第九十三話 泥仕合
「レニー、マシュー。今のうちに距離を取っておけ……冷却が済んだら……」
『ああ……さっきからピリピリと肌に感じるよ……へへへ……』
「うう……すっごく怒ってますよね……これ……」
『あれだけやられたのですから当然です』
ジュウジュウと音を立て辺りを水蒸気で満たす巨大な魔獣。
それはまるで、雲海から顔を出す巨大怪獣のようである……いや、実際デカいのだが。
ヒッグ・ギッガは低く唸りながらこちらを睨み付け、身体を上下に動かして呼吸を整えている。距離を取り突進に備える我々を観察し、どちらを潰すか考えているのだろう。
ブシュウと音をたて、機体正面――顔に露出しているパイプから水蒸気を吹き上げると、より深く身体を沈め……――
「来るぞ! 備えろ!」
水底を蹴り、水柱をたてて勢いよくダムから飛び上がった。
地響きを立て、大地に降り立ったヒッグ・ギッガはそのままの勢いで真正面に向かって体当たりをする。
ヒッグ・ギッガの体重が乗った一撃は森に轟音を鳴り響かせ、その威力を知らしめる。
しかし、奴の体当たりを喰らってしまった気の毒な存在は我々ではなく、水場にたまった折れた木々であった。
『な、なんでえ脅かしやがって。お嬢さん、お疲れのようですねってかあ?』
「いや……まて。まてまてまてまて、これはまずいぞ!」
奴は乱心などしていない。奴が狙ったのはダムの骨組みとも言える巨大な倒木。
体当たりによって倒木の位置が大きくずれ、それまでダムを構築していた堆積物がメキメキと悲鳴を上げる――
――其れが何をしているかと言えば。
骨組みを失い、水圧に耐えきれなくなったダムが決壊した。
これまで貯まりに貯まりまくっていた水が泥や大量の木や石と共に流れ出す。
ヒッグ・ギッガが身体を浸せる程に大きなダムの決壊……見た目以上に溜め込まれていた堆積物が周囲を巻き込み土石流となって我々に押し寄せる。
「っく! マシュー……――」
『ああ、くそ、だめだ! 間に合わねえ!』
――避けろ!
しかし、言葉は間に合わない。俺達はあっという間に土石流に巻き込まれ、流されてしまった。
恐ろしく速く、重い水流にどうすることも出来ず、流れに弄ばれるままとうとう街道の対岸、壁のように切り立つ岩肌に叩きつけられてしまった。
「きゃああっ!」
『ぐぁああああ!』
不幸中の幸いはなだらかに流されたことと、岩塊や木等に巻き込まれて重篤なダメージを負う事がなかったことか……。
しかし、不幸もきちんと等しく来ているぞ。
ここは森から見れば谷底……上流からどんどん流れてくる泥の逃げ道が左右にしか無く、周囲に泥がどんどん堆積していく……そう、奴の大好きなフィールド、ヌタ場が広範囲に渡って生成されたような状況だ……。
『ちくしょう! 泥に足をとられてまともに立てねえ!』
どれだけダムに堆積していたのだろう。
はてがないほどに流れ込む泥は俺達の足首まで埋め尽くし、完全に身体の自由を奪ってしまった
『GuYWOOOOoooOOooooNnnN!』
今……一番聞きたくない咆哮をセンサーがとらえる。
ああ、こちらに向かい嬉しげに突進をするヒッグ・ギッガだ。
オルトロスに迫る巨体をどうにか逸らそうと、俺もレニー
『ぐあああああ!!!』
鈍い金属音と共にオルトロスが宙を舞い大地に叩きつけられる。
「マシュー!!」
「スミレ! オルトロスは、オルトロスの損傷は!? マシューは無事なのか!?」
『落ち着いてレニー、カイザー! パイロット……マシューは衝撃に寄る軽い脳震盪で昏倒中……ですが、問題有りません。オルトロスは直撃を受けた左胸部及び左脚部に中度の損傷が見られますが、急速修復で復旧可能なレベルです。ただし、しばらくの間動きが制限されますね……』
この世界の機兵から見れば恐ろしいほど頑丈なオルトロスにそれ程のダメージを与えるなんて……やはりあの質量は驚異だな……。
奴は吹き飛ばしたオルトロスにとどめを刺すべく頭を低く下げ、突進の体勢を取っている。いくらオルトロスと言えどもこれ以上のダメージはまずい。それに……マシューが気絶しているんだ、どうにか止めないと!
「オルトロス! 動けるか!?」
『ぐう……た、立てるけどあとちょっと無理~……』
『上半身はなんとかだけど、脚が上手く動かないよー』
まずいなこれは。何か無いか……何か、何か無いのか……!
考えている間にも奴はオルトロスへ突進する力を溜め続けている。早くなんとか、何か何か無いのか!
「くそ! 後少し、後少し奴のもとに手が届けば……!」
「伸ばした手が届かないなら……もっともおっと伸ばせば届くじゃ無いですかあああああ!!」
俺が考えあぐねて迷っている内に、業を煮やしたレニーが拳を飛ばす。
「そうか! ジェットガントレットか! でかしたレニー!」
「とっどけええええええええ!!」
両手から放たれた拳が、今まさにマシューに飛びかかろうと地を蹴ったヒッグ・ギッガにたどり着き首元に絡みつく。
その勢いに引かれ、踏ん張りが聞かない俺は盛大に転んでしまったが……おかげでオルトロスへの攻撃を止めることが叶った。
『GYWooooooOOOOoooN!!』
「きゃああああああ!!」
顔に絡みつくガントレットを嫌がりヒッグ・ギッガが左右に顔を振る。
その力は凄まじく、俺達の身体も泥の上を右に左にと引きずられてしまう。
「レニー! ワイヤーを収納しろ! このまま奴の背中に張り付くんだ!」
「そ、そうか! ええい!」
ギュルギュルと鈍い音を立てワイヤーが収納されていき、ヒッグ・ギッガとの距離がぐんぐんと縮まっていく。
背中に乗れればそれは俺達のチャンスとなるが、この状態は奴にとってもカウンターを当てる絶好の機会だ……気づくなよ……気づくなよ……気づくなよ――
しかし、現実は無情だ。背後から迫る俺達の気配を察したのか……いや、ワイヤーで引っ張られているのだから気付かないほうがおかしい。
ヒッグ・ギッガはくるりと顔を向け頭を下げて迎撃態勢を取った。
「やはり気づかれてしまったか!」
しかし、今更ワイヤーの収納を止めることは出来ない。止めたところで的になるのは変わらないからな!
「ええええい! もう、なるようになれええええ!!」
レニーの雄叫びと共に身体が浮かび上がり顔が迫る。
奴の瞳がギラリとこちらを睨みつける。ダメだ、間に合わない! カウンターの頭突きがくるぞ! ワイヤーの開放を……だめだ、間に合わない! スミレ、防御シールドを前面に――
『……てっめえ! あたいのことを無視してんじゃねえぞ! 一回遊んだら終わりかよお!』
――衝撃に備えよう、そう思った瞬間、ヒッグ・ギッガが咆哮を上げて身を捩った。
その反動で機体が大きく横に振られ、地面に叩き付けられる瞬間……勇ましく立ち上がるオルトロスの姿をカメラが捉えた。
オルトロスはいつの間にか立ち上がり……ヒッグ・ギッガの脇腹にナイフを突き立てていたのである。
「目が覚めたのか、マシュー!」
『ああ、おかげさんでな! おい、レニー! 泥遊びしてる場合じゃねえぞ、今のうちだ! 速く背中によじ登れ! あたいも直ぐに行く!』
「もー! 誰のせいでこうなったのさー! でも、ありがとう! お陰でたすかったよっと!」
ああ、そうだな。このチャンスを逃すわけには行かない。再びワイヤーを収納し、その勢いに乗って背中に取りつく。
背中に取り付き、両足をしっかり奴の背中に踏みしめ、落ちないようにワイヤーを掴む。
『っしゃ! あたいもこのまま上る――なんだこりゃ? かってえぞ!?』
「どうしたのマシュー……っきゃ! 暴れんな! このっ!」
ヒッグ・ギッガの身体にナイフを突き刺し、そのまま登ろうとしたマシューだったが、上手く刺さらないようで首を傾げている。
『わっかんねえ……さっき脇腹にはすんなり刺さったんだが……む、こりゃあ……生意気なことをしやがるぜ』
『カイザー、見て下さい。ヒッグ・ギッガの体表面についた泥が高温により変異し未知の物質に変化しています』
「これはまさか……そのために泥に飛び込んでいたってのか?」
まったく、次から次へと面白いことをしてくれる……! けれど、残念だったな! 刺突武器の出番はもうおしまい、ここから先は打撃勝負だ!
「レニー、マシュー。中々に面白い物を見せてもらったが、恐れる必要はないぞ」
『一体どうするってんだ?』
「こうするんだ! レニー、ワイヤーを巻き取れ! 奴の首を締めるぞ! スミレは脚部の出力調整を頼む! 落ちないように踏ん張るからな!」
脚部のコントロールを返してもらい、レニーには腕部に集中してもらう。
「よーし、力比べいっくぞおおおおお!」
レニーの掛け声とともにナックルは再びワイヤーを収納し……首に絡まったままのそれがヒッグ・ギッガを苦しめる。
『GWeeeYWoooOOoooN!』
ワイヤーの強度はかなりのもので、メキメキと音をたてて首を絞めあげていく。
身体を左右に大きく振り、俺を下に落とそうとするが……そうはいかないぞ。
ガントレットが首を、俺の足が背をしっかりと押さえつけている。簡単には落ちてやらん!
その間にも首はどんどん締まっていき、ヒッグ・ギッガは堪らず前足を曲げ頭を泥にうずめた。
『レニー、カイザー! やるじゃねえか! さんきゅー!』
これをチャンスとマシューが背中に飛び乗り、その背に深々と両の手でそれぞれ握った1対のナイフを突き立てる。
『おるぁあああああ! どうやら背中は強化しきれてなかったようだな! はっはー! これであたいも落ちねえぞ! さあ、こっからは楽しいダンスの時間だ!』
ヒッグ・ギッガはなんとかして俺達を落とそうと身体を動かすが、首を絞め続けているワイヤーと背に刺さるナイフをどうにも出来ないでいる。
暴れれば暴れるほど体温は上昇し、徐々にその動きは鈍くなっていく。しかし、それでもまだとどめを刺すには至らない。さあ、このまま根比べだ――と、行きたかったが、そう簡単には行かないようだ!
『うわっちっちー!』
『カイザ~熱いよ~』
『やべえぞカイザー! 背中の温度がどんどん上がってる! このままじゃ――』
「カイザーさん! このままじゃあたし達蒸し焼きになっちゃいます!」
『カイザー! 二人の言うとおりです! ヒッグ・ギッガの体表温度、80度を越え現在も上昇中!』
周囲に高温の蒸気が充満していく。我々はある程度の極限状態には耐えられるようになっているし、コクピット内も環境が維持されるようになっているが……このまま温度が上昇することを考えると……ここに乗り続けているわけには……いかないな!
「よし、マシュー、もう暫く耐えられるな?」
『ああ……後少しなら……いけるよな、オル、ロス!』
『我慢くらべだなー?』
『負けないぞ~』
「よし、レニー! プランB開始だ! 今回のエスコートは我々が請け負う事になるが……いいか、転ぶなよ!?」
「もう! ここは任せたぞ! ですよ!」
幸いな事に奴の熱で周囲の泥が固まり、もう足を取られて悩まされることは無くなっている。これなら当初の予定通りに事が運べそうだ。
ワイヤーを緩め、ストレージに収納して速やかにヒッグ・ギッガの背から退避する。
奴はまだ背中のマシューを気にして暴れていたが、挑発するようにそこらに落ちている石を顔に何発か当ててやるとようやく俺達の存在に意識を向けた。
「お嬢様、そろそろパーティーも終盤でございます。プレゼントを用意してますのでええええええ! ついてこおおおい! ヒッグ・ギッガアアアアア!」
」
レニーが恭しく……いや、気合十分に宣言し、奴に背を向け走り出す。
さあ、ラストラン、今作戦最後の鬼ごっこの始まりだ!
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