204 手も繋がずに肩を組んで
三月に入ったばかりの夕方は、まだ少し肌寒い。
西日がひとたび雲隠れすれば、上着をぎゅっと押さえつけたくなるほど空気はまだ冷たかった。
地下鉄の駅の出口の前で、棒立ちで待つこと十五分。やっとその待ち人は現れた。
「遅くなってごめんなさい。待ったかしら?」
もちろんその相手は橘 琴葉だ。ちなみに言うと俺の嫁。うん、二次元のオタクみたいだな。やめよう。
兎にも角にも俺たちは、二週間弱の帰省を終え、下宿の最寄り駅で待ち合わせしていた。
「いや? たった十五分しか待ってない」
「それは優しいのか優しくないのか分からないわ」
「多分優しい。超優しい」
「自分で言わないで。感謝する気失せちゃうから」
「元々無かったろうが」
「あら、そう見えた?」
何が可笑しいのか、くふふ……と笑っている彼女は、以前に見た時と何も変わらない。
いやまぁ二週間で何か変わる訳がないのだが。変わったとしたらむしろ────。
「もう暦の上では春になっちまったな」
「私たちも三年生ね」
「言うな。その言葉は俺に効く」
「そろそろ就活も考えなくちゃね」
「やめて……俺のライフなくなるから……」
のほほんと生きている大学生には耳が痛い話だ。
正直、自分がどんな仕事に就くのかまだ皆目見当がついていない。
「橘は何か考えてるのか?」
「それが普通でしょう」
こんなに「普通」という言葉が暴力性を帯びて聞こえるのは初めてです。はい。
それにしても、橘は一体何になりたいのだろうか。文学部と聞いてぱっと思いつく職種が俺にはあまりないのだが。
「ちなみに聞いてもいいか?」
「……学校の先生よ」
「へえ、意外だな」
珍しい職業でもないのに、橘は若干照れ臭そうに言った。
しかし橘は何故先生になりたいと思ったのだろう。今後の参考の為にも理由を訊くと、
「それは────内緒よ」
「さいですか」
彼女は何かをしばらく逡巡した後に、そうはぐらかした。
言いたくないことなら仕方がないので、それ以上の追求は諦める。俺たちは夫婦だが、あくまで恋愛感情のない打算的なものだ。立場はわきまえなければいけない。
────それが『2番目に好きな人と結婚する』ということだ。
「にしても寒いわね……」
「そうだな……」
下宿先に続く長い上り坂を、重たい帰省の荷物を背負いながら上っていく。乾いた空気が道端の落ち葉を運ぶのを見ると、まだ冬に取り残されている感覚がした。
寒さを凌ぐため、俺は手をポッケに突っ込み、橘は吐息で温めていた。彼女も昼はかなり暖かったから手袋はしてこなかったのだろう。
俺たちには、こんな時に手を繋ぐこともない。そういう関係なのだ。
「……なぁ」
俺には確認したいことがあった。それは、好きな人ができたらこの結婚はどうなるのか、ということ。
春咲が別れたということは、同時に天賀谷もフリーになったということ。
お互い叶わぬ恋をしているから全く考えていなかったが、その大前提はもう消え去ってしまっている。
────春咲ともし付き合うことになったら。
そんな妄想が頭を過ぎってしまったのだ。しかし、まだ春咲と会ったことを言うのはなんとなく躊躇われた。
なので努めてなんでもない雑談として、それとなく聞こうと試みる。だが、沈黙を破った俺の声は、緊張ですこし震えていた。
橘は、いつもとは明らかに違う俺の語り方に首を傾げる。
「……?」
「あの……いや、な。この結婚って彼氏とかできたらどうなんのかなーって」
「彼氏? 私に?」
「そ、そう。たまに大学で男の先輩に話しかけられたりしてるんだろ? もしそれで好きになったりとかしたら──」
「いやいや、ないわよ。確かに話しかけられることはあるけど、基本立ち止まらないもの」
う、ううむ。随分遠回りなアプローチになってしまった。これでは話の本意が伝わらない。
もし天賀谷と付き合えるのなら、彼女は付き合うのだろうか。いや、好きなら当たり前……か?
「それに、彼らと恋愛ごっこするくらいなら、あなたとこんな変な結婚している方が3ピコメートルほどマシよ」
「……はは」
そう憎たらしい顔で皮肉を言う彼女。俺はなんだか申し訳なくなって、余計に春咲のことを言い出しづらくなってしまった。それもこれも、彼女のアレが原因なのだが……。
・・・
話は帰省初日、彼女との再会の日に遡る。
「本当に懐かしいね! あの後こーきと一緒の委員会になったんだよね」
「そうだったなー。あの共催委員のお陰で高校楽しかった」
「だよねだよねー」
「本当、春咲には感謝してる」
「まったく、こーきは大げさだなぁ」
大袈裟なんかじゃない。あの日、春咲の気まぐれで同じ委員会になってくれたから。
天賀谷が入って、橘が入って。それから毎日4人で一緒にいるようになった。今振り返れば、あれはかけがえのない時間だったと思う。
「ホント楽しかったよねー。あー、あの頃に戻りたいな~」
そう笑顔で言った彼女に、俺は違和感を抱いた。俺が知りうる限りでは、彼女は子供のように今を楽しみ、そしてまだ見ぬ未来にわくわくしている人間だった。少なくとも、過去を惜しむような言葉を聞いたのは、今が初めてだったのだ。
「春咲……大学で嫌なことでもあったか?」
「えっ?! どして!?」
「いや、勘違いならすまん。でもお前、あんまり過去に戻りたいとか言わないだろ?」
「にゃはは……。ホントなんでもないよー、それくらい楽しかったってこと!」
この分かりやすく引きつった彼女の笑みを、俺は昔にも何度か見たことがある。
それは大抵傷ついてるのを隠そうとしている時で、そしてそれは大概……天賀谷に関係したことだ。
「……あ、あれ?」
刹那、笑顔の彼女の目から大粒の涙がぼたぼたと零れ始めた。
突然の事に俺は戸惑ったが、春咲ですら何が起こっているのか分からないといった様子だ。
「どうして……なんで止まらないんだろ……あは、ごめん。これはなんでもなくて……」
「なんでもなくないだろ!」
自分の大事な人が目の前で泣いていたら、どうだろう。
多くの人は力になりたいと思ってしまうものではないのだろうか。
「怒鳴って悪い……。でも春咲はいつも無理しすぎだ。俺じゃ助けになれるかは分からんが、話くらいは聞いてやれる」
彼女には返しても返し足りないほどの恩がある。
だから、この親切心には本当に下心の「し」の字も芽生えていなかった。ただひたすらに彼女がまた笑えるようになって欲しかったのだ。
「実はね……私、楓と別れちゃった」
長い沈黙の後やっと発した彼女の言葉は、俺の頭に強い衝撃を与えた。
それも当然。恋が始まった時から決して変わることのなかった前提が、今になってぶっ壊れたのだから。
「な、なんで……? あんなに仲良かったろ?」
「うん……そうなんだけどね……」
拭いたはずの目元からまた涙が流れて、それでも彼女はまだ笑顔を絶やさなかった。
「……私がふったの。もう、楓なんか嫌い! ……ってね。……だから、もういいの」
「……喧嘩でもしたのか」
「ううん、そんなんじゃないよ」
「春咲が自分で選んだんなら、それでいいんだけどさ……」
じゃあ彼女はなぜ泣いたのか。何に傷ついているのか。
俺はどうすれば彼女の力になれるのか、頭をフル回転させて考えていた。
「まあ本当に話聞くくらいしかできないけどさ。愚痴でも何でも俺は構わないから」
「えへへ……。こーきは優しいねー」
そう言って春咲は、酔っぱらいのように肩を組んで体重をかけてくる。その温もりと間近にある顔のせいで、こんな時なのにドキドキしてしまう自分がいた。
「じゃあ、今度話すからウチ来てくれない?」
「えっ?」
あまりに飛躍した展開に思わず耳を疑う。しかし、どうやら聞き間違いではないようだ。
普通に考えれば、これは俗に言う『誘い文句』であるが、春咲に限ってそんなこと────
「だめ……?」
「い、いや……全然……大丈夫です……」
この上目遣いにとどめを刺され、俺は彼女の家へ行くことになってしまった。
春咲は東京の専門学校に通っており、彼女もまた一人暮らしである。日程は両者の都合で、三月の第二土曜日と決まった。
この彼女との約束が後にとんでもない波乱を生むことになるのだが、この時の俺は当然それを知る由もなかったのである────。
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