114 こんな日には溜め息を

 

「はぁ……」


 肌寒い真冬の朝に、温かいコーヒー……は飲めないので、緑茶を啜る。

 しかし今の溜息は、その温度が身体の芯に沁みた感慨からではない。


「はぁぁぁ……」

「どうしたのよそんなに重い溜め息ついて。幸せ逃げるわよ」


 リビングでニュースを見ていた橘に、文句を言われてしまう。


 そういえばこいつ、大学生のくせに何のバイトもしてないんだよなぁ……。いや大学生の本分は学問だけども。


「はぁ……」


 俺は橘の顔を見て、もう一度深い溜息をついた。


「もう! 人の顔見てはぁはぁはぁはぁしないでくれる?」

「なんか卑猥に言うのやめろ」

「そ、そういう意味ではなくて! とにかく何かあったなら言いなさいよ。明日の帰省の話?」


 俺と橘は明日から一週間ほど、千葉の実家に帰る。

 初めてこの生活に一旦のポーズが入るのだ。


「そうそう、明日から橘に会えなくなると思うと悲しくて悲しくて震える……ってそうじゃねえよ!」

「教科書通りのノリツッコミをどうも」

「うん。いや、まあ、だから……実はだな……」


 そう。

 今日俺がとんでもなく気持ちが重たいのには深いワケがあった────……。




「これからバイトなんだ」


「は?」


 橘がとても人にはお見せ出来ない顔をしているんだが、あれ俺なんかやっちゃいました……?


「バイトってあなた毎日のように行ってるじゃない」

「いやそうなんだけどね!? 今日のは特別長くて12時間もあるんだよ!」

「あー、確かにいつもは夕飯食べてから行くことの方が多いくらいだものね」

「夜型なのもあるし、一応学生だからな」

「ふーん。まぁでも長く働いただけお金が入るならいいじゃない」


 俺はその言葉に思わず肩をすくめる。

 これだから働いたことのない素人は分かってない。


「いいか橘。12時間といっても、うちの塾はコマ単位で給料が出るから間の休憩は金が出ない。だが、その間も生徒は教室にいて、控室も無いから俺たちはちゃんと応対もしなきゃいけない。スマホも触れないし、気の休まる暇もない。次の授業の準備とかもあるしな」

「はぁ……」

「そして俺はバイトで丸一日潰れるというのが何より許せない……!」

「へーそうなの」


 拳をわなわな震わせ、熱弁をふるったが、橘には響かなかったようだ。

 脳内では背に荒波がザッパーンと立っていたほどだったんだが。


「あっ。じゃ、じゃあさ。今日あなた何時に帰ってくるの?」

「バイトが22時までだからそのくらいかな」

「一度も帰ってこないのよね?」


 さっきまで全身で「どーでもいーんですけどー」感を出していたのに、なぜだか急に興味を持ちだしたのか質問を重ねる橘。

 

「帰ってこないけど……。え、お前もしや何か企んでる?」

「ええ!? どうして? 何もしないわよ!?」


 手も目も凄い動いてる。反復横跳びしまくってる。これは図星か……?


「おいおい。浮気みたいなことするくらいなら最初から言えよな」

「ち、ちがうわよ! 夫の帰る時間が分からないと料理作っておけないでしょう? ね?」


 首を傾げて全力であざとい顔をしているのが余計に怪しいし腹立つのだが、まぁあまりここで言っても仕方ない。

 もうバイトの時間も近づいているので、これ以上の詮索はやめるとしよう。



 ・・・



「じゃあ、いってらっしゃい。バイト頑張って」


 いつもは見送ることすら珍しいのに、今日はそれに加えて満面の笑みだ。

 というか俺には、ほくそ笑んでいるようにしか見得ないんだが。


「はぁ。いってきます」


 扉を開けてすぐに、俺は反射でポケットに手を突っ込んだ。

 道路の脇に生えた草が霜になっている。まさに冬の朝という感じだ。

 既にお仕事を始めているお天道様の光も、かなり控えめに熱を伝えていた。


「はぁ……」


 俺はもう一度、先ほどのように溜息を吐く。

 室内とは違って、それは白く染まって街に消えていった。


「まぁ本当に浮気だったら身を引くのが早まったと思えば……」


 そう、いつか来る日が今来ただけのこと。

 別に利害の一致で始まったような関係だ。別に今終わっても。


 いや、でも。

 それなら。



 ────なぜ、俺はこんなにモヤモヤしているんだろうか……。




              *




「疲れたぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 ようやく長時間のバイトが終わり、帰路についた。

 本当に朝から晩まで働いている人たちはすごいな。尊敬しかない。

 母さんにも感謝を伝えないとな。ちょうど明日から帰省するんだし。


「……まぁそれはそれとして」


 ずっと頭から離れなかった橘への疑惑は、俺の中で確信に変わりつつあった。

 授業中も気付いたら指導報告書に、橘とか浮気とか書いてしまう始末。始末書を危うく書かされるところだった。


 ────夫の帰る時間が分からないと料理作っておけないでしょう?


 とかなんとかあざと顔で言っていたが、よくよく考えてみれば……。


「いつも作っておいたのチンしてるじゃねぇか!」


 これは黒だな。完全に黒だな。

 いや。まぁこれでいいんだろうな。そしたらきっと橘のお父さんも安心して────。



 ・・・


 

 長い長い帰路を終えて、重い重い玄関の扉を開けた。

 玄関をぐるぐると見回すが、他の靴は見当たらない。何か変わった形跡もない。

 まだ隠す気満々ということだろうか。


「あら! おかえり」

「……」


 テレビの前でスマホを見ていた橘が、俺に気付いて立ち上がる。

 だが俺は自分の部屋にどこか変化がないか、目を向けていた。


「あの。あのね」

「なんだ?」

「言いたいことがあるんだけど」

「おう」


 俺は橘の声には生返事で、ずっと部屋の細かい部分を注視していた。

 椅子も特に動いていない。コップは洗ってないのがひとつ……か。いや、これはカモフラージュかもな。


「ちょっと! 人の目くらいちゃんと見なさいよ!」

「うお!?」


 顔を両手で思いっきり曲げられて、思わず声が出る。

 よそ見していた俺の顔は、橘の顔の前まで無理矢理導かれたのだ。いや、顔近いんだが。


「た、橘……?」


 橘の両手は俺の頬から離れず、わなわなと震えている。

 距離が近いせいで、彼女の吐息も聞こえる。それに加えて、若干頬が赤らんでいた。


「作ったわよ……チョコレートケーキ」


「え……?」


 橘はそう言うと、スタスタ歩いて冷蔵庫を開ける。中から取り出したのは、彼女が言った通りチョコレートケーキだろう。しかも豪華なホールだった。


「いや、え、お前、なにそれ。買ったの? 貰った、とか?」


「あなたがバレンタイン作れって言ったんでしょう!?」

「こんなすごいのをお前が!?」


 そういえば橘の家に挨拶行ったときに、「埋め合わせはチョコで」みたいな冗談を言った記憶が無きにしも非ず……って覚えてたの? 皆忘れてたよ? なにせもう二月下旬だし。


「え!? じゃあバイト行く前にやけに怪しかったのもニヤニヤしてたのも!?」

「そ、そうです……ってそんな怪しかった? サプライズのつもりだったのに……」

 

 照れるな照れるな褒めてない。

 ……いや、ていうか。なんだよそれ。


「ははっ、結果的にめちゃくちゃサプライズだっつーの」


 浮気とか連れ込みとか、散々疑ったのが馬鹿らしくなって腹を抱えて笑う。


「いやー、そうだよな。橘がここに男連れ込むわけないよな」

「そんなこと考えてたの!? え、私に常識が備わっているの知ってるかしら!?」

「悪い悪い、ちょっと疲れておかしかったんだ。確かに有り得ないよな」

「結婚とか以前に、人の家に勝手に誰かを呼ぶはずがないでしょう」

「ごもっともです」


 まぁでもそうだな。

 いつもこのワンルームに居て、お互いが何をやっているか筒抜けのここでは、サプライズで何か作るのも難しい訳だ。


「あれ?」


 ……ということは。



「悪い、ちょっと電話かけに外出てくる」

「はいはい」


 俺は慌てて稲藤に電話をかけた。

 来月の14日はもう帰省終えてこっちに戻ったらすぐ来てしまうのだ。


「あれ、どったの浩貴。そっちからかけるなんて珍しいじゃん」

「いや悪いんだけど、お前って下宿だったよな?」

「あ、うん一応ねー。なに、まさかウチ来たいの?」

「ああ。もし良かったらキッチンも貸してほしいんだが……無理か?」

「えっ……。え!? あの浩貴が料理!? 明日は雷だぁ!!」

「そういうのはいらん! 貸してくれないなら他を当たる」


 まぁ他に当てなんてないけどな……。

 ちなみに実家は絶対家族に見られて冷やかされるから却下だ。


「ふーん、まぁ面白そうだからウチ来なよ。大抵のものは揃ってるよ」

「本当か! それはありがたい」

「浩貴が琴葉ちゃんの為に手作りチョコ頑張るなら俺っちも一緒にやろっかな~」

「お前なんでそれを……まだチョコって言ってないだろ」

「あ? 当たってた?」

「ちっ、カマかけやがって……」


 俺はそのまま電話を切った。とにかくこれでいい。

 これで、お返しする算段は立った。


 温かい部屋に戻って、橘のケーキを戴くとしよう。


「誰と電話だったの?」

「えーと、稲藤。ちょっと成績の話思い出したから」

「ふーん。それより味はどう?」

「ちょっと待てまだ食べてない」


 ……にしても珍しいチョコレートケーキだなこれ。

 

 チョコが沁み込んだスポンジに、ホイップクリームとイチゴがサンド。

 上にもイチゴが丸々乗っかっていて、黒いショートケーキと形容してもいいほどだ。


「あ、美味い。めっちゃ美味いなこれ」

「良かった。あなた好みの味にしておいたのよ」

「どういうことだ?」

「ふふ、子ども舌が喜びそうな甘い味付けってことよ」

「ほっとけ」

 

 今日はからかわれても、あまり言い返せそうにない。

 こうしてフォークを口に運ぶのを止められないほど美味しいのだから。


「ふふ」

「なんだよ」

「ううん、美味しそうに食べるのね」


 ……はぁ。まったく。

 これにお返しするのはいささかハードルが高すぎる。

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