115 春一番にさらわれて
俺は、橘琴葉のことが好きなのかもしれない。
そんな言葉が昨日からずっと、脳裏の奥でちらついていた。
「ではまたサイン頂いたら契約書をお持ちください」
「はい。ご丁寧にありがとうございました」
二月二十四日。
今日は千葉の実家に帰る日なのだが、その前に俺達には予定があった。
「それにしても、条件ぴったりの場所が見つかって良かったわね」
「そうだな。大学から遠くないし、セキュリティも厳重だしな」
そう、不動産屋だ。
あれから暇を見つけては二人で条件や要望を固め、それを基に何件か物件を見て回っていたのだ。
そして今日、ようやく意見を合致させ契約を交わすことに相成った訳である。
とは言っても契約書には親のサインが必要なので、まだ仮押さえという段階ではあるのだが。
「楽しみね」
「あぁそうだな。もうこれでお前に着替えを見られずに済む」
「そ、それはこっちのセリフよ!」
なぜだか悔しそうな目で不平を言う橘。
そろそろ憎まれ口の一つでも言いそうだったからな、こいつ。先回りだ。
「思考を読んでるの? 怖いのだけれど」
「そこまで言うなら憎まれ口のレパートリーでも増やしておいてくれ」
「……ふふ。そうね、私もこんな形であなたと意気投合なんて御免だもの」
「そりゃそうだ」
俺たちはどこまでいっても、皮肉的でシニカルな、斜め下の場所で息が合う。
そんな関係は変だし、おかしいし、俺だって「御免」だよ。
そう俺たちは言い合いながら、これまで一緒に暮らしていた。
────肝心な言葉を言わないのが、むしろ美徳だとでも言うように。
*
「じゃあ、またな」
「ええ」
二人の帰路が分かれる地下鉄のホームで、橘に手を振って電車に乗り込む。
世間はまだ平日の昼間ということもあって、乗客はまばらだ。
「あ、一瀬」
呼び止める橘の声に振り返る。「ドアが閉まります」のアナウンスと共に。
何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。
「風邪引くんじゃないわよ」
怒ったような表情に、優しい声。そしてドアが閉まる。
少しドギマギしつつも、俺は俺たちの在り方を思い出して────
「ふふっ」
────とぼけた顔をして、肩をすくめた。
彼女はいつも通り、クスクスと笑っている。
まもなく電車が発車し、その姿も視界の端に消えていった。
ガタンゴトンと、上下左右に揺れ動く地下鉄の騒音が響く。
吊り革に掴まりながらぼんやりと、真っ黒の景色を見るでもなく見ていた。
頭の中には先ほど別れたばかりの橘の顔。
昨日のモヤモヤのこと。
揺れ動いているのは、もしかしたら自分の心なのかもしれないなんて。
悩める俺を乗せた電車は、目的地まで迷うことなく進んでいく。
俺は、橘のことをどう思っているのか。この先、橘とどうなりたいのか。
……俺は明確な答えを持ち合わせてはいなかった。
「……にしても、暑いな意外と」
冬物の厚手のコートは、暖房が効いた車内では少しばかり蒸れる。俺はコートを脱いで、片腕にかけた。
これももうすぐ冬が終わるということの表れなのだろうか。
「もう三月だからなぁ……」
来たるは春。俺の一番好きな季節だ。
昼下がりのあのカラッとした爽やかな春の匂いを感じると、何でもできそうな気がしてくるのだ。開花直前の桜の蕾よろしく、期待で胸が膨れ上がっていく。
……そんな春が好きだった。
「次は学校前駅……、次は学校前駅……」
「学校前」の「学校」とは俺や橘が通っていた高校のことだ。
一応ここが、俺の最寄り駅ということになる。一応。
「なんか懐かしいなぁ」
母校の傍には一つの川が走り、それを田園が囲んでいる。
前回帰省したのがもうしばらく前なので、その心落ち着く風景に少しエモーショナルな気持ちにさせられた。
高校生の時は、この川に沿って自転車で登校したんだよな。20分ほどかけて。
そう、俺の最寄り駅は俺の実家に全然最寄ってくれていないのだ。
今日みたく自転車がない時はいつもならバスで帰るのだが、今日は少し風景をじっくり見たくなって徒歩で帰ることにした。少し遠いが、一時間もすれば着くだろう。
「それにしても川の流れはいつ見ても飽きないな」
「あれ? こーきだ!」
「え?」
俺を呼ぶ馴染み深い声が聞こえて、反射で振り向く。
それと同時に、強くも暖かい春一番が川を横切るように吹いて思わず目を瞑る。
「帰ってきてたんだ! こーき!」
「
そこにいたのは、声を聞き間違えるはずもない人物。
姿を見間違えるはずもない人物だった。
春咲 ももか。
────────俺がずっと恋焦がれていた相手だ。
「どしたの? なんか具合悪い?」
赤みがかった短い茶髪は、卒業後におそらく染めたのだろう。
彼女と会うのは約二年ぶりだった。
だが、その意思の強そうな瞳や、人に愛される少年のような屈託のない笑顔は、何も変わっていない。
「あ、もしかして私に見とれてた? えへへー、可愛くなったでしょ!」
「……ああ。本当に。びっくりした」
元々男勝りな性格の彼女だが、メイクもして服装も大人っぽくなり、ますます綺麗になっていた。思わずその姿にときめいてしまう。あの頃のように。
「……素直に褒めるなんて珍しいじゃん」
「す、すまん……」
その照れた表情で、また一つドクンと心臓が高鳴る。どうしてか、顔が熱い。原因不明の謎の高揚感に身体が包まれていた。
いや、違う。この高揚感を俺は知っている。忘れていただけだ。
……そうだ。そうだった。俺は、ずっと忘れていたのかもしれない。
これが「好き」って気持ちだった────。
俺と橘はお互いに二番目。ちゃんと分かっていたことじゃないか。
あいつに一番目がいるように、俺にも一番目がいた。それが彼女なのだ。
「それにしても、ここ来ると私たちが出逢った日思い出すよね!」
「ああ、懐かしいな……。本当にあれはひどかった」
「あはは、ごめんごめんって」
……そう。
ちょうど三年前の春、俺たちが高校二年生になる頃。
ちょうどこの川沿いの道で、俺は春咲に出逢ったのだ。
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