107 今夜は月が綺麗です。



 映画館を出ると、もうすっかり日は落ちていた。

 都会の喧騒から離れた静かで細い路地に、街灯が俺と橘の影を落としている。


 行きはバスで来た道を、俺たちはゆっくりと歩いていた。

 このペースだと家まで小一時間くらいはかかるだろうが、橘は大丈夫だろうか。

 しかし、そんな心配をよそに、彼女はおもむろに呟いた。


「私、アイスが食べたい」

「えぇ。珍しいな。別にいいけど」


 という訳でコンビニに立ち寄り、各々好きなアイスを買った。

 俺はチョコモナカ。橘はというと、

 

「真冬の雪見だいふくは絶品なのよ」

「橘のそれ何回目だ。しかも必ず風呂上がりで、だろ?」

「そうよ、だからこれは家までおあずけ……────」


 橘は途中で言葉を失い、空を見上げた。

 覆われていた雲が流れ、眩しい月光が差し込んだのだ。


「そうか、今日が満月だったか」


 朝から一月のウルフムーンが云々、と情報番組で取り上げられていた。名前の由来はよく分からないが、その輝きはひときわ強く、体感ではその大きさも別格に見えた。



「今日は月が綺麗だな」


「え?」 


 ……あれ、俺いま何て言った? 勝手に言葉が口を衝いて出てしまっていた。


「いや違うぞ!? ただ月に見蕩れていただけで他意も故意も恋もないぞ?」

「ふふ、知ってるわよ。私たちの結婚はそんなんじゃないもの」



 今夜は月が綺麗ですね。


 夏目漱石がI love you.をそう訳したらしいという都市伝説的な逸話から広まった、あまりにも有名な文句。

 俺たちの関係にはあまりにも不釣り合いな台詞。


 そう、これは両片想い男女のほのぼの的モジモジ的さっさと結婚しろ的なラブがコメる話などでは決してない。

 もしかしたら、稲藤の言うようにある意味都合のいい関係なのかもしれない。


「さっき見た映画もそうだったけれど、私たちには永遠に理解できそうにないわね。ああいう盲目的な恋愛」

「ははっ、確かに橘は心が冷たいからな」

「ちょ、なんで私だけなのよ。一瀬もでしょう」

「いいじゃないか、理性的で」


「そうね。私、『死んでもいいわ』なんて、死んでも言えないもの」


 ふっ、と思わず笑みが零れる。橘が誰かにそんなことを言う日が来たら、世も末というものだ。

 第三次世界大戦が勃発し、地震と台風が同時にやってきて、俺が人気者になるくらい有り得ない。

 うん、笑えないからやめて。なんなら大戦が一番起こりそうな世界やめて。


「それにしても、本当に綺麗ね」

「そうだな」


 真冬の夜空に佇む大きな満月は、深海に沈んだダイヤモンドのように仄かに周りを照らしている。それはまるで空が月の為に存在しているのかと錯覚するほどの美しさだった。


「この月は、一人で見るには勿体ないな」


 そうポツリと呟くと、隣の少女は何がおかしいのかクスクスと笑いこう言った。

 

「やっぱりもうアイス食べちゃいましょうか」

「え、お前それ一番やっちゃいけない犯罪ギルティ行為じゃ」


「望月にアイスなら、お風呂上りにも対抗できるわよ。ね?」


 今日一番の笑顔でそう言われちゃ、俺は許すしかない。

 というかそもそも俺は禁じてないが。


「まあ『もち』繋がりでいい感じだしな」

「え、どういうこと?」

「え? だから望月の『もち』とアイスの餅を掛けてて……」

「ふむふむ、それで?」

「いやだから……ってボケを説明させんな! 恥ずかしいわ!」

「ボケだったのね、つまらなさすぎて気付かなかったわ」

「おい待てコラ」



 月が照らす下、他愛のない会話をしながら、恋愛もない二人はアイスを片手に進む。


 そう、これは両片想い男女のほのぼの的モジモジ的さっさと結婚しろ的なラブがコメる話などでは決してない。

 もしかしたら、稲藤の言うようにある意味都合のいい関係なのかもしれない。




 でも、こうして並んで綺麗すぎる月を見ていると、こう思わずにはいられないのだ。



 俺たちはきっと、このままでいい。

 

 

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