102 いやもいやいやも好きのうち……?
「ごちそうさまでした」
鈴のような凛とした声がテーブルから聞こえる。
橘もようやく夕食を食べ終えたようだ。俺はすでに食べ終え、食器を洗っていた。
「じゃあそのへんに食器置いといてくれ」
「自分の皿くらい自分で洗うわよ?」
「いいよ、こっちは作ってもらってるんだし。そもそもそういう分業なんだからな」
橘は「それはそうだけど……」と申し訳なさそうにシンクに皿を置く。
しかし、置いた後もその場に立ち尽くしている。
「いや、座って待ってくれていいんだが」
「でもあなたは私が料理作ってるとき手伝うじゃない」
「そ、それは今日だからやってるだけだ。最初だし、なんか放っておくのもな……」
そう。橘は今月から、というか今日から俺の家に寝泊まりする。
元々彼女は千葉の実家から通っていたため、同棲を親に説明するのに時間がかかったのだ。というか、どうやって説得したんだろう。
「ほら! 新婚なんだから二人なかよく皿洗いしましょう?」
「好き合ってないのにラブラブ新婚カップルと一緒にするな!」
……ったく、ふざけてるんだか真面目なんだか。
まあでもこんなやりとりが、幸せだったりするのかもな。
「じゃあお風呂洗いしてくれるか?」
「まだどっちの担当かそういえば決めてなかったわね」
「まぁタイプ的には俺なんだが……」
「なに? タイプ?」
「いや、なんでも。とりあえず今日は頼む」
不思議そうな顔でお風呂場に向かう橘。
これから毎日、橘と同じ屋根の下でご飯を食べ、お風呂に入り、そして眠る。
「改めて考えるとなんか猛烈に恥ずかしいな……」
別に一緒に風呂に入る訳でも、一緒のベッドで眠る訳でもないのに。
大事なことなので何度でも言うが、俺たちは好き合っている訳ではない。
もちろん友情はあるし、長い付き合いだからライクの意味での愛情もきっとある。
だが、それでも。
俺たちは、お互いに二番目だ。
実は橘も高校時代に片思いをしていた。それは俺の好きな人の、彼氏だった。
まあ実際に付き合いだしたのは卒業の時だったけど、あれはもうほぼ付き合ってたみたいなもので。俺たちはただただ諦めるしかなくて、むしろ彼らの恋を俺たちは応援していた。二人であいつらを付き合わせるためのサプライズなんかも計画したものだ。
──そんな訳で、俺たちは未だに過去に縛られている。それでも、あいつらの幸せを願っているから、今こうして結婚なんてしているのだ。
俺たちは、
「入る? お風呂」
やっと皿を洗い終えた俺に、後ろから声がかかる。
腕まくりをして白い肌を見せる橘は、どことなく新鮮に映った。橘が必死に運動している姿など、見たことがないからな。
「もうお湯張ったのか」
「いや、今から溜める? って意味」
「結構もう遅い時間だしな。さっさと入って寝るか」
「そうね」
湯船が溜まる暫しの間、俺はテーブルを寄せて布団をカーペットの上に敷く。
これは、俺が冬期休暇の間に橘との生活に向けて買ってきたものだ。
・・・
「え? いや私が払うわよ。私のために買うんだからそれが道理でしょう?」
「いやいや。どのみち来客用に布団も一つくらいあった方がいいしな」
「この二年の冬まで必要なかったんだから要らないでしょう!」
「そんな寂しいこと言うな!!」
・・・
……とまぁ買うにあたってどちらが払うかでひと悶着あった布団である。すったもんだの末に、結局俺が払ったのだ。
そんなことを思い出しながら、俺はベッドにあった俺の枕を布団に載せる。そして、同じく買ったばかりの枕をベッドに載せた。
「ちょっと」
「ん?」
「どうしてあなたが布団なのよ」
「いや、そりゃ女子はベッドの方がいいだろう」
単なる気遣いだったが、当人の橘は眉間に皺を寄せてむすっと口を結んでいる。
布団購入の時もそうだったが、俺が気遣うたび何がそんなに不服なんだ。
「何よその男女差別。このご時世よ、世間に叩かれたいの?」
「いやむしろ賞賛されて然るべきだろ。客を床で寝かせるのは気が引ける」
「私はもう客じゃなくて妻でしょう? はい論破ね」
……普通の新婚夫婦は別々で寝ないんだよなぁ。
とは、さすがに口に出さない。言っても不毛だ。何より恥ずかしい。
「いや、でもやはりこの時代、妻を床に寝かせるなんて良くないよな。世間に叩かれてしまうなあうんうん」
「くっ……。私、この新しい布団で寝たかったのだけれど? 凄く楽しみにしていたのに、それを奪い取るなんて最低ね……。可愛い奥さんを二年自分が使ったベッドで寝かせようなんて……」
「俺のベッドが汚いみたいに言うな! ちゃんとシーツ洗ったんだぞ」
……ったく、なんだよこの論争。さながら小学生の屁理屈大会だ。
俺は呆れ返ってため息を吐き、枕を元に戻す。
「……ったく、そこまで言うなら布団で身体バキバキになっても文句言うなよな」
「ふう、さっさと負けを認めればいいのよ」
「はいはい、全く橘は子供だな。俺は大人だから勝ちくらい譲ってやるよ」
「う、むう……」
返す言葉がないのか、橘は頬を若干膨らませ口を堅く結ぶ。ぐぬぬという声が聞こえそうだ。
大人びた雰囲気の橘だが、やはり俺には幼い子供にしか見えない。確かに出会った頃は、冷たい奴だなんて思い誤ったこともあったが、その時の俺にこの橘を見せてやりたい。
しかしまぁ毎度毎度、俺たちがこんな風に言い合うのも、気遣っていることをはっきりと伝えるのがただ恥ずかしいだけだったり。長い付き合いの友達に優しくするのが照れ臭いだけだったり。
だからこんなやりとりもまた、幸せだったりするのだろう。
────ピロン。
「お風呂が沸きました」
お馴染みの機械音が、湯船が溜まったことを告げる。
俺はそれを聞いて、新品のバスタオルを橘に手渡した。
「お、じゃあ橘先入っていいぞ」
「いや、一瀬こそ先いいわよ?」
「いやいや……ってもうええわ!!!」
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