104 倫理観バグ男とお堅い大和撫子(2)

 

 

 あの時もいなふじと昼食を済ませた後だった。

 ちょうど俺が橘と再会してすぐの頃。彼らは邂逅を果たした。



 ・・・



「えっ、噂の琴葉ちゃんだ! はじめましてだねー」

「誰かしら」

 

 稲藤が手を挙げて軽いノリで声をかけると、橘が冷ややかな目でこちらに説明を求めてきた。なんなら若干引いてるな。

 

「俺の友達の稲藤。倫理観バグ男だからあまり関わらないことをお勧めする」

「ええ、そうするわ」

「ちょいちょい! そんなに酷い他己紹介初めて聞いたんだけど?」

 

 橘は一切視線を稲藤に向けることはなく、あくまで無視を貫いていた。

 本気で嫌がっているというよりは、こいつなりの軽い冗談だろうけど。


「こういう軽そうな人、私嫌いなのよね」

「せめてこっち見て言ってよ!」


 あ、これは本当に嫌がってるかも。まあそんなことはどうでもいいとして。


「なんで稲藤が橘のこと知ってるんだ」

「え? なに言ってんのこう。琴葉ちゃんって、ミス東大のエントリーをずっと断り続けてたってことで有名人じゃん」

「そうなのか……?」

執拗しつこく勧められたのは確かね」


 そうだったのか。

 いかにも橘らしいが、全然聞いたことがなかった。確かに容姿は申し分ないとは思うが。

 そもそもミス東大とかいつやってたのだろう。

 

 これは、稲藤の顔が広いとか噂話に敏感だとかそういう次元ではないんだろうな。

 変なとこで俺が凹んでいると、稲藤は興奮したように犬みたいな顔を寄せてくる。


「え、てかお前知り合いなら紹介しろよなー。なに、どういう繋がり?」

「ただの高校の同期だ」

 今はわざわざ結婚の話は言わなくていいな。時間もないし。

「へえ~。ねね、琴葉ちゃん連絡先交換しよ~」

「ごめんなさい私スマホモッテナイノ」


 明らかな棒読みで橘は一気にまくし立てた。

 それが嘘だと明らかに稲藤に分からせ、そして絶対的拒絶を暗に伝えていた。

 だが、この男もハナから本気などではない。


「ははっ、琴葉ちゃんって面白い冗談言うんだね」

「あなたの冗談は面白くないわね」

「冗談じゃなくて本気なのにー」

「へえそうなの」

「へえそうだよ」

「……」

「……」



 ・・・



 相手のペースを乱せていない橘も新鮮だったが、突き放される稲藤は相当珍しかった。

 こんな会話をしていたこいつらが、仲良く話すことなんて絶対ないと思っていたのだが……────。


「そんでさ、こいつ同じ授業の子に名前忘れられてて!」

「この人存在感薄いものね、仕方ないわ」

「存在感も協調性も皆無なんだよ、こいつが俺以外の人と一緒に歩いてるの見たことないもん」

「ふふ、さすがね」

「やっぱ高校の時もそうだったん?」

「当時はそこまで重症化してはいなかったわ……どこで教育を間違えたのかしら」


「いい加減に……しろ!!」


 ────この盛り上がりっぷりである。

 

「なんで俺だけ叩くんだよ浩貴!」

「うるせえ、ぺらぺらと俺の虚無虚無キャンパスライフを暴露するんじゃない」


 居酒屋にて酒が入ると、二人は完全に意気投合。

 二人とも往年の付き合いである俺を差し置いて、俺の話に花を咲かせていた。その言い方は違うな。俺を馬鹿にして遊んでいた。


「でもあの頃から大人数の前では全然話さなかったわねこの人」

「あー、こいつそういうとこあるある」


 駄目だ、全然止まらない……。

 橘も酒弱いからなあ……こうなったら手が付けられない。 


 倫理観バグ男とお堅い大和撫子、絶対にそりの合わないはずの二人。

 こいつらの唯一の共通点を、恐らくこいつらも話していて気付いたのだろう。


 それは、『一瀬浩貴をからかうのは大好き』ってことだ。

 世界一暴かれなくてよかった真実である。


「でもあの頃は面倒見てくれた人がいたのもあって、そんなに浮いてはいなかったわよ」


「お前な! 言いたい放題言ってるけど、お前も面倒見てもらった側だからな!?」


 さすがに堪忍袋の緒が切れて、俺も反撃に講じる。

 そうだ。他人のことを散々言っているが、稲藤と違って橘は社交的なんかでは決してない。

 高校の頃、俺たち二人は同じ「手を引いてもらう側」だったのだから。


「お前こそキャンパスではどうなんだ? 友達とかいるのか?」

「う、うぅ……」

「そんな話全く聞いたことないが、お前弁当とか誰と食べてるんだ?」

「う、うるさいわね! 私は食事に集中したいタイプなの!」

「ならなんで今日来た! お前ホントはこういうの羨ましかったんだろ!」

「う、羨ましくなんて……!」

「おい言いすぎだぞ浩貴」

「いや数分前のお前らの方がよっぽど!?」

「それに美少女の孤高と童貞の孤高とを一緒にするなんてナンセンスさ」

「なんだその理屈!!」


 はっはっはと高笑いする稲藤に、ふふっと上品に微笑む橘。

 俺も毒を吐きながらも表情は緩んでいた。

 酒を飲みながら人と話すってこんなに楽しかったのか。あ、これ大学生っぽい。


 しかし、そんな頭の悪いハッピーな雰囲気は稲藤の一言で一変する。


「じゃ、お互い寂しいしもうお互いセフレになっちゃえーって感じ?」


「「は?」」


 唐突に飛び出した言葉に、脳が理解するのを拒否する。

 脊髄反射的に湧き出た嫌悪感には恐らく橘も襲われただろう。私たちはそんなに俗っぽいものに堕ちたわけではない、と。


「い、いやいや。お前の尺度で俺たちの結婚を測るな」

「そうよ、そんな汚らわしい関係じゃないわ私たちは」

「あーそうなの? ごめんごめん。二人ともそんな怖い顔しないで」


 にやにやしながら髪をかき上げる稲藤。銀のヘアピンが光り、余計に煽るような仕草に見える。

 やっぱりコイツ本当は俺たちの結婚を良く思っていないんじゃ……。


「でも好きじゃないんだもんね。あ、じゃあさ、デートしよーよ!」

「へ?」

「お、おい! お前恋愛感情がないからって仮にも人妻を口説くな!」

「違うって。デートに行くのは君たち」 

「「へ?」」


 俺たちがデートに行って、こいつに何のメリットがあるのか。

 理解できずにぽかんとしていると、稲藤がしたり顔で言葉は続ける。


「一応、二人の理論は一瀬から一度聞いたよ? でもやっぱりよく分かんなかったんだよねー。でも凄い二人の結婚には興味あるから」

「それなら何時間でもここで再三再四、不可説不可説転回だって説明してあげるわよ」


 いや不可説不可説転て……。大体10の37澗乗だっけ……? 

 多分話し終わる頃には地球が太陽に呑み込まれている。

 それにしてもだいぶ酔ってるな、橘も。こうなると橘も引かない性格だからなあ。


「言葉じゃなんとでも言えるでしょ? 二人はただでさえ頭がいい。弁も立つしさ。『理論上』に興味はないよ。君たちの結婚のリアルを見たいんだ俺は」

「見るったって、どうやって見るんだ」

「まあ、適当に女の子でも連れて二人の尾行デートでもするよ」

「おいおい……。いやそんな急にデートなんて言われても、なあ橘?」


 いや、しまった。決断から逃れるクセで橘に振ってしまったが、今のこいつは酒のせいで普段に増して負けず嫌いだ。


「いいわ! やってやろうじゃないの」

「う、ううん……ですよね」


 目の焦点がもはや定まっておらず、火照りやすいのか顔も赤い。帰りは肩を貸す羽目になるなこりゃ……。まあ、それだけ橘もきっと楽しんでるんだろうけどさ。


「セフレなんて言われて黙ってられないでしょう? ねえ一瀬!」

「まぁ、そうだな。俺たちの理論がそれで理解できるっていうなら安いものか」

「お、意外にすんなり。じゃあ気になるデートの内容を発表しちゃおうかな」

「お前が決めるのかよ」

「デートの内容はー、どぅるるるるるるる……でん! 映画デートぉ!!」


 ふ、普通だ────。


 こいつの言うことだからもっといかがわしいものも警戒していたが。

 それは実に健全な学生のデートプランだった。


「じゃ、これ使って」

「なにこれ」


 手渡されたのは二枚のチケット。トクベツカンショウユウタイケン・・・?


「実はさー、沢山それ貰ったはいいんだけどさすがに余っちゃって」

「え……まさかお前これを押し付けるために……?」

「てへっ☆」

「コイツ……」


 つまり、空気が凍りついたあの時間はとんだ茶番だったのだ。本当に稲藤の行動は理解不能すぎる。とんだ考え損だ。

 橘はいつの間にか俺の肩で寝息を立てていたので、おとなしくチケットは受け取ることにした。

 まあ、タダで映画見るだけなら寧ろいい機会だろう。友達と遊びに行くのと何も変わらない。


 結局その日はそこでお開きになり、眠気眼の橘を家までおぶって連れ帰ることになった。道すがら、背中にやわい体温を感じながら、俺は稲藤の言葉について考えていた。



 ────じゃ、お互い寂しいしもうお互いセフレになっちゃえーって感じ?



「そんなんじゃないはずなんだがな……」



 もうすぐ満月だというが、雲に隠れたソレは俺に光をもたらすことはなく。

 ただ黒の向こうでぼんやりと、曖昧に浮かんでいるだけなのだった。

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