ナイトメア・ディスオーダー

植木 浄

第1話 臨月天光、悪夢よ終われ

 夏休みも終わりに近づいたある日。私たちは遊園地に併設されているプールからあがった。


「今日もたくさん泳いだね」


 真っ黒に日焼けした母が言う。日は傾きかけ、暑さもだいぶ落ち着いていた。遠くの方からヒグラシの鳴き声が聞こえる。


「帰る前にあれ行こうよ!」


 私が指さしたのは、このあたりでは有名なお化け屋敷。よく『本物が出る』とか、『入ると出口がなくなる』とか言われているが、実際に体験した人には会ったことがない。


「えー? あの、いわくつきのやつ?」

「いいのか? 本当に怖いぞ」

「うん、平気!」


 私は両親と手を繋ぎながら、お化け屋敷へ入る。中へ入ると空気が変わった。


「確かに、変な空気だね」


 私は呟く。みんなは急に静かになった。


「うわっ!」


 角を曲がるとき、作り物のお化けが飛び出す。父が驚いて声を上げた。


「きゃあっ!」


 その悲鳴に驚いた母も悲鳴を上げた。私はそんな二人が何だかおかしくて笑いそうになった。そして誰とはなしに、早足になる。私たちは半ば走り抜けるようにお化け屋敷を出た。


「ああ、楽しかった」

「うん、また来ようね!」


 帰り道、歩きながら言う母に、私はそう返事をする。都心から離れたところだからか、周囲は同じようなブロック塀ばかりだ。私はこの時、この願いは当たり前のように叶うものだと思っていた。けれど――


 一瞬の沈黙。何かが来る。


「あれ?」


 誰かが違和感に気付いた。次の瞬間。


「うわっ!」

「きゃっ」

「あっ」


 どん。地面が波打つように動く。地震だ。周りの人々がなぎ倒されるように地面にひれ伏す。人だけじゃない。さっきまでそこにあったはずの電信柱も、周りにあったブロック塀も、みんな大きな音を立てて傾く。


「地割れだ、逃げろ!」


 誰かがそう叫んだ。けれどその警告は間に合わず、たくさんの人がその割れ目の中に落ちた。けれど私は、それを深刻には思っていなかった。その時の私は、地割れの中に落ちても、この星の反対側から出られると思っていたからだ。


 やがて地震は収まった。近くの道路からは水が噴き出し、たくさんの人が怪我をしている。気づくと、私の両親はどこにも居なくなっていた。私の両親がいたはずのところには、いかにも重たそうなブロック塀が横たわっていた。


 誰も私の両親の行方を知るものは居なかった。私は一人、おいて行かれたのだ。


 だけど私は大丈夫。だって、これはただの悪夢だから――


              *   *   *


 ここは自宅の寝室。部屋の真ん中には大きな穴が開いていて、底はなく、無限の闇が続いている。


「この穴に飛び降りてね、目を閉じて、三つ数えると上に戻れるんだよ!」


 穴を覗きながら、あの子が楽しそうに言う。


「お手本を見せてあげますわ!」


 いつものお嬢様口調で、あの子が飛び降りる。あの子は見る見るうちに小さくなっていき、底なしの闇に飲み込まれそうだ。


「いち、にー、さんっ」


 あの子の姿が消えた。


「ほら、この通り!」


 気付くと、目の前にあの子が居た。


「僕も行ってみよーっと」


 見覚えのない男の子が、同じように飛び降りる。


「いち、にの、さーん!」


 男の子の姿が消えた。顔を上げると、男の子は穴の上に戻ってきていた。


「やったぁ! 面白いね!」

「はい、今度はあなたの番ですわよ?」


 あの子に言われ、私も飛び降りた。ひゅう……風を切る音と同時に、目の前が真っ暗になる。上を見上げると、あの子たちがこちらを笑いながら見ていた。そろそろ戻ろう。


「いち、に、さん」


 目を閉じ、三つ数え、目を開ける。しかし。


「あれ?」


 私はまだ落ち続けていた。見上げると、穴の入り口はさっきより小さくなっていた。何か間違えたのか? もう一度、目を閉じて数える。


「いち、に、さん」


 ひゅう……私はまだ落ち続けていた。見上げると、穴の入り口はもう点にしか見えないほどに小さくなっている。どうしよう、戻れない。その後も何度も目を閉じ、三つ数えるが、やはり目の前は真っ暗だ。


「オ、オ、オ、オ、オ」


 穴の奥から何かが聞こえる。身体の芯にまで響く、低い声だ。怖い、帰りたい――


「オ、オ、オ、オ、オ」


 だが、その願いが叶うことはなく、私の身体はそのまま無限の闇の中へ落ち続け――私は死んだ。


              *   *   *


 ここはリビング。私はいつものように母と並んで、出窓から空を見上げている。


「あ、飛行機! パパあれに乗ってるかな?」

「そうだね、乗ってるかもしれないね」

「乗ってたらいいなぁ。ねえ、ママ。パパはいつ帰ってくるの?」

「いつだろうね……」

「早く帰ってきてほしいね」

「そうだね……ママはもう、耐えられないよ」


 急に感情を失った母の声。驚いて母の方を見ると、母はゆっくりとこちらを向き、微笑む。


「サヨウナラ」


 ばたっ。次の瞬間、母は出窓を開け、飛び降りた。ぱん。まもなく何かが破裂するような音が聞こえた。うちはマンションの七階だ。きっとただでは済まない。私は恐る恐る出窓によじ登り、下を見る。


 そこには、母だったものがあった。手足はちぎれ、明後日の方を向いている。身体からは赤黒い風船のようなものが飛び出し、周囲を飾り付けていた。ただ一つ、生首だけが綺麗に残り、こちらを見ている。直前に見た、あの笑顔のままだ。


「ただいまー」


 玄関の方から父の声が聞こえる。あと少し耐えていれば……そう思った瞬間、目の前が白とグレーのチェック模様になり、気付けば私も母の後を追っていた。ぱん。肉体が弾けた。一瞬、全身が熱くなったかと思えば、今度は急に冷たくなる。


「ああ、なんで、どうして……」


 遠くから聞こえる父の嘆きを最後に、私の視界は真っ暗になり――私は死んだ。


              *   *   *


 今日は買い物の帰り道。私はベビーカーに乗せられ、母と帰宅している。


「あら――さん?」


 いつもの坂を下り始めた時、誰かが母に話しかけた。カチッ。ベビーカーをロックし、母と誰かが話し始める。


「それでね、私も――」

「そうなの? 信じられない!」


 どのくらい時間が経ったか。眠気で何度も視界がぼやける。その時だった。


 カラカラ。何かが転がるような音。雲の動きが妙に早い――いや、違う、このベビーカーが動いているのだ。


「あっ……あ……」


 声が出ない。身体も動かない。そうしている間にもベビーカーはどんどん坂を下っていく。


「でも、うちなんかは――」

「まあ、いいわねぇ」


 母とその話し相手は全く気付いてくれない。ベビーカーはもはや、誰にも止められないほど加速していた。このままいくと突き当りの壁に激突してしまう。目を瞑りたいのに、金縛りのせいで目を閉じることすら許されない。そして――


「ははははは」

「ははははは」


 ガン。二人の大きな笑い声を聞きながら――私は死んだ。


              *   *   *


 ここは高層ビルの屋上。びゅうびゅうと風が吹き付け、昼間だというのに寒さを感じる。


 空を見る。雲一つない、澄み切った青が視界を埋め尽くす。空に向かって落ちてしまいそうな、妙なむず痒さが全身を突き抜ける。


 下を見る。何も知らない人間たちが、のうのうと生きている。この世の富を循環させるためだけに生産された、生殖用の品種ども。私の苦痛など何一つ知らない、何一つ知ろうともしない、無知無能の愚民ども。


 全員死ねばいい。叶うなら皆殺しにしたい。けど、もういいのだ。私は解放される。お前たちは一生、生きるという苦痛を、命という呪いを受け続ければいい。生き続けて死ね。苦しんで死ね。


「貴方は海で死にました。貴方は山で死にました。貴方は事故で死にました。貴方は自宅で死にました。貴方は浴槽で死にました。貴方は火事で死にました。――私は屋上で死にました」


 助走をつけ、思い切り外に飛び出す。びゅう。強風が吹き付け身体が揺さぶられる。体中の血液が頭に上っていく。過去のどうでもいい記憶が紙芝居のように次々と浮かんでくる。これが走馬灯か。くだらない。


 地面が近づいてきた。いよいよだ。さあ、終われ、終われ、終われ。悪夢よ、終われ。


 ぱん――私は死んだ。


 なかの、とおねふりの皆目覚みなめさめ、波乗なみのふねの、おときかな。

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