第1章

~2020 Winter~

101 穏やかで刺激的な日常

 あれから一か月。新しい年を迎えた睦月の朝。


 俺たちの共同生活は、ようやく本格的に始まろうとしていた。



 結婚は好きな人同士がするものだ。

 そんな前時代の固定観念に囚われない合理的で理想的な生活が、これから始まるのだ。


「私の荷物まで持ってくるとかなり狭いわね」

「まぁ、ワンルームだからそりゃあな」


 改めてご紹介しよう。

 いくつもの段ボール及びその中身と格闘、俗に言う荷解きをしているこの女性がたちばな こと。俺の妻だ。ちなみに、籍は入れていない。在学中に名字が変わると色々面倒なので事実婚という形で合意と相成ったのだ。


「一瀬」

「どうした、橘」


 そして彼女と俺、一瀬いちのせ こうは高校以来の友人ということで、夫が妻に名字で呼ばれるなんて不可思議な現象が生まれることとなった。いまさら名前呼びなんて恥ずかしいからな、お互い。

「この食器とかコップとかどこに置けばいいかしら」

「そんなのまで持ってきてたのか」

 どおりで荷物が多い訳だ。橘はメイクも殆どしないから、何がそんなにかさばっているのかと思っていたが。

「あなたが全然料理してなかったから、ここ全然皿ないのよ? 知ってた?」

「カップ麺や総菜食べるのに皿って殆ど要らないからな」

 当然のような顔でそう言うと、橘が呆れたようなため息をつく。

「この結婚で、あなたはかなり健康になりそうね」

「頼んだ奥さん」

「勿論、あなたにもしっかり働いてもらうわよ」

「分かってるって」

 俺は掃除と洗濯を主に担当する。あと皿洗い。……水タイプかな? あー、だから料理できないんだ俺。ほら、炎タイプとは相性悪いから……いや何でもないです。


「で、どこ置けばいいのよ」

「あー、そこの下の棚に適当に入れといてくれ」

「じゃあその段ボールの中身出してもらえる?」

「ああ、分かった」

 

 言われた通りに、俺は指示された段ボールの封をカッターで切り開く。中身は橘の洋服だった。ワンピースやらジーンズ、スウェットなどが丁寧にたたまれている。

 あれ、そういえば。


「お前ってどこで着替えるか考えてる?」

「私は別に見られても気にしないけれど?」

 えっ……。い、いや待て。ここで動揺したら橘の思うツボだ。こいつの大好物は、和菓子と動物と赤面して慌てふためく人を見ることなのだ。ここはひとつ、冷静に。

「いや、お前、それはぴちぴちの女子大生としてどうなんだ」

「そうだけど。一瀬のことは信用してるもの。どうせ堂々と見る度胸もないってね」

 こいつ……。言わせておけば……。

「堂々と見る度胸だと? 堂々と見るほどの胸もない癖に」

「なっ! セクハラなんてサイテーね」

「どっちが先だ!」


 両腕で自分の身体を覆い隠す橘を横目に、俺は嘆息しつつ荷解きの作業に戻る。棒読みで「きゃー」というアルトの声が隣から聞こえてくるが、一貫して無視だ。


 実際、最初に動揺した通り、彼女のスタイルはとても魅力的だ。そもそも橘は友人の贔屓目なしに、普通に美人なのだから。胸こそ控えめだが女子にしては身長も高く、きめ細やかな白い四肢がすらっと伸びている。

 普段は意識などけしてしないが、着替え姿なんて赤の他人でもドギマギする。一般男子大学生(童貞)ならそれが当然というものだ。

 

 確かにこんな事態は、お互いが好き合っていれば生じない訳だが。まぁ、この程度の問題は想定内だ。幸いこのワンルームには脱衣所がついている。着替えはそこで済ませればいい。

 俺たちの新理論に一つとして綻びなどないのだ。

 二番目に好きな人と結婚する。それが、俺たちにとっての最適解。


「あっ! ちょ、ねえ!」

「え?」


 無心で黙々と洋服を収納していた俺を、橘が珍しく顔を真っ赤にして呼び止める。

 何事かと思って自分の手元を見ると、俺が今まさに手にしていたのは黒のパンツだった。


「あ……。意外と大人っぽ



 ────バチン!!



「……」

「……」


 それから。

 結局ふたりとも顔を真っ赤にしながら、沈黙の中でひたすら作業を続けた。

 橘の赤面と俺の右の赤面は羞恥によるもので、俺の左の赤面は腫れによるもの。細い腕の割にかなり効いた。親父にも叩かたことないのに。ないからか。


「なぁ……」

「何よ」

 空の段ボールを畳む橘は、こちらも見ずにぶっきらぼうな声を返す。

「さっきは悪かった。ごめんな?」

「いや、下着入れてたの忘れて任せた私も悪いし……」

「おう……」


 気まずい空気が狭い部屋の中を漂う。

 合理的? 理想的? ましてや最適解? ちゃんちゃら可笑しいな。

 俺たちが選んだ日々は。間違っていたのだろうか。


 俯いた気持ちで狭くなった部屋をぼんやり眺めていると、橘の肩が微かに揺れていた。


「橘? 大丈夫か?」


 俺が恐る恐る声をかけると、彼女の口は緩んでいた。


「ふふ、これから楽しい日々になりそうね」

「え────」


 俺が唖然としていると、カーテンの隙間から柔らかい陽が差した。

 その光はゆっくりと俺の身体を温めていく。


「ちょっと。何きょとんとした顔してるのよ、可愛くないわよ」

「いや、一緒に暮らすのとかやっぱ厳しいか、とか考えてたから……。あと可愛いさアピールしてる訳ないだろ」

「ったく、あなたはいつも諦めが早いのよ。こういうことも共同生活の醍醐味でしょう? 初めから完璧を求めすぎるの、あなたの悪い癖よ」

「橘……」


 ……はは。こいつは俺より俺を理解してそうだ。まるで、心の裏側まで見透かされているような。そんな気すらしてくる。でも、それがなんだか嫌じゃない。どこか暖かい。


「そうだなこれからゆっくり時間をかけて、俺たちの生活が最適解だって、証明していけばいい」

「ええ、そうね」



 穏やかに、時に刺激的に、ふたりの時は進んでいく。


 ひとまずはこの日常を、有難く享受するとしようか。



 

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