103 倫理観バグ男とお堅い大和撫子(1)



 家の中の日常が変わっても、家の外の日常は何も変わらない。


 今日も遅刻ギリギリアウトで二限に出席をし、単調な教授の声を聴きながら夢の世界へトリップしそうになる日々だ。


 授業が終わり、ずっと隣で女の子とやりとりをしていた稲藤を、校舎の外へ連れ出す。

 日中とはいえポケットに手を突っ込みたくなるような寒さだった。



 我が東京大学のキャンパスには、レトロを基調とした建造物が多く並んでいる。

 観光客がよく写真を撮っている赤門、テレビでよく見る時計台、そしてレンガ造りの校舎は、大学の名に恥じない荘厳な構えをしている。


 なかには明治を想起させるような、旧字体で右から読ませる看板も存在する。そのくせ一歩足を踏み入れれば、自動ドアや監視カメラなど現代的なものが目立ち、入学当初はその外観とのギャップに甚く驚いたものだ。

 そして、誰もがこの大学に入れたことを誇りに思ったに違いない。


「はぁー、授業かったりぃ~」


 そんな威厳ある校舎に気だるげにもたれかかっているのがこのイケメンいなふじ そうだ。

 まあ丸二年も通っていれば、とうの昔に慣れというものはやってきて、あんなに鮮やかだったキャンパスも、もはや落ち着くほどの日常に変化する。それはまるで老けていくみたいに。

 

 とはいえ、稲藤は東大にそこまで誇りを持っていた訳じゃないだろうな。

 なにせ、こんな所に来てまで色んな異性といちゃついた生活をしているような奴だ。


「今日はどこにする」

「え~、こうの行きたいとこでいいよ」

「お前はそればかりだな」

 

 いつも午前の授業の後は一緒に昼食に向かうのだが、こいつの返事はいつもこうだ。

 自分で自分以外の選択をするのは、荷が重くて俺も苦手なんだがな。


「たまにはお前が決めろよ」

「え~、女の子なら喜ぶんだけどな~」

「はあ。じゃあ今日も中央食堂でいいな?」

「いいってばよー」


 気だるげな返事を気だるげに聞き流す。

 なんでもいいよと言いつつサイゼに連れて行くと文句を言う、そんな面倒な彼女みたいなことを稲藤がするわけじゃない。それならまだいいかと、俺は諦めたのだった。


 そんな他愛のない会話をしたりしなかったりしながら、神殿のような石造り、略して神殿造りの建物の間を抜けていく。

 昼休みということで食堂には人が溢れていたが、二人くらいなら席を見つけるのは容易かった。机に荷物を置き、注文をすべくカウンターに並ぶ。


「赤門ラーメンひとつ」

「あ、じゃあ俺もー」


 赤門ラーメンとは、禍々しいほどの赤い餡が目を引くうちの定番メニューである。

 見た目ほど辛くないので、辛味に強くない人でも安心して食べられるのがいい。

 逆に辛いもの好きは───


「浩貴はかけないの?」

「俺はそんなに得意じゃないからな」


 器の中に唐辛子をたっぷり投入した稲藤は、俺にそれを手渡そうとしてくる。

 いらないと俺が手振りすると、ホント舌はおこちゃまなんだから、と茶化してきた。

 ……ったく、余計なお世話だ。


「いただきます」

「律儀だねえ」

「そんなに褒めるな」

「ははっ。じゃ、いただきまーす」


 もやしや椎茸、人参そして挽肉など、具沢山のとろとろの餡。

 その最深部に眠るは、中細のちぢれ麺。黄色みがかかったそれを箸で外界に勢いよく出現させ、よく餡と絡めて食べるのだ。

 この喉ごしと餡の絶妙な塩加減が病みつきになる。

 実際、学外の人もこれを食べにわざわざ来るほどの人気ぶりらしい。


「あーかれえぇ!」

「そりゃあんなに唐辛子入れたらな……」

「でもそれがいい!」

「あっそ……」


 麺を啜り上げる稲藤の額には汗が滲んでいた。

 きっと身体の芯から発熱していることだろう。確かにこの季節にはぴったりと言える。

 

「そういえばさー、今晩3人でご飯食べない?」

「3人って……あと一人誰だよ」


 稲藤と俺の共通の知り合いなんて、ぱっと思いつかないが……。


「そりゃあ決まってんでしょ。琴葉ちゃんよ」

「は、はあ? なんで」

「そりゃあ新婚生活の話とか聞きたいじゃーん?」

「聞いても面白いものじゃないぞ」 


 稲藤にはもうとうに、俺たちの結婚がどういうものなのか既に説明してある。

 だから聞かせるような惚気話がないことくらい、こいつは理解しているはずなんだが。


「いや、普通の惚気なんか興味ないよ俺。浩貴クンだから聞いてんの」

「気持ち悪い言い方やめろ」

 

 ────はっ。もしや、稲藤。こう見えて実は俺が好きだったとか……?


 確かに最近、そういう展開のラブコメ見たことある気がする。

 しまった、秘めたる彼の想いを俺は気持ち悪いだなんて。


「ごめん、俺、お前の気持ちに気付けなくて……」

「いや、は? 俺っちフツーに女の子が好きだからね?!」

「だよな」


 半分冗談のノリだった。しかし、稲藤は綺麗な横顔でこんなことを言った。


「どっちかというと、お前以外の男が嫌い、の方が近いかなー……」

「え、それってどういう────」


「あら、一瀬」


 俺の言葉を遮って現れたのは、俺の嫁。

 嫁なら空気を読め。


 ……真冬のおやじギャグは致命的なのでこれから自粛しようと思いました、まる。



「おっ、いいとこに来たねー! 琴葉ちゃん!」

「相席いいかしら」

「もち!」

 

 典型的な和の定食をトレイに並べた橘が、俺の隣に座る。

 嫌なタイミングで稲藤と橘が鉢合ってしまったが、まあ橘も3人の食事なんて反対するだろう。彼らが出会ったのはつい先月のこと。そう接点もないはずだしな。


「琴葉ちゃんが食堂なんて珍しいね?」

「いつもは弁当作っているのだけど……一瀬の家にあまりに調味料がないから……」

「う」

「あははは! いいねー! 新婚感出してくるね~」

 

 腹を抱えて笑う稲藤。さてはコイツ、俺らの結婚をコンテンツか何かだと思っているんじゃないだろうか。


「砂糖すらないって何よ。卵焼きすら作れないじゃないの」

「まあコイツ全然料理しねぇからなー」

「うるせ、稲藤こそどうなんだよ」

「えー? 俺は女の子に作ってもらうことが多いから自分では作んねーな」

「この倫理観バグ男が」


 それは何人もの子が家に来て手料理を振る舞ってるということだろ。手料理どころかその女の子もご馳走になってるってことだろ。知らんけど。


「せっかくなら浩貴も琴葉ちゃんに作ってもらえばいいじゃん?」

「いや朝も夜も作ってもらってるんだ。そんなの申し訳ないだろ」

「あら。別にいいわよ? 大半は残り物で作るし、一人も二人も変わらないもの」

「ひゅーひゅー」

「大学で愛妻弁当なんて恥ずかしくて食えるか!」

「大学で結婚してる私たちが言えたことじゃないけどね」


 …………確かに。

 

「あー! そうそう、本題忘れてた! 今晩3人でご飯とかどうよ?」

「チッ」


 話が良い感じに盛り上がっていたので、忘れてくれたかと思ったが。 

 そう上手くはいかないらしい。

 でも、橘はきっと反対してくれるはず────


「いいんじゃない?」

「え?」

「私も大学での一瀬がどんなか聞きたいし」

「いやいやそんなんどうでもいいだろ。稲藤はお前を口説きたいだけだって」

「違うよ!?」

「もしそうだとしても、そこは夫のあなたに守ってもらえばいいでしょう?」

「う……」


 とても生き生きとした顔でそう言われては俺も言葉が出ない。

 

 なんでこんなノリノリなんだこいつ……。


 俺もそうだが、橘もかなり人付き合いはミニマムだ。仲のいい人間の誘いだって、気が向かなければ断ることもあるくらいなのに。



「案外、こいつら気が合うのか……?」



 かくして夜、俺たち3人は居酒屋に集まることとなった。

 そこから思わぬ展開になることを俺はまだ知らない。

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