三十九

 おばあさんの家の庭に眩しく差し込む太陽の光。物干し竿にぶら下がり、ゆらゆら揺れる洗濯物。どこにでもあるような風景なのですが、夢達に取っては掛け替えのない瞬間です。

「早いな」

 ケンシが朝早くに干した洗濯物は、日が傾く前にはもうすっかり乾いていました。ケンシは物干し竿からシーツを固定している大きな洗濯ばさみを取り外すと、縁側に置いてある籠の中にガチャッと投げ入れました。そしてそのまま縁側の奥にちょこんと座っているアヤトに目をやりました。アヤトはキラキラとした瞳でケンシをずっと見つめていて、目が合うと喜んで顔を綻ばせ、小さな両手を上下にブンブン振りました。どうしてなのか分からないのですが、アヤトはケンシと目が合うと必ず大きな笑顔になるのです。それだけではなくケンシが部屋の中を移動すると、まだ立つ事ができないアヤトは一生懸命に手を使って体の向きを変え、ケンシの姿を目で追い掛けるのです。洗濯の手を止め見つめるケンシは、今すぐにでも部屋に上がって両手一杯アヤトを抱き締めたい、そんな愛おしさを胸の奥で感じ、自然と頬が緩みました。

 そしてケンシは笑顔のまま、部屋の奥へと視線を寄せました。反射した太陽の光が部屋の中を十分に照らしていて、ケンシの瞳に映したのは悲しくて懐かしい介護ベッド、そして、介護ベッドの上部を起こして背凭れにし、そんなアヤトの背中を愛おしく見つめる夢でした。穏やかな気持ちでアヤトを見つめていた夢はそのまま顔を上げると、ケンシに大きな笑顔を向けました。

 大切な人の笑顔はいつも、心に幸せの花を咲かせてくれます。

 ケンシは夢にニカッと笑みを向けると、洗濯物の取り込みを再開しました。



























「大丈夫かい? 夢?」

 オッカが夢の額に手を当てると、表面的な体温上昇ではない、体の奥からくるような熱を感じました。呼吸も少し荒くなっていて、閉じた目蓋には力が入っていました。

「熱冷ましのシート、冷蔵庫に」

 オッカがフクにそう言うと、フクは台所へ駆け込みました。

「病院で診てもらうからね。頑張るんだよ夢」

 そしてオッカは夢を安心させようと、「大丈夫。大丈夫」と何度も声を掛けました。しかし、オッカ自身の心を蝕む不安な気持ちは、どうしても隠せないでいました。







 夢の肺炎は病院の治療ですぐに治す事ができました。しかしそのダメージは、ALSに良くない影響を与えてしまったのかもしれません。退院後の夢は以前よりも呼吸をするのが辛くなっていたのです。そのせいなのか、肺に空気を送る時は肩に力が入ってしまい、吐く時は力の加減がコントロール出来ないので、脱力によって肺の中の空気を出し、まるで全力疾走した直後のような肩の動きをするようになりました。

 それは、夢でなくても分かるほど顕著に現れた呼吸筋の衰えでした。呼吸が出来ない苦しさは、健常な人でも理解する事が出来ます。だからこそ、その想像を絶する恐怖や苦しみを夢は抱えているのだと、ケンシ達は知る事が出来ました。

 夢の幸せを願うケンシ達は、自分達がどうしたいか、自分達の未来がどうありたいかではなく、大切な夢の幸せを叶えるため、全てを注いでゆきました。

「だからケンちゃん、その飛車は待ってって言っとうやん!」

「何でお前が勝つまで俺が待たなあかんねん! もうええわ変われフク」

「サトの酒は美味ぇな。ケンシは弱いからやらん」

「誰が、はぁ?」

「うるさいねぇアンタ達は。ハツコが鍋持ってきたら始めるよ。どきなフミ」

「あ、うん。あ、来たよ鍋!」

「待たせたね。でもアンタの魚、ほんと良い出汁が出たよ」

「当然さ。ねぇ、夢」













「一回先生に診てもらうわ」

 不安や焦りの混じるケンシの声。ケンシは卓袱台の上の携帯電話を手に取ると、在宅医療の医師に緊急の電話を掛けました。










「延命はせんと最後は家でって、夢とわしらでそう決めたやろ!」

 家の外。涙を流すオッカとハツエにケンジは強く言葉を掛けました。そして、ケンジの頬を熱い涙が伝いました。それは、見送る覚悟を意味していました。








「ケンシ、先生がもうって、みんなを呼んで、お願い。あたしは」

「うん。オッカが側におったら夢も喜ぶから」

 夢の頑張りは三日間続きました。

 その中で夢は大切な事を知れました。

 それは、ミロクおばあさんの苦しみです。

 だから夢の心は今、満たされています。

 そして、許さないと決めた自分自身をもう一度見つめ直しました。

 介護が始まってからずっと、夢は心に決めていた事がありました。呼吸が出来ない苦しみを、おばあさんに絶対負わせたくないと。だから夢は、最後の選択をした自分自身を許せなかったのです。

 でも、今の夢の気持ちの中に悲しみはありません。

 天国へ行って謝るの。

 夢は、みんなに会える事を夢見て頑張って生きてきたのです。

 だからこそ夢は今、携帯電話を強く強く両手で握り締めています。そしてそこに写されているのは、あの日に残した一枚の写真でした。


 文庫本サイズのホワイトボード。

 おばあさんの字は角張っていて、とても優しい字でした。

『よくがんばったね ありがとう』














 ゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッ

 軽トラックはケンジとハツエを乗せてオレンジ通りを走ります

 ゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッゴトゴトッ

 真夏の輝きが町を熱して瞳を閉じたハツエの心を焦がします

 タッタッタッタッタッ

 フミが走る石畳の道は大きく曲がって先が見えません

 タッタッタッタッタッ

 いくら拭っても溢れる涙でよけいに先が見えません

 キィッキィッキィッキィッキィッ

 油の乾いたチェーンの音はペタルを踏み込むフクの耳には届きません

 カタカタッカタカタッカタカタッカタカタッカタカタッ

 きしむ自転車のどこかで鳴る何かの音もフクの耳には届きません

 ドドッドドッドドッドドッドドッ

 壊れて止まりそうなぐらいに波打つケンシの鼓動は激しく体を叩きます

 ドドッドドッドドッドドッドドッ

 怖くないよと伝わるように強く握った細い手にケンシの鼓動が響きます

 ぽろぽろぽろぽろぽろ

 愛を込めて頭を撫でるオッカの手のひらは仕事でかっこよくなりました

 ぽろぽろぽろぽろぽろ

 愛を込めて細くなった腕を擦るオッカの手のひらは生きて力強くなりました

 キラキラキラキラキラ

 夢の目蓋から溢れる光は美しきこの世界に生まれてきた喜び

 キラキラキラキラキラ

 太陽のような笑顔を残し、夢は旅立ちました。

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