三十七
夏も過ぎると体が溶けるほどに高かった熱さは幻のように消え、外でも過ごしやすくなりました。ただ、冬から春に掛けて感じる風の期待感や爽快さとは違い、光の色はぼやけてゆき、心は内を向くような、そんな気持ちになります。
でもそんな事は御構い無しのオレンジ通り。今日も賑やかな魚屋の店の奥から、魚を盛ったザルを手にしたオッカが出て来ました。オッカは夕食の買い物に来る客に備え、鮮魚の盛り付けと陳列で大忙しでした。いつもならこの時間はケンシが店番をしているのですが、今はサトの街へ行っています。ケンシは夏に入った頃から運転免許を取得するためサトの街の自動車教習所へ通い始めていたのです。
「あれ、どうしたんだい?」
陳列棚を見ていたオッカは、コロコロコロと地面を転がるタイヤの音が聞こえ、何気無く振り返ると、買い物に来た夢が笑顔で立っていました。そして夢の手には、なでしこの花の模様が綺麗な紺色のシルバーカーがありました。夢は、おばあさんのシルバーカーと一緒に居ると温かさを感じ、一緒に買い物をしているような気持ちになれるのです。心が挫けそうになった時も、側に居るだけで支えてくれるのです。そうやって頑張って生きる夢は、キラキラ輝いていました。
「お買い物」
夢は朗らかな笑顔をオッカに向け、そう答えました。あれから二人は夕食を一緒に取る事が日常になっていました。
「この子も喜んでるね。出番だっ、て」
オッカは夢が押してきたシルバーカーを優しく撫でながらそう言いました。
「こうやって一緒に移動すると色んな事が分かってきたわ。重いドアとか段差とか、おば様きっと大変だったんだろうなって」
夢は新しい生活を過ごしてゆく中で、気付けなかったおばあさんの苦労が少しずつ見えてきました。その日日を想い話す夢の声には寂しさが混じっていました。
「あ、オッカさん、お願いがあってきたの」
夢はそう言うと、背負っていたリュックから一切れの紙を取り出しました。
「めずらしいね。なんだい、お願いごとって?」
オッカはそう言いながら、夢が差し出したその紙を受け取りました。
「野菜に牛肉の薄切り、木綿に玉葱、肉豆腐だねこれは。家の魚も、買い物かい?」
「うん。今日ちょっと丘に行こうかと思って。帰るのに少し時間が掛かると思うの」
夢の微かな変化に気付いたオッカが顔を上げると、夢は笑顔で話していました。しかしオッカは夢のその笑顔の奥に、迷惑を掛けている罪悪感があるのだと感じました。夢が何もないように笑うのは、オッカが無理をしないように、軽い返事で断れるようにと想っているからです。もちろんオッカは断りません。夢の願いなら何だってやるのです。それがオッカの幸せなのです。
「やっとあたしの出番さ! 任せときな! ここにいれば何でもあるから簡単さ!」
オッカは夢の罪悪感を吹き飛ばすように、元気にそう声を上げました。
「ありがとう」
言葉がなくてもオッカの気持ちが伝わった夢は、大きな笑顔になりました。そうして二人の買い物は、今日からオッカが行うことになりました。
夢は、自分がALSだとみんなへ告げたあの日、もう一つ話していた事がありました。おばあさんと同じように、みんなに迷惑が掛からない限界の所まで自分の力で出来る事をさせてほしい。みんなにそう伝えていました。
夢は、おばあさんが見てきたこの世界を、
残酷で美しいこの世界を、
どうしても自分の瞳に、自分の心に焼き付けておきたかったのです。
みんなは夢の願いを心から受け入れました。ただ、みんなは一つだけ条件を付けました。「何かあれば必ず誰かに話すように」夢達はそんな約束もしていました。きっと夢なら辛くても自分の気持ちを隠す、みんなはそれを心配していたのです。
だからオッカは今、飛び切りの幸せを感じているのです。大好きな夢が自分達を頼ってくれたからです。そんなオッカに夢は笑顔のまま視線を少し落とし、唇をギュッと閉じました。
「人はね」
突然オッカの声が聞こえ、夢が顔を上げると、自分を真っ直ぐ見つめるオッカがいました。
「後で気付いて、ジン、と感動することもあったり、後で気付いて酷く後悔することもあるのさ」
オッカは静かにそう話すと、夢に優しく頬笑み掛け、想いを伝えました。
「夢が自分の気持ちを話せなくて後悔するのは、夢だけじゃないよ。苦しんでるあんたに気付いてやれなかったみんなも後悔するんだよ」
それは、何よりも嬉しいオッカの言葉でした。俯いた夢は唇をギュッと閉じると、幸せな気持ち一杯に頬笑みました。そして夢はそのまま顔を上げると、大きな笑みを零しました。
「ありがとう。オッカさん。えっと、じゃあ、もう一つ、いい?」
夢が呟くようにそう聞くと、オッカは笑みを向け「うん」と頷きました。
幸せな気持ちが心を満たしてゆくのを、二人は感じました。
夢は視線を落とし頬笑むと、少しずつ、ゆっくり、話し出しました。
「今日の肉豆腐もそうなんだけど、今日から料理を代わってもらおうかなっ、て。あの」
夢は自分の右手を腰の所まで持ち上げると、その右手を見つめました。そして夢は顔を上げ、悲しみや恐怖を一生懸命隠した、素敵な笑みを浮かべました。
「フライパンがね、」
するとオッカはその言葉を遮るように、強く、優しく、夢を抱き締めました。
綺麗に結んだ長くて黒いやわらかな夢の髪は、宙にふわりと舞いました。それは、感情に突き動かされたオッカの気持ちの強さを物語っていました。そして、まだ人の少ないオレンジ通りに涙の声が響きました。
「よし。任せときな! あんたの大好物なんっでも作るよ!」
「ありがとう、オッカさん」
目蓋を細め頬笑む夢は、オッカの愛に抱かれ、温かな気持ちになりました。涙を流すオッカが強く抱き締めれば抱き締めるほど、夢はその愛の深さを感じました。
「ごめんよ。でも今離したらあんたがどっか行っちまいそうでさ」
オッカが心のままそう話すと、夢は瞳を閉じたまま「フフ」と笑みを零しました。
「ここが好き。みんなが好き。オッカさんもおば様も好き」
夢はオッカの腕の中。
「ありがとう。オッカさん」
夢の心を満たした幸せは閉じた瞳から溢れ出し、キラキラ、キラキラ、頬を伝いました。
ありがとう。オッカさん。
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