003 そしてこれは再び色づく物語


「私とぶつかった時そんなこと思い出してたの」

「最近高校のことよく思い出すんだ」


 俺は再会した高校時代の親友、たちばなことと居酒屋に寄って、思い出話に花を咲かせていた。彼女も同じく東京大学に通っている。そして俺の好きな人の親友でもあった。当時、俺たちはいつも一緒に行動していたのだ。


「にしても、今まで会わなかったのが不思議だな」

「そうね。まさか二年間でひとつも授業が被らないなんて」

「一回くらいは会っても良かったよな」

「それもそうね」


 学部が違うとはいえ、授業が被っていないとはいえ、かつては毎日一緒にいた仲だ。

 同じ大学に通っているのだから、そんな機会があっても良かったとは思う。 

 しかし、高校卒業以来それはただの一度もない。

 あの頃からずっと俺や橘は受け身だった。いつも彼女に手を引かれ、俺たちから何かしようと誘ったことは殆どなかったのだ。


「受け身と受け身じゃ会おうなんてならないか」

「だから神様が世話焼いて巡り合わせてしまったのね」

「〝しまった〟じゃなくて〝くれた〟でいいだろ……」


 まあでも確かにすごい偶然だ。

 噂をすれば影が差すとは言うけれども、俺はただ回想をしていただけだ。

 しかもどっちかというと……。


「こっちの影ではないんだけどな……」

「あの子じゃなくて悪かったわね」

「う」 


 完全に見透かされていた。橘が色素の薄いつり目で睨んでくる。

 そういえばこういうやつだった。もう随分会っていないはずなのに、全く変わったように見えない。

 肩の下まで伸びた淡い茶髪も、女子にしては高い背も、薄くて華奢な身体も。

 無感動に喋る雰囲気も、気の強さを感じるようなオーラも、懐かしいほど同じだった。


「こんなやりとりも懐かしいなあ」

「二人で話すといつも皮肉大会みたいになるんだから。嫌になるわ」


 そういう橘も、どこか嬉しそうな顔をしている。

 実を言うと俺も、こんななんでもないような応酬を楽しんでいた。

 久々に素の自分で話せている実感がした。この安心感が懐かしいとすら思った。


「随分と飲むのね……」

「え、あぁ……」


 話が盛り上がっていて気付かなかったが、もう梅酒を三杯も飲み干していた。

 酒には強い方だが、普段は殆ど飲まないのでちょっと頭がふわふわしてきた気もする。


「まあちょっと、さっきの飲み会で色々あってな」

「なに、もしかして私と会う前にも飲んでたの?」


 さすがに意外だったのか、じっとこっちを見つめて尋ねてくる。


「いや、普段は全然飲んでないけど。さっきの飲み会で、本当に始まってすぐで抜け出してきて」

「どうしてか聞いてもいい?」

「愚痴みたいになるけど」


 橘が配慮して確認してくれたので、俺もしっかり前置きしておくことにした。

 四杯目の梅酒を一口飲んでから、橘に尋ねる。


「構わないわよ。一瀬の愚痴は面白そうだし」

「なんだよそれ」


 やけに上から褒められたが、こんなのも慣れたやりとりなので、俺はさっきの凄惨な飲み会の話をした。自分が駄々スベリしたことだけは言わなかったが。

 嘘はよくないことだが本当を全て喋る必要はないからな。かいつまんで話すのは大切だ。


「まあ東大とはいえ大学生の恋愛なんてこんなもんかーってな」

「わかるわ!」

「お、おおう」


 彼女が息混じりの声で、共感を滲ませる。しかもその場で立ち上がっていた。

 こんなに感情的になる橘は珍しいな……。


「ってお前、俺の梅酒飲んでるぞ!」

「……あら」


 よく見たら彼女の白い肌も少し紅潮していた。彼女はどうやら酒が弱い体質らしい。

 眼だけキリっとさせ、熱心に拳を握っていた。


「ちょっと喉が乾いたの」

「まあ、ならいいが……」

「それに少し私も愚痴りたくなったからちょうどいいわ」


 そう言うと、彼女も果実酒を注文した。ふらふらになったりしたら、と一瞬心配したが、しっかりした橘には余計なお世話か。


「文三はチャラい人が多いって聞いていたけれど、本当に浮ついてるわ……」

「そうらしいな、髪染めてる人も多いとか」


 彼女の言う文三とは、文科三類のこと。東大は入学時に学部ではなく科類ごとに学生を募集しているのだ。ちなみに俺は文科一類に所属している。


「ええ、みんな本当に〝パラサイトラバーズ〟って感じよ」

「そんなパラサイトシングルみたいに言うな」

 

 パラサイトシングルとは学生でないにも拘わらず実家で親と同居する独身者のことだ。パラサイトは寄生という意味なので、『恋人に依存している人たち』という橘の皮肉だろう。

 確かに、心の安定を求めて常に恋人の存在を欲しているような人たちは、高校まででもたまに見かけてきた。しかし、俺の理解の範疇ではない。


「ほんと、情けない話だよな」

「そうよ。もう私たちは自立しなければならない年齢でしょう?」

 

 そう言って力強くジョッキを机に叩きつける。筋肉も脂肪も乏しい橘の白く細い腕では、大して振動が起きることもなかったが。でも、珍しくご立腹なようだ。


「確かに。それでいて経験人数を自分のステータスだと勘違いしてたりな」

「そうよ。付き合った人数だか、突き合った人数だか知らないけど、言うならばそんなもの、恋に失敗した数でしょう」

「間違いない。離婚数をバツで数えるんなら、ツキ合った人数もなんか負の記号で表せばいいんだ」 

「それいいわね! ……あ、でも」


 賛同したと思えば、急に何かに気づいたように声を上げた。

 俺は首を傾げて続きを促す。


「ゼロはゼロである意味マイナスかしら……」

「まあ、そうかもな……」


 橘が肩を落としているところなんて滅多に見ないので、どう対処すべきかに迷った。

 確かに、橘に交際経験がないとは前々から知っていたが、それは彼女の欠点故にというよりは、強み故にだと俺は思っている。だから橘の場合マイナスにはならないと思うが、口には出さなかった。


「お前も彼氏欲しいなんて思うのか」

「んー、そういう訳ではないのよ。でも、やっぱり子供とか憧れるじゃない?」

「まあ」


 正直、俺にそこまでの子供願望はなかったが、橘が言いたいことはきっとこの先なので、とりあえず同意の相槌を打つことにする。


「働きながらも、温かい家庭は持ちたいわ」

「橘に母性本能があるのは意外だった」

「そう? 私、結構子供好きよ」

「じゃあ相手見つけなきゃだな」

「はあ……。彼氏とかはいいからもういっそのこと、夫が欲しいわ」


 マリアナ海溝よりも深そうな溜め息と一緒に橘が願望を呟く。その言葉は現実離れしているかもしれないが、俺には突飛なものに聞こえなかった。そういう気持ちが最近俺の中にもあったのかもしれない。


「心が帰る場所は必要だよな」

「そうなの! 恋愛はしたくないけど結婚はしたいのよね」

「そもそも結婚って好きな人としなくちゃいけないのか?」

「いいえ! そんなことないわ」

「そうだよな?」


 この時すでに、俺と橘は完全にアルコールが回って出来上がっていた。

 ただしかし頭の回転はフルスピードで、ブレーキだけが欠け落ちていたのだ。

 

「好きって感情が嫉妬やら不安やらを呼び込むんだよな」

「それで相手をとっかえひっかえしてたら倫理的にもおかしいけど、そもそも自分自身が安定しないわよね」

「そう、ある程度信頼してさえすれば結婚相手に恋愛感情なんてなくたっていいはずだ!」


 まるで新理論を導き出す最中さなかの学者のように、俺たちは興奮していた。

 ふたりとも、そういう知的探求心だけは人一倍大きかったのだ。しかし、いつもならここで踏みとどまっていたであろう議論は、エチルアルコールによって思わぬ場所へいざなわれる。

 

「って言っても、今や橘くらいしか信頼できる奴なんていないんだけどな」

「まあ、私も……一瀬ほど信頼している人なんていないけど……」


 橘もそんな風に思ってくれていたのか。知らなかった。

 お互い様だが、橘がこんなに素直に他人を評価するのは普段ではあまりないことだ。

 それが酒のせいだと理性では分かっていても、嬉しかった。それは紛れもない本音だとわかったから。

 そして。

 その高まりが俺に人生さえ変えうる言葉を飛び出させた。




「じゃあする? 結婚」




「別にいいわよ」



「……そうか」


「…………ええ」



「「!?」」





 ────こうして、酒の勢いでふたりの共同生活は唐突に始まった。

 

 恋愛感情のない男女の同棲は果たして上手くいくのだろうか。

 話は再び一月後に舞い戻る。




 これは、東大生男女のぎこちないながらも暖かい、共同生活の日常譚である。


 



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