002 あれはまだ青く輝いていた春
「世界は広いんだな……」
「なに急に悟ってんの? 飲みすぎたか?」
隣に座る稲藤は、前髪を留める銀のヘアピンを光らせながら能天気に聞いてくる。
俺はもう身体がガチガチに固まっているというのに。
「聞いてないぞ」
「何が」
俺はそれに答えず、ぐるりと周りを一瞥する。稲藤はそれで察したとばかりに、左の掌に右の握り拳を落とす。こいつ、さては元からわかってたな?
「なんでこんなに美女ばかりかって? そりゃあこの俺がイケメンだから……」
「そうじゃない」
思わず食い気味に否定する。こいつと関わるといつもペースを乱されるのだ。今日に限っては、それが全く面白くない。
「なんでこんな男女比なんだ。人数が足りないって言うから普通半々だと思うだろ」
そう、この焼き鳥屋の大きなテーブルを囲んでるのは八人。そのうち男は俺と稲藤、たった二人だけ……。
「一瀬くんだっけー、学部どこなのー?」
「蒼士くんの友達ってみんなイケメンだよねー」
「スタイルいいー、身長いくつ~?」
こうしてる間にも矢継ぎ早に質問が飛んでくる。もうめちゃくちゃだ。
これ本当に全員東大から連れてきた女子か? もしかしてまだ生易しい方だったりするのか? だとしたら、もし私立なんて進学しようものなら俺は生きて卒業できなかったかもしれない。私立なんて行きたくても行けないが……。
「はいはい、こいつ全然女慣れしてないからみんな優しくしてあげてねー」
無視する俺の代わりに、稲藤が調子のいい笑顔で女子たちに答える。えーなにそれかわいいとボソッと聞こえてきて、一瞬背中がぞくっと震えた。
「ほら、お前もちゃんと話せって」
俺の耳元に小声でそう言われて、さすがに抗議しようとする。
「……」
ちらっと周りを見ると、にこにこした厚化粧×6が俺の言葉を待っていた。こんな季節なのになぜ俺は汗をかいている。乗り切るしかないのか……。
「法学部で、身長はこいつのちょっと上です。178だったかな」
俺が普段より少し高い声でそう喋ると、わーと一気に女の子たちが互いの顔を見合って盛り上がる。
さながらオークションに出品された動物のような気持ちだった。
「浩貴呼ぶと女の子の反応いいから助かるんだよね~」
「お前な……」
稲藤の言葉には妬みのようなものは微塵も滲んでいない。普段こいつが異性に困っていないのがよくわかる。それもそうだ。緋色に染まった髪に、犬みたいな人懐っこい顔。それでいて気が遣えるのだからこいつは異性ウケが甚だよろしい。つまりこの言葉は本心なのだが、それが余計に腹立たしかった。
それでもこうして稲藤の誘いに乗ってしまうのは、こいつのいる世界がどんなものか気になってしまうからなんだろう。
稲藤とはもう二年近くの付き合いになるが、普段の生活なんて殆ど知らない。元々、苗字の五十音順が近くて、入学式で隣になったのがきっかけだ。授業を一緒に受けて、その流れでメシを食べるくらいの繋がりくらいしかないのだ。
「好きな体位?」
・・・ん?
「私はうしろかな~」
「ええアレ痛いし気持ち良くなくない?」
「私は顔見えるから断然正常位だね」
「あー、わかる~」
いや、わかる~じゃねえよ。わかんない、全然わかんない。この状況が。
俺が友人との邂逅を回顧している隙に、席はすっかり猥談になっていた。
「蒼士くんはー?」
「えー、俺そういうの未経験だからわっかんなーい」
隣の稲藤が話を振られ、気持ち悪い幼げな声を上げる。
だが悲しいことに、気持ち悪いと思っているのがこの場で俺だけらしい。
「うそつきー」
「あれれーおかしいぞ~?」
「前も一人お持ち帰りしてたじゃーん」
お決まりの冗談のようで、彼女たちは笑って彼の肩を叩いている。
こいつが色んな女の子と関係を持っている倫理観バグ男なのはすでに知っていることなので、俺も今更驚きはしない。しかし、こんな話を人前で堂々としていることには心底驚いてしまった。もし話を振られたらどうすればいいんだ。
「一瀬くんは?」
振られた。
フラグ回収の速さが脊髄反射並みだった。
「やっぱ一瀬くんも正面派?」
……ふむ。
本物の未経験の俺はどう答えるのが最適解だろうか。数瞬の間、考え着いた結果は……。
「えー、俺そういうの未経験だからわっかんなーい」
「……」
ドン引きだった。空気は読むものじゃなくて吸うものだからな。
可笑しく誤魔化そうと稲藤のマネなんてしたのが間違いだった……。
「は、はは」
「一瀬くんって童貞なんだ……」
ぽつぽつとした小言が沈黙を埋めていく。店員さんすいませーん、切腹用の短刀ひとつください。
「こ、こいつすっげーピュアでさ! 実はずっと高校の時好きだった女引きずってんだよね。馬鹿だよなー」
稲藤がフォローしてくれたおかげでなんとか場は丸く収まったが、俺のライフはとっくに絶対零度に達していた。ちなみに、絶対零度はマイナス273.15℃。寒すぎるな、冬だから仕方ないか。
「俺、ちょっとトイレ……」
「お、おう」
小声で告げて俺はこっそりと店を出る。えげつない羞恥心で火照った身体には、心地いい寒さだった。今日の最低気温は12℃らしい。東京の冬の風が、俺にはとても暖かく感じられた。相対的には。
「なにやってんだろうな、俺……」
大きな溜め息を街に吐き出す。
──こ、こいつすっげーピュアでさ! 実はずっと高校の時好きだった女引きずってんだよね。馬鹿だよなー
十分前に聞いた稲藤の声が頭の中でただ反芻する。
その声が遠のいていくのと反比例して、彼女の声が鮮明に浮かび上がっていく。
──こーき! ねえほら、一緒に行こ!!
思えば、高校で友達の輪の中に入るきっかけを作ってくれたのはあの人だった。
俺がそんな彼女を好きになったのはある意味、当然の流れだったように思う。
「告白すら、させてくれなかったけどな」
まあどうせ未練なんてものは、死ぬまで続くわけじゃない。
だから無理に次の恋愛なんか探す必要などない。
「と、言い聞かせ続けてもうすぐ二年だが……」
自嘲するような乾いた笑いが零れる。いざ呟いてみると二年ってのは長いな。
生まれたての赤ちゃんが二歳になるな。それはそうか。
「ちょっと大通りでも歩いてみるか」
久々に感傷的になってしまっていたらしい。
なんとなくまだ帰りたくなくて、少し遠回りしてみることにした。
「うげ」
大通りに差し掛かると、街路樹に飾られたイルミネーションの光が目に飛び込んでくる。驚くべきは、その街行くカップルの多さだった。誰も彼も幸せそうに愛する人に愛を囁いている。ように見える。
感傷に浸るどころか、一周回って憎しみが沸き上がってきた。
全員爆散しないだろうかなんて考えてみたが、寧ろ虚無感に胸を埋め尽くされる。やめよう、あまりに醜い。
はあ。
小さくため息を吐くと、その水蒸気は街の空気で忽ち水滴に変わり、白を帯びて煌く景色に消えていく。
周りを見渡せば、会話に花を咲かせ、笑顔も咲かせた恋人たちからも白が漏れ出している。それはまるで雪が空に舞い上がっていくようだった。
ぐっと伸びをして、空を仰いでみる。千葉と違ってオリオン座さえ見えない夜空は、バケツをひっくり返したようにのっぺりして見えた。見入った俺は、思わずその場で立ち尽くす。
こんな退屈なまま、大学の四年間が終わって
「あ、ごめんなさい」
急に立ち止まったので、誰かが背中にぶつかってしまった。謝ろうと振り返る。
「こちらこそすみま……え」
「あっ、ひさしぶり」
この日俺は、彼女に再会した。
運命的なタイミングとしか言いようがなかった。
「た、
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