたいじゃない私……」


 だってそうでしょう……?

 今更好きだと気付いたところで、もう一緒にはいられないのだから──。




 ねえ、私はとても楽しかった。幸せだったわ。

 あなたは、こんな結婚生活をどう思っていたのかしら。



 私たちはこれまで皮肉を投げ合ってきた。肝心な言葉を言わないのがむしろ美徳だとでも言うように。

 それなのに私が今一番その『肝心な言葉』を欲しいと願ってしまうことが、何よりの皮肉に思えて仕方がなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る