第39話 笹川と越後屋

笹川は陣内と話したあと、越後屋に戻り、桂を探した。

別の店で商談をしている、ということだったので

水茶屋で待つことにした。

しばらくすると、桂が戻ってきた。

すこし酔っているようだ。商談後、宴席によばれたようだ。

「おう、笹川、すこしは良い案が出たのか」

「…はい。お話よろしいでしょうか。」

「うむ、言ってみろ。」

笹川は一呼吸おいてから話し出した。

「元祖千代町娘、という名前をやめたらどうか、と思います。」

「あん?何を言ってるんだ。千代町の娘の歌と踊り。その元祖じゃないか、

何が悪いんだ。」

「いえ、元祖というのがやはり事実と違います。それに今の名前だと

どうしても千代町娘の偽物のような感じが…」

そこまで話したところで、桂の右手が笹川の頬を張った。

バチン。

破裂音が響いたが、笹川はそこに立ち尽くし、逆にビンタを張った桂の方が

よろけてしりもちをついた。

しりもちをつきながら、桂は真っ赤な顔で吠える。

「何を言ってるんだ、お前は!実力はこっちの方が上なんだ!それを何が偽物だ!

ふざけるな!お前がそういう考えだから、全然客足が伸びないんだ!

そうか、お前のせいだ。お前がそんなんだからダメなんだな。

クビだ、クビ。荷物まとめて、出ていけ!」

酔いも手伝って桂は言い放った。

笹川は一言も返せず、立ったまま。

桂はようやく立ち上がると

「ふん!」と鼻を鳴らし、水茶屋に消えていった。

やっちまった。

笹川は立ち尽くしながら、蕎麦屋のことを考えていた。

自分が越後屋にくることで、表参道の一等地に店を構えられた蕎麦屋だ。

店が移転した際には、お前のお陰でこんな場所に店が持てたよ、ありがとうな、と

主人から声を掛けられた。

自分が丁稚のころから世話になっていた主人に、こんな形でも恩返しができたことを笹川は嬉しく思っていた。

しかし、今回のことで、自分が本当にクビになれば、蕎麦屋はどうなるのだろう。

損得勘定に煩い桂のことだ。

腹いせに何をするか分からない。

笹川は別の不安で一杯になった。


 * * *


桂に殴られた翌日、笹川はいつものように箒を持って水茶屋の店先から神社の参道までを箒で掃除していた。

越後屋に来てからの毎日やってきたことだった。

掃除が終わり、水茶屋に戻ってくると、時太郎がやってきた。

「笹川さん、越後屋を辞めるのかい?」

「誰からそれを聞いたんだ?」

「さっき桂様が、水茶屋の従業員を集めて話していたよ。」

そうなのか。

桂の怒り心頭は一日経っても収まらなかった、という訳だ。

それほどの怒りを買うとはちょっと思わなかったな。

笹川は着物の内側にしまった、封書がそこにあることを今一度確認して、

水茶屋の奥の桂の部屋に向かった。

トントン

「誰だい」桂の低いしゃがれた声だ。

「笹川です」

「…入れ」

「失礼します。」

「何だ、お前、未だいたのか」

「こちらをお渡ししてからと思いまして」

笹川は胸元から辞表と書いた文書を出した。

「フン、そんなもの。」といいつつ桂は文書を受け取る。

笹川は出来る限り腰を折り、一礼をすると大声で

「大変お世話になりました。思うような結果が出せず、ご迷惑をおかけしました。

私は本日をもってこちらを辞めさせていただきます。

つきましては参道の蕎麦屋は何とか引き続き、ご面倒をみていただけるよう

切にお願いもうしあげます。お世話になりました!」

「朝から、うるさいんだよ。大声で。

蕎麦屋のことをお前からがたがた言われる筋合いじゃないよ。さっさと出ていけ。」

蝿を追うように手を振られ、笹川はもう一度黙礼をして部屋を出た。

その後、世話になった多くの人に挨拶をし、少ない荷物をまとめて

越後屋を出た。

しばらくして、時太郎が後を追ってくる。

「笹川さん」

「おう、時太郎、世話になったな。」

「ううん。大したことないよ。それより、笹川さん、これからどうするんだい?」

「まだ決めてないな。昨日の今日だから。」

「そうかい。陣内さんのところに行くのがいいんじゃないかい」

「そうしたいが、さすがにそれはなぁ。越後屋と目と鼻の先だしな」

「確かにね。」

「それより蕎麦屋が心配なんだよ、俺が居なくなって迷惑かかんないかな」

「それね。朝、桂様がお話になった時も誰かが聞いてたんだけど、

問題ないみたいよ。」

「え、そうなのか?」

「うん。桂様はそろばん勘定重視でしょ。あの蕎麦屋、桂さんが貸している店の中で一番売上が良いんだって。だから、笹川さんが居なくなったからって、

蕎麦屋を動かしたり、辞めさせたりすることはないらしいよ」

「そうなのか」

それを聞いて笹川は心から安心した。

「ありがとうな。時太郎、ほっとしたよ」

「また、千代町娘の小屋で会おうよ」

「いつかな。」

そう言って、二人は別れた。

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