206 奥に包み隠した言の葉は
「うーん……」
日の暮れた夕方、俺は冷蔵庫の中身と睨めっこをしていた。
昨日の夕食の残りだったり、作り置きしてあるおかずだったりが所狭しと並んでおり、橘の主婦力の高さが伺える。
そしてそれらの奥に、昼間作ったばかりの大福の包みを隠してはみたのだが……。
「これはバレる……か?」
ホワイトデーまであと一週間もある。
橘には早めに渡すということも可能だが、春咲とは当日しか会わないので結局一週間隠し通さないといけないことには変わりない。
まぁなんとかなるか……。橘が風邪でも引かない限り、冷蔵庫が空っぽになることはないだろうし。うん、大丈夫大丈夫。
「ただいまぁ」
扉の閉まる音と共に、少し甘えたような声が玄関から聞こえた。
買い出しから帰ってきたうちの嫁さんはどうやらお疲れらしい。
「おかえり、持つよ」
出迎えて、橘の持つ重たそうなエコバッグに手を伸ばす。
彼女はいかにもわざとらしく、申し訳なさそうな素振りをした。
「悪いわね」
「よく言う」
目が「持ってくれない?」って言ってましたよ。
そんな橘が甘える時によく使う上目遣いにこうして応じるのも、日常茶飯事と呼べるまでには馴染んでいた。まぁ俺がいない間に買い出しに行ってくれていたのだから、この程度のお願いは可愛いものだろう。
「座ってろよ」
「ええ」
橘を休ませ、俺はエコバッグの中の食材を冷蔵庫に詰め込んでいく。
もう夕食時だし、昨日の残りもチンしておこうか。
「ご飯にするか? 昨日の残りだろ?」
「あら、今日は珍しく優しいのね?」
「俺はいつも優しい」
「面白い冗談ね」
確かに料理は基本的に片づけ担当で、気付いたら橘が用意している事の方が多いので、こんな風に自分から言い出すのは不自然だったかもしれない。
まぁ実のところ、例のブツを隠した冷蔵庫をあまり橘に見られたくないというのも大きいのだが……。
「あ、そういえばカントリーマアム買ったのだけど」
「ああ、買ってたな」
橘がお菓子を買うなんて珍しいなとは思っていたが、おそらく期間限定の抹茶味に惹かれたのだろう。冬だし冷蔵庫には入れていないが。
「ちゃんと冷やしてくれたかしら」
「えっ、冬だし溶けないからいいだろう」
「何を言ってるの? カントリーマアムは冷やして食べるものよ?」
「そんな常識ですけどみたいな顔されても。俺どっちかというとレンジでチンして食べるタイプだし」
「信じられないわ……宗教観の違いで離婚しましょうかしら……」
本当にカルチャーショックを受けているようで、橘は唖然としている。
そしてすくっと立ち上がって、俺のいるキッチンまで近づいてきた。
「一回食べさせれば分かるわ。あなたを改宗させてあげる」
そう言って、橘はカントリーマアムを取り出す。
まずい。俺は彼女の次の行動が分かり、慌てて冷蔵庫の前に立ち塞がった。
「わ、分かった。冷やしておく冷やしておく」
「何よ。それくらい自分でするわよ」
この距離で俺が代わりに冷蔵庫に入れるのは流石に不自然すぎるか……。
諦めて、ひやひやしながら彼女がカントリーマアムをしまうのを見守る。
「……やっぱり今日の一瀬は何か変ね」
「そ、そんな訳ないだろ。
「……そう」
どうやら大福の包みには気付かなかったようで、スタスタと居間に戻っていく橘。どうでもいいけど、なにもツッコまれないのは少し寂しいんですがそれは。
────チン。
「出来たみたいね。じゃあ、ご飯にしましょうか」
「ああ、そうだな」
昨日のキムチ鍋の残りと、小松菜のおひたしを机に並べ、手を合わせる。
最近はもっぱら鍋が多いので、大目に作って翌日にも食べられるようにすることが多いのだ。
「「いただきます」」
まずはおひたしに手を付ける。美味い。
橘は昔から和食を愛する大和撫子だが、作るのも上手だったなんて最初は驚いたものだ。
元々そこまで酢の物とか煮物とかが好きだったわけではないのだが、今ではすっかり虜になっている。ちょっと前までのカップ麺やコンビニ弁当ばかりの生活なんて、今ではもう考えられなかった。
むしろ身体が野菜や白米を食べたいと望むまでに、俺の食生活は変化したのだ。もちろん、変わったのはそれだけじゃないが。
「美味しい」
「ふふ、あなた小松菜好きね」
「橘に作ってもらうまでは食べたことなかったんだけどな。でも、これは美味しい」
「和食の良さを広められて嬉しいわ」
「橘は立派な和食伝道師になれる」
「ふふ……そうね」
冗談めいたなんでもない会話も、こんなに安心するものだっただろうか。
少なからず、俺はこの生活が気に入っているらしかった。
──それでも、この気持ちを「すき」と呼ぶ自信は俺にはなかった。なぜなら……
ブブ……ブブ……。
震えている音の発信源はどうやら俺のスマホらしい。
「電話?」
「そうみたいだ。ちょっと外出てくる」
俺は画面に表示された名前を見て、食事中にも拘わらず席を立った。
鍋が冷めてしまうとかそんなことは気にも留めなかった。
「もしもし。どうした? 春咲」
「こーき……いま大丈夫だった?」
「いや、全然構わない」
受話器越しのその声で、俺の胸は不意に弾む。心が躍ってしまう。
──なぜなら……この気持ちを「すき」と呼ぶのだと、俺はもう思い出してしまったから。
「どうしたんだ? 相談か?」
天賀谷との話は直接じゃないと話しづらいからという名目で、家に行くことになったはずだが。電話でも良かったなら、本当にアレが誘い文句ということになってしまう。
なんだか無性にドキドキし始めていたが、春咲の言葉は見当違いのものだった。
「ううん。ちょっと話し相手になってほしくて」
「そうか……。あんま長話はできそうにないが、それでもいいなら」
外に出た俺は、とりあえず階段を下りてアパートの前で話すことにした。
三月になったとはいえこの時間帯に外に長居するのは厳しい。それに、食事中に長時間席を離れるのはさすがに橘に怪しまれてしまうだろう。
「仕方ないなぁ」
「ったく、相変わらず勝手な奴め」
「ふふーん。それが私なのだよ」
「はは、知ってる」
急に電話を掛けてきたのは驚いたが、彼女は相変わらずの調子だった。普通ならあれこれ考えるが、俺はもう春咲の突飛な行動に理由や意味を見出すのをとうの昔に諦めていた。
それからは、お互いの近況や昔の思い出で盛り上がった。他愛ない会話をしているうちに、自分の心がどんどん過去にスリップしているような感覚に陥っていった。
────告白できなかったのが大きいんだろうな。
昼間の稲藤との会話を思い出す。あの頃は春咲と天賀谷を邪魔したくなくて、出来なかったけれど。今ならどうだろうか。
「そういえばさー」
「あ、悪い。そろそろ切らないと」
気付かぬ間にもう電話をし始めて20分も経っていた。さすがにちょっと立ち話にしては長すぎる。名残惜しい気持ちはあるが、そろそろ帰らないと。
「あ、そっか……。ごめんごめん。今日はありがとね!」
「……春咲?」
急に声のトーンを上げた直前、少しだけ彼女が寂し気な声を漏らしたのを俺は聞き逃さなかった。
それに気付かぬふりをして電話を切ってしまえば、本当は良かったのかもしれない。
「やっぱり……なんか無理してないか?」
「またそれー? もう! 君はずっと心配し過ぎだ!」
「……そうだよな。思い過ごしだったかもしれない」
「そんなに優しくしたら女の子はすぐ期待しちゃうんだから気を付けなよー」
しかし何年も募らせた想いは、諦めたつもりでも、やはりどこかで居場所を求めていたのだろう。あるいは、稲藤との会話が頭にちらついてしまったのもあるかもしれない。
「……春咲だけだから」
「え?」
「俺が好きなのは、春咲だけだから」
胸の奥にそっと仕舞っていた言葉は、脳の許可も取らずに勢いよく口から飛び出してしまっていた。
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