106 私、死んでもいいわ
彼女の髪を煽情的にかき上げた彼は、覆い被さるようにして首元にキスをした。
彼の舌は這うように上へ、そして彼女の口の中にねじ込まれていく。唾液が踊る音が響き、彼女の顔は蕩けていた。
人気のない校舎裏、彼はたまらず愛を口にする。
「リサ……好きだ」
……──おいおい。
今の恋愛映画ってこんな濃厚なシーンも挟むのか。いくら主演目当てのファンに需要があるからってなぁ……。
何より、カップルでもない男女で見てる俺たちは気まずくて仕方がない。
とはいえ、もうお互い成人もしているわけで、それなりに耐性もついている。この程度でドギマギするほど子供じゃない。
それはそれとして、だ。
俺は橘がどういう顔でこのシーンを見ているのか何となく気になって、チラと盗むように左を見た。
「「……ッ!」」
見事に目が合った。彼女も後ろめたさのある横目で、勿論お互いすぐ逸らす。
────結局ドギマギしてんじゃねえかよ……。
映画の内容は一言で言えば現代ロミオとジュリエット。貧乏な家庭に生まれた女子高生と、大手企業のイケメン御曹司のラブストーリー。
結ばれるはずのない彼らが恋に堕ち、逆境に立ち向かう物語だ。
おそらく少女漫画の実写化なんだろう。
「おっ、リサ。帰りか? それ持ってやるよ」
「えっ? いいよそんなの全然」
「いいからいいから」
「あっ……」
彼女の鞄を無理やりひったくった彼の手が、思わず彼女の手に触れ、二人そろって顔を赤らめる。
イケメン御曹司は自信家な割にかなりウブな性格をしているらしい。さっきドヤ顔で壁ドンキスしてたのは何だったんですかね、大人の事情ですかね。
多少のキャラ崩壊に目を瞑りつつ、「絵に描いたようなラブコメですなあ」と老人のような気持ちでポップコーンに手を伸ばすと、
「あっ……」
「わ、悪い」
同じく手を伸ばした隣人と衝突事故。同じく顔を赤らめる橘ヒロイン。
どうやら自分たちまでラブコメの空気に毒されているらしかった。
ニタニタにやにや。
そんな気味の悪い視線を右後ろから感じるが、死んでも振り返るものかと心に決める。
はぁ……。
後で嬉々としていじってくるであろう稲藤の顔が目に浮かんで嘆息した。
「もう私に構わないで……!」
「うるせえ! お前を幸せにするのは俺だって、もう決まってんだよ!」
そうこうしている間に物語はクライマックスを迎えていた。
運命に抗うのを諦め、彼から離れようとするヒロインを御曹司は強く抱きしめる。
大雨の中、愛を叫び続ける彼に、彼女の心は少しずつ希望に揺れ動いていた。
そして、彼と生きていく覚悟を決める。
どうやらこれはロミジュリと違い、ハッピーエンディングを迎えるお話のようだ。
「逃げよう、ふたりで」
「ええ。あなたとなら……」
彼女は彼の唇を塞ぐと同時にこう言うのだった。
「私、死んでもいいわ」
そうして二人を乗せたバスは街を抜けて走り出す。
ヘッドライトが延々と夜道を照らし、徐々に全ては暗闇に包まれた。
「……終わりか」
「みたいね」
真っ暗になったスクリーンには、主題歌と共にエンドロールが流れ出していた。
照明が付くのを待って、俺たちは席を立った。
*
「いやー、それにしても」
その後ショッピングモール内の喫茶店に立ち寄ることになった。
帰るには早いし、腹ごしらえも兼ねて、ということだ。
「あの映画、まあイマイチだったね~」
「誰が勧めた映画だと思ってんだ!」
座るや否やキッパリと言った稲藤に、思わず突っ込む。
そりゃ俺も橘もそう思ってたけど、気遣って言わなかったんですよ?
「まあいいじゃない。イマイチだったのは本当なのだし」
「あはは、琴葉ちゃんありがとう」
稲藤気付いてるか、それ全然フォローになってないからな。
「じゃあとりあえず注文しとこっか」
「私、このデニッシュケーキとコーヒーのセットで」
「やっぱ人気だもんねー、俺も~」
「じゃあ俺もそれで」
「なによ、皆それ? ていうか一瀬はコーヒー飲めないでしょう」
「確かに。浩貴苦いのも辛いのも駄目だもんね」
「……ごめんなさい、見栄張りました」
結局俺は、二人に爆笑かつ嘲笑されながらオレンジジュースを頼むことになった。
いや、オレンジとかビタミンCめっちゃ豊富だから。カフェインとかいう有害物質飲んで威張ってる人間に馬鹿にされる筋合いないから。別に羨ましくないから。
「いや~、後ろから見てたけどやっぱ普通のカップルにしか見えないんだよなぁ」
その後、頼んだケーキを三人で食べつつ、話は俺たちの関係に移っていた。
そういえば今日のデートの目的それだったな、忘れてたが。
「なんならこれから付き合いそうな甘酸っぱいピンクの雰囲気出てたよね」
「だ、出してないそんなもの」
「そうね。寧ろ今日の映画を見て、私たちの関係が恋愛とは程遠いものだと改めて思い知ったくらい」
「死んでもいいわって言ってたもんね~」
愛に生き、愛に生かされ、愛に死ぬ。
元々「死んでもいいわ」という言葉は、二葉亭四迷がとある小説の、yours(あなたのもの)にあたるロシア語をそう訳したことから、告白の返事として広まったものである。
結婚したからといって、俺たちはそれを理由に生きるわけじゃない。
俺は俺で、橘は橘だ。より一層そうであるために、俺たちは一緒にいる。
「言うならば、俺たちの結婚は今日買ったポップコーンと同じなんだよ」
「どゆこと?」
「ふふ、そうね。言い得て妙だわ」
首を傾げる稲藤に対して、橘は満足気に頷いていた。
「キャラメルとコンソメ。二つも食べられないけど、二つとも味わってみたい。そんなwin-winの関係の上に、私たちの契約は成り立っている。そういうことよ」
丁寧に補ってもらって稲藤は、「ふーん。なるほどねー」と手にぽんっと握り拳をついた。
「なら、前に軽薄な発言しちゃったことは謝んなきゃね。ごめん、普通にいい関係だね」
「分かればいいのよ」
腕を組む橘も、これにて一件落着とばかりに息を吐いた。
まあ、元々本気で俺たちの関係を疑ってた訳じゃなかっただろうけどな。
「あ、でもね。映画の恋愛が真実なんて思っちゃだめだよ。今じゃあんな恋愛してる奴の方が珍しいんだから」
寂しげに目を細めた稲藤は、窓の外を見ながら更に続けた。
「皆ああいう恋に憧れながらも、妥協と惰性の恋愛をしてる。じゃなきゃああいう映画は作られないさ。あんな
「稲藤……?」
唐突に真剣なトーンで話す稲藤についていけず、俺と橘が黙っていると、
「あ、やべ! ユリちゃんからめっちゃLINE来てる!」
しんみり一人語り出したと思えば、急にスマホを取り出して立ち上がる稲藤。
情緒不安定かコイツ。
「今日来るはずだった子か?」
「うん、ちょっと呼び出されてるっぽいから俺行くわ! 悪い、また今度な!」
そして、ぽつんと俺と橘が取り残された。
「なんだったのかしらね……」
「さあ……俺達もそろそろ帰るか」
「そうしましょう」
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