113 ただ、幸せになってほしいだけ
「た、橘」
「な、なにかしら。あなた」
昼飯を作り始めた橘に、俺はできるだけ優しく声をかけた。
「ナニカテツダオウカ?」
「イヤベツニダイジョウブヨ? ユックリシテテ」
「カ、カワイイオクサンヲホットケナイダロ、アハハ……」
どこか会話も笑顔もぎこちない。
それは俺たちの関係に溝ができた、とかそういう訳ではなく。
その原因は────
「おい、琴葉どうした。お前らしくもない」
俺たちの下宿を訪ねてきた、この橘のお父さんであった。
「もっと気楽に、いつも通りでいいんだぞ。その為にアポなしでもいいって言ったんじゃないのか? 繕った姿なぞ見ても仕方あるまい」
「はは……すいません……」
いや友達の親の前でいつも通りなんてできる訳ないだろ……。
なぜなら橘父は俺たちの結婚に懐疑的だ。下手なことをしたら、この生活が終わるかもしれないんだぞ……。
「ま、まあでもやれるだけどやってみましょうか」
「そうだな……」
・・・
「……」
「……?」
俺はデスクの前に腰かけ、橘はベッドで寝転がりながら、各々読書に耽っていた。
ふと彼女は自分がお茶を飲むついでに、「注いであげようか?」と目で訊いてきたので有難く頂戴する。俺は最小限、首を縦に動かした。
「はい」
「ありがとう」
そうしてお茶を受け取って、またそれぞれの本の世界に帰る。
暖房と窓を叩く風の音だけが、環境雑音として存在するだけの小さなワンルーム。
休日の静寂。
この時間がたまらなく好きなのだ。
無言なのに気まずくなくて、でも確かに誰かと一緒にいるという、この時間が────……。
「────って老夫婦か!!」
「うわっ、」
「あ、パパいたの」
そうだ。忘れていた。
ちゃぶ台の前で座っていた橘父は、ずっと俺たちのいつもの過ごし方を見ていたのだ。
あまりに没頭していたので突然の大声に身体が跳ねた。
「なぜ気楽にしろと言われたら読書になるんだ!」
「いや、でもこれがいつも通りなんですよ……」
「だから言ったでしょう? 友達みたいなものだって」
橘父もここまで見れば、俺たちが夫婦なんかとは程遠い関係にあることは分かるはずだ。
「いや……待て。友達? じゃああのお茶の受け渡しは何だ」
「何かおかしいとこあったかしら」
「さあ?」
きょとんとした橘に、俺も肩をすくめて返す。俺も至って普通の応酬だったと思うが。
「二人きりなのにめいめいで読書、そして無言のお茶入れ。完全に30年連れ添った夫婦の余暇じゃないか!」
「「え、ええ……」」
お父さんの熱心なツッコミに若干引きつつも、自分たちの関係が他人にはそう映っているのかと二人して驚いた。
もう三か月近く。こんな生活に慣れきってしまっていたから。
「若者同士の新婚がこんなほのぼのしているはずがない! うちですら──」
「パパ、変なこと言わない」
「だが……普通ならもっと……」
「だから普通じゃないんです、僕たちは」
俺は努めて冷静にそう言った。もう一度、男らしいペルソナを被って。
「……君はうちの娘のことが好きじゃないのかね」
「人間としては尊敬しています」
父親の戸惑いが滲んだ質問に、俺は間髪を入れずに返す。本人の前で恥ずかしいが、ここでペースを掴まれてはいけない。
橘父は何かをじっくり考え込むようにして、しばらく黙っていた。
「……琴葉」
しかし、しばらくして彼は顔を上げ言った。
「少し外に出てなさい」
「どうして? 嫌よ、これは二人の問題でしょう?」
お父さん……。
橘には聞かせたくない話ってことか……。
この人と二人きりは怖いが、俺も橘の前では言いづらいこともあるからな。
「悪い橘。夕飯の買い物行っててくれないか。外で待ちぼうけは流石に寒いしアレだろ」
「む……一瀬が言うならいいけれど。パパ変なこと言わないでよね」
そう言い残して、橘は部屋から出ていった。
難しい顔をした父親と、ちゃぶ台を挟んで一騎打ち、ということになった訳だ。
「……」
「……」
自分の家とは思えないほど、張り詰めた空気が流れて落ち着かない。
長い沈黙を先に破ったのは橘父の方だった。
「こんなことを父親の私が言うのは可笑しいかもしれんが」
「は、はい」
「あの子は立派に育ってくれた。私の自慢の娘だ」
それに関しては、俺も反論の余地はない。
少なくとも俺が見てきた橘琴葉という人間は、俺がずっと憧れ、追い抜きたいと思うような存在だ。それは今でも変わらない。
「だからこそ……月並みの言葉だが、幸せになってほしいんだ」
硬派な父親は、得てして愛情を言葉で伝えるのが苦手だ。
だが、その眉間に寄った皺だとか、慈愛に満ちた目だとかが、それが彼の精一杯の愛情表現だということを克明に示していた。
本人の前では絶対に言えないであろう、親の本音。
それは二十年以上橘を見てきた父親の本心なのだ。
まだ出逢って四年ちょっとの俺には、それを無碍になどできるはずもない。
だが出逢って四年ちょっとの俺だからこそ、その気持ちのほんの一部を汲むことは出来た。
勿論、これは親の一方的な押し付けかもしれない。
好きな人と結婚することがイコールで幸せという訳でも決してない。
それでも。
俺が橘琴葉の人生を背負うには、この関係では役不足なのもどこかで気づいていた。
「安心してください。僕だって琴葉さんに……幸せになってほしいと思っています」
結局のところ、お父さんだって本当は俺たちの言うことが全く理解できていない訳ではなかっただろう。
ただ、それを認めたくはなかったのだ。自分の娘のことを思うと。
「僕も、お父さんと同じ気持ちです……」
「そうか、ならいい」
お父さんはゆっくりと腰を上げて、帰り支度をした。
「またいつでも来てください」
「ああ、娘をよろしくな」
「はい勿論です」
静かに言葉を交わし、ただ言葉以上の何かを交わして、きっと真意は伝わったと思う。
もし橘に新しく好きな人が出来たなら、俺は潔く身を引こう。
俺は橘のことが好きじゃないのだから、それは当然のことだ。
……だけど。
「ただいまー、あれ、お父さんもう帰ったの?」
「おかえり。ああ、今さっきな」
「変なこと言われなかったよね?」
「ん? お前の小さい頃の恥ずかしい話とか沢山してたぞ」
「えっ!? 嘘でしょう?」
「まあ嘘だけど」
「なによそれ!」
思いっきり肩を叩きながら、彼女はくすっと笑う。
普通にかなり痛いけど、俺も笑った。
こんな風に、お互いに心地よくて、ちょうどいい。
────今はもう少し、このままで。
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